原因ではなく結果だ
Dec
3
「嫌われる勇気」からの抜粋
アドラー心理学にある「原因論の誤り」
〜人間の行動の全てには原因があるのではなく、あるのは結果だけ〜
何のことかわからないでしょうから、実例を挙げて解説します。
ある神学生が牧師からひどい剣幕で怒られていました。
その牧師はその神学生の頬を拳で殴り付けることまでしました。
「今どうして殴られたのかは貴方には分からないかもしれない。
でも数十年後にわかるようになるでしょう。」と声を上ずらせながら、何が起こっているか分からずにいるその神学生に牧師は言い放っていた。背後では事の成り行きを心配そうに見つめている牧師夫人が外階段の上に無言のまま立っていた。
大抵の場合、その神学生がひどいミスをやらかした原因があったので激しく叱られたのだと人は思うことでしょう。ところがアドラーによれば、神学生に原因があったのではなくその牧師の側にある結果がすごい剣幕になって現れたと言うのです。
会社でも上司が部下に対して怒るのは、今後、自分が上でお前が下だと見つけ見せつけるためのものである場合があります。違う部下であるならば同じミスであったとしても、そこまで声を上げることもないからです。相手を威嚇してその場を丸め込んでしまおうとするのは、自分の過去に禍根やストレスがあり、それを発散しなくてはならない結果として現れたと言えます。
私たちは相手に原因を探したり、自分の暗い過去に縛られるところから解放されなくてはならないのです。イライラや怒りの感情、あらゆるネガティブな行動は自らのうちに蓄えてきた結果から現れるものです。
例の神学生は確かに数十年経って後、なぜあそこまで怒りの鉄拳を食らったのか分かるようになりました。神学生がやらかした事と言えば、あるクリスチャンホームの家庭に居座り教会への帰宅が夜の8時か9時ごろになったことでした。
あの牧師は教会員を「私の羊」であるとして囲いたかったのです。
若い神学生が自分から人望をさらう羊泥棒のように見えて、「今か、今か」と遅い帰宅を待ちきれずにしびれを切らして爆発してしまったのでしょう。
その牧師だったか確認は出来ていませんが、その教団内であった実例です。
かつて教会員が地方出張時に同じ教団の地方教会に日曜礼拝のために出席する時には、所属教会牧師の許可を得なくてはならないとの暗黙の決まりがあったようです。その牧師はある時、許可を与えなかったがために、その人は日曜礼拝にも出席できなかった例があったとのこと。
牧師は羊(教会員)を真の牧者であられる主イエス様につなげるためのサポート役であり、羊飼い自体ではありません。
"わたしは良い牧者です。良い牧者は羊たちのためにいのちを捨てます。
牧者でない雇い人は、羊たちが自分のものではないので、狼が来るのを見ると、置き去りにして逃げてしまいます。それで、狼は羊たちを奪ったり散らしたりします。
彼は雇い人で、羊たちのことを心にかけていないからです。
わたしは良い牧者です。わたしはわたしのものを知っており、わたしのものは、わたしを知っています。"
ヨハネの福音書 10章11~14節