「私たちの主イエスキリストとの交わり」
Jul
17
山形県大江町キリスト教会での日曜礼拝・説教要旨です。
Ⅰコリント1章4~9節
「私たちの主イエスキリストとの交わり」
私たちキリスト者とは、
「主キリストとの交わり」に入れらたものであるというのが、
聖書の教えるクリスチャンポジションである。
その「交わり」についてはベクトル表示を例にすると分かりやすいかもしれない。
❶ベクトルの始点~交わりの発端:「そのお方の召しによって」(9節)
私たちは誰一人として自分で選んでクリスチャンになれたものはいない。
主が私を貴方を選び、声をかけ、招いて下さったのだ。
それは自らにふさわしい功績などがあったわけではなく、
それらすべてに先行する神から「与えられた恵み」(4節)ゆえに実現したものなのである。
その恵みについては多くの場合、
感知できないほど私どもの神経はマヒし、
感知できる感受性を見失ってはいないだろうか。
こうして生きていること自体が、生かされている恵みである。
❷ベクトルの長さ~交わりの豊かさ:「神の御子・主イエスキリスト」(9節)
パウロはその与えられた恵み故に神に感謝していると言うが、
なぜなら
⑴その豊かさゆえに(5節)
~「ことばと知識」において豊かなものとされたという
私たちはどれほどその豊かさを体験し、
味わっているだろうか。
それは聖書にどれだけ親しみ、
その教えに精通し、
そのみことばを通じて
真の知識であるキリストを経験していることにつながっている。
コロサイ2:3.
⑵その確かさのゆえに(6節)
~コリント人のキリストにあるあかしが確かになったという
その確かさのゆえに聖書を雄弁に説く教師らが活躍した。
パウロやアポロがその例。
彼らはコリント人の成長、信仰の確立のために用いられ、
水や種を蒔いた役割を担ったに過ぎず、
成長させたのは神」(3:7)であることを忘れてはならない
❸ベクトルの終点~交わりの完成:「神は真実であり」
主との交わりが豊かにされ、確立されていくとき
その「結果」(7)はどうなるのであろうか。
1⃣「どんな賜物にも欠けることがなく」
それは個人でなく、教会に賜物が欠けることがなくなるという意味。
信者がそれぞれ与えられている賜物を教会建設のために発揮するようになること。
コリントの教会には賜物を誇る輩がいたようであるが、
本来の目的はキリストの体の建て上げのために
神から信者にギフトとして与えられたものである。
Ⅰコリント12章
2⃣「熱心に私たちの主イエスの現れを待っている」
主イエスの再臨の待望する姿勢が
「ことばと知識」に精通し、成熟したキリスト者の姿であると教える。
歴史に介入される神、
その体系を理解してい行くときに
個人の信仰生活が
神の世界における救済事業とリンクされ
自らがその救済史において位置づけられる。
その時各人は、
神の恵みによって始まったキリストとの交わりは、
同じ恵みによって完成させられることを納得するに違いない。
神はキリストの血潮によって
私たちと永久の血の契約(新約)を結んでくださった。
「主も、あなたがたを、私たちの主イエスキリストの日に
責められるところのない者として、最後まで堅く保ってくださいます」(8節)