「神に対する富」
Jan
20
「神に対する富」
ルカの福音書 12章13~21節
"群衆の中の一人がイエスに言った。「先生。遺産を私と分けるように、私の兄弟に言ってください。」
すると、イエスは彼に言われた。「いったいだれが、わたしをあなたがたの裁判官や調停人に任命したのですか。」
そして人々に言われた。「どんな貪欲にも気をつけ、警戒しなさい。人があり余るほど持っていても、その人のいのちは財産にあるのではないからです。」
それからイエスは人々にたとえを話された。「ある金持ちの畑が豊作であった。
彼は心の中で考えた。『どうしよう。私の作物をしまっておく場所がない。』
そして言った。『こうしよう。私の倉を壊して、もっと大きいのを建て、私の穀物や財産はすべてそこにしまっておこう。
そして、自分のたましいにこう言おう。「わがたましいよ、これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ休め。食べて、飲んで、楽しめ。」』
しかし、神は彼に言われた。『愚か者、おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。』
自分のために蓄えても、神に対して富まない者はこのとおりです。」"
富んだ農夫の誤った人生観とは何であったか。
⑴能力(賜物)の源泉を誤解
賢さや有能さ成功は自分自身によるものと勘違いした(18)。
市場原理による価格変動、コスコパフォーマンス、原価償却に対する利益率の確保などを素早く計算し正しい判断ができたと自認。
その才能をも与えたお方がいらっしゃることを計算していなかった。
「豊作であった」ー天候の良し悪しや賜物の相違はすべて神が決められたこと。
⑵時間の観念に対しての誤解
①平均寿命から割り出した人生設計しか持っていない(19a)。
今日1日今年数年先の時間は自己の快楽のために自由に使えるものと考えていた。
②「今夜お前の命が要求される」(20) 直訳
私たちには生かされた命を持っており許された時間しか与えられていない。
⑶富の観念に対しての誤解
①富こそが人の人生を豊かにするものと考えていた(19b)。
「お金があれば何でも買える」と言った芸能人がいたが、一見するならそのような価値観で世間は動いてるようである。
② 財産の豊かさは保証にならない(15)。
富自体を否定しているものではなく富を用いて楽しむことのできる命(生き方)は、その命を造られた方との関係の中に存在する。
(結論)
この世に生きているつかの間の間、私たちには多くの良きものが与えられている。
そしてゆだねられた裁量のゆえに自由に使えて、自分のものであると錯覚している。
時間、才能、健康、財産、仕事など。
これらを永遠のために用いるときにこの世においてもまた楽しむことができる。