明治維新の震源地・長州〜その2
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❷徳川300年間の屈折
毛利家は関ヶ原で敗れ、36万9千石の約3分の1の石高の領地に押し込まれた。
殿様を慕う家臣たちはそれでも新しい領地について行き、家禄なくリストラされた彼らは百姓に身をやつして家を守ったという。
破産集団でありながらこうして能動性に富んだ毛利家のは、
共通のものがあった。
〜常に飢えと隣り合わせと言う、恐怖観念である〜
これこそがこの藩に大きなエネルギーをもたらし、
さらに経済観念を研ぎ澄ましていく原動力となったと言っていい。
①絶えざる開墾。
干拓し、開墾し、灌漑しては田地を広げて行き、
幕末では100万石を超えるようになったと言う。
②長州の3白。
蝋、塩、紙の商品を生産し、これによる現金収入は米中心の幕藩経済が行き詰まる天保年間になっても藩収入の主軸として支え続けた。
③商港・下関の隆盛。
商品経済に目覚め、流通により国内の物産が下関を通じて大量に出回るようになると、そこに目をつけた者に幕末の坂本龍馬がいる。
慶応2年11月、龍馬の斡旋で薩長の要人が下関で会合し、
「商社示談箇条書」という定款を作り上げている。
要は独立経済圏を作り上げて幕府を圧倒しようと言う協定である。
一方で幕府はでくのぼうといってもいいほどの鈍感さで米中心経済の体制から動こうとしない。
長州が幕末、維新改革の一大勢力となりえた大きな理由には、
この銭と言う裏づけがあった事は確かだった。