先日はシアトルにダウンタウンにある日本国総領事館へ書類作成のために行ったことを書きました。 その際に気づいたこととして次の3点を挙げました。 ❶やっぱり日本スゴイ! ❷なるほど日本らしい! ❸こうしたらどうなの日本? 先回は❶を書きまして、今回は❷❸を記します。 とても清楚でありながら可憐に整えられている記帳台がありました。新しい天皇ご夫妻のお写真と日章旗を写真に収めようとしたのですが、領事館員に断られてしまったのです。 「どうしてだめなのですか」と伺いましたところ、 女性の職員の方が突然吹き出すように顔を崩して笑顔を作り、腰を折り曲げながら「すみませーん、ダメなんですー」と優しく言われるのです。 「いやいや、お詫びされなくて良いのです。そのような決まりでしたら無理にとは言っていません。ただその理由を伺っているのです」 するとその女性は真顔になったかと思うと、その場にいる他の男性職員と顔を見合わせました。 5-6秒程待った様に思います。 お二人は顔を見合わせているままで絶句のままです。 こちらの方がしびれを切らしてしまって、「理由は無いけれども、ダメなんですね」と言って記帳を始めようとすると、 その女性は再び笑顔を作って、「すみませーん」 ですから、私はお詫びをしてもらいたいからでもなく追い込んでるつもりは毛頭なく、ただ理由を知りたいのです。 この2人の職員の応答に、私は日本らしさを感じるのです。 曖昧な日本。 (ある日本人ノーベル賞受賞者のスピーチ題名でした) 言動の規範原理を理詰めで構築するのではなく、その場の雰囲気や流れや勢いといったあやふやさで対処しようとする傾向。 一方米国社会にあっては自らの下した判断を言語として説明できないと言うのは致命的です。責任者においては無能とみなされます。 商取引やクレーム対応において会社として決定された文面には、「ご意見やお考えがあるならば自分にお尋ね下さい」との一文を添える事が常識となっています。 説明を求める顧客に対して無視したならば、それは社会的な責任を果たしてないのと糾弾されるでしょう。 責任とは英語でレスポンシビリティーですが、本来日本には存在しなかった概念だと思います。 Responsibility(責任)とは、 response(応答)する ability (能力)の事で、物事を決する側が持たなくてはならない必須事項と考えられています。 その能力のないものが責任ある立場にあってはならないのです。 と言うより、その立場にあるとしたら言葉の矛盾を抱え込んでいるのです。 150年ほど前、明治維新とともに入ってきた西洋文明のこの概念はどこまで日本の社会に浸透してるでしょうか。 英語を流暢に操り、立派に米国社会に溶け込んでいるいらっしゃるはずの領事館職員ですらこの現実。 白洲に引き出された嫌疑者が抗弁しても虚しく、お上の裁断にただ恐れ入って平伏すしかなかった江戸時代の名残でしょうかねぇ? あらら、だいぶ長くつらつらと書き連ねてしまいましたが、これが ❷なるほど日本らしい! と感じた点です。 ❸こうしたらどうなの日本? については次回に譲ります。