エルサレム市内
「メシアの死」
マタイ27章45~56節
~マタイ福音書連続講解説教 103~
主は十字架上で7つの言葉を発しておられます。
【1】御父へのとりなしの祈り(赦しのことば)
●「父よ。彼らをお赦し下さい。
父よ。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」
(ルカの福音書23:34)。
【2】約束のことば。
●「まことに、あなたに告げます。
あなたは、きょう、わたしとともにパラダイスにいます。」
(ルカの福音書23:43)
【3】思いやりのことば。
●「女の方。そこに、あなたの息子がいます。」
(ヨハネの福音書19:26)。
●「そこに、あなたの母がいます。」
(ヨハネの福音書19:27)。
【4】神に見捨てられたことば。
●「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」
(マタイの福音書27:46)。
【5】死の苦しみのことば。
●「わたしは渇く。」(ヨハネの福音書19:28)。
【6】救いの完成のことば。
●「完了した。」(ヨハネの福音書19:30)。
【7】父なる神にゆだねることば。
●「父よ。わが霊を御手にゆだねます。」
(ルカの福音書23:46)。
十字架上での6時間の内、
朝9時~昼12時までは人からのあざけりを受け、
十字架上での第1~3言を語りました。
昼の12時~午後3時までは神からのからの怒りを受けた3時間です。
そこでは十字架上の第4~7言を語っています。
その3時間は、人類史上の特異な時間帯となりました。
第4番目の十字架での言葉に注目して見ましょう。
「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」
ここで主は神のことを「父」と呼んではおられない。
そこに徹底された父と子の断絶がありました。
「全地が暗くなった」とその3時間が記録されていますが、
父なる神からも見放された、稀有の時間帯だったのです。
ここでどうしてイエスが
そのような敗北とも受け止められる言葉を発されたのか考察してみましょう。
神の子として、十字架での死とその後の復活をすでにご存知で
弟子らにもそれを伝えていたのに。
どうして今更、
「どうしてわたしをお見捨てになったのですか」
なんて嘆きの言葉を言われたのか?
❶預言成就のため
詩篇22篇1節をそのまま引用した言葉です。
この22篇はメシア詩篇として、
その十字架での苦難が克明に預言されている詩篇です。
人々からの嘲り
喉の渇き
肉体の痺れや
関節が外れること
脱がされた衣服が分けられたり
くじにかけられることなどが
預言されています。
6〜8節、14〜15節、18節など。
❷人間イエスの魂の叫び
イエスは100パーセント神であると同時に
100パーセント人間であることを思い出しましょう。
それまでモーセ律法に一点たりとも違わずに
完璧な生涯を歩んで来られた主です。
その正しさ、完成度に対して
耐えねばならない苦痛、恥辱はどうでしょう。
そのギャップの大きさ、
その理解しがたい理不尽さ。
人間なら誰しもが
「一体どうしてこんな目に遭わねばならないのか」と嘆くはずです。
主の言葉はまさにその人間としての
魂の叫びでした。
主は決してスーパーマンやサイボーグのような魂のないものでなく、
私たちと同様、喜怒哀楽を感じられる人間なのです。
正しさや権利が蹂躙された時に感じざるを得ない
疑問や怒りを共有されているのです。
❸私たちへの問いかけのため
完璧だった無実の人が十字架で苦しみを受けている
その理由が私たちに問いかけられています。
それは当時のエルサレムにいた目撃者ばかりが対象でありません。
十字架の福音を聞く現在の私たち一人ひとりに対する問いかけです。
貴方はこの問いにどう向き合いますか。
「私の罪の代わのためです」
と告白できる人は幸いです。
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