メシアの復活
Jun
8
マタイ28章1~10節
~マタイ福音書連続講解説教 105~
ホサナキリスト教会・聖書広場からの抜粋です。
メッセージ・ノートはこちらから:
http://wdx.hosannamin.org/whatsnew/view/8110105
イエス様が復活されました。
明け方早い時間に地震が起こり、墓石が転がされ、入り口が開きました。
天使たちが現れて、ローマの番兵たちはあまりの恐怖に腰を抜かし、
死人のようになって硬直したと記録されています。
❶ 4福音記事の調和について
4つの福音書にある復活物語を比べると、
一見して矛盾しているような場面があります。
朝早く墓に訪れに行ったのは、
マタイ28:1では、二人のマリヤの名が記されています。
マルコ16:1では、その二人にサロメ(ヨハネとヤコブの母親)が加わり、
ルカ24:10では、サロメがいない代わりにヨハンナの名前があります。
ヨハネ20:1では、マグダラのマリヤだけが墓に行ったことになっています。
聖書の霊感(神の霊によって書かれ、それゆえ誤りははい)を信じない人たちは、
これらの相違が矛盾であると指摘して、霊感を否定するのです。
それは「編集者の自由裁量の原則」
を見逃している短絡的な見解です。
福音書記者たちは、
それぞれの視点からそれぞれの印象に残ったことを選択しているのです。
そこには編集上の省略や総合的な記述など、
各人に任された記述手法があります。
4つの福音書を突き合わせてみると、
次のような順序で復活したイエスが女性たちにお会いしているのが分かります。
⊛先ず、マグダラのマリヤだけが一人で墓に向かっている
⊛墓石が動いているのを見て、弟子たちのところに走って戻って報告した
⊛ヨハネとペテロが確かめに墓まで走っている
⊛後から再び訪れたマグダラのマリヤは諦めきれずに墓の入り口で泣いている と、二人のみ使いに出会う。
⊛続いてイエスに出会う。その時はイエスにすがりつくことは許されていない。
ヨハネ20:17
⊛そのあとで、ほかのマリヤ、サロメ、ヨハンナの3人の女性たちが墓を訪れている。
⊛そこでみ使いとイエスに同様にして合っている。
⊛その時は彼女たちはイエスの足を抱き、礼拝をささげている。マタイ28:9
❷ 大祭司としてのイエス
初めに会ったマグダラのマリヤはイエスの体に触ることが許されなかったのに、
その後にお会いした他の女性たちに許されているのはどうしてでしょうか。
その時間に何があったと考えられるでしょうか。
レビ記の16章には、大祭司が贖罪の日(ヨム・キプール)に行う
年に一度の贖いの儀式規定が記されています。
その日、至聖所に入って民全体のために贖いの血を注ぎかけるのです。
その際、儀式が始まってから終わるまでは誰も大祭司に触れることは許されていません。
人から触れらると汚れたものとされ、
至聖所での清めの儀式が出来なくなるとされていました。
ここでイエスは天そのものにお入りになり、
私たちのために動物の血ではなく、ご自身の血を携えて
父なる神の御前に進み出られ、
私たちのために贖いを成し遂げてくださったのです。
Mマリヤからその他の女性たちにお会いするまでのその時間内に、
これらの贖いの務めを天において果たされたと考えられます。
地上生涯において主イエスは預言者としての働きをされました。
イスラエルの系譜に属する預言者として、
人々から拒否され、最後は十字架の死を遂げられたのです。
それ以後の主の働きは主に大祭司のそれとなります。
私たち信者のためにとりなしの祈りを神の右の座において
常時していてくださっています。
そして将来、地上に再臨される際には
全世界をエルサレムから統治される王として君臨されます。
❸ ガリラヤでお会いできる
復活の主イエスと弟子たちとはガリラヤで会うことになるとみ使いが告げています。復活の主もそこで弟子たちと会うと約束されています。マタイ28:7、10
どうしてわざわざ「ガリラヤで会う」ことが強調されたのでしょうか。
弟子たちも女性たちも全てガリラヤ出身の人たちです。
そして主イエスの働きのホームもガリラヤでした。
エルサレムでの宣教は、祭りのときに都上りをした場合でしかなく、
いわばハレの日の非日常体験です。
つまり彼らにとっての日常生活の場がガリラヤであったのです。
そこで主イエスにお会いする、と約束されています。
私たちのイエス様は
日曜日に教会に来ている時だけ神なのではありません。
月曜からの週日、あなたの仕事場や家庭生活、
そのありふれた日常生活の場においてあなたとお会いし、
あなたに語り掛け、
あなたと同行される神なるお方であられます。
エルサレムにて復活の主に初めてお会いし、
やがて聖霊降臨もそこで50日後に経験した弟子たちでした。
その特別な霊的祝福は、
ありふれた彼らのガリラヤでの生活において日常化されていくのです。
私たちも同様に、変哲のない日常生活の場に
主イエスをお迎えしようではありませんか。