昨日のレニア山。
昨日の夕日。日没は7時50分でした。
ホサナキリスト教会・日曜礼拝のメッセージアウトラインです。
「見て、信じた」
ヨハネの福音書 20章1~10節
"さて、週の初めの日、朝早くまだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓にやって来て、墓から石が取りのけられているのを見た。
それで、走って、シモン・ペテロと、イエスが愛されたもう一人の弟子のところに行って、こう言った。「だれかが墓から主を取って行きました。どこに主を置いたのか、私たちには分かりません。」
そこで、ペテロともう一人の弟子は外に出て、墓へ行った。
二人は一緒に走ったが、もう一人の弟子がペテロよりも速かったので、先に墓に着いた。
そして、身をかがめると、亜麻布が置いてあるのが見えたが、中に入らなかった。
彼に続いてシモン・ペテロも来て、墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見た。
イエスの頭を包んでいた布は亜麻布と一緒にはなく、離れたところに丸めてあった。
そのとき、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来た。そして見て、信じた。
彼らは、イエスが死人の中からよみがえらなければならないという聖書を、まだ理解していなかった。
それで、弟子たちは再び自分たちのところに帰って行った。"
マグダラのマリヤの「見た」(1)〜「 ブレポ」
①主に物理的に見る、観察する。5節の墓の内部を外からペテロが「見た」のも同じ語句。眺めた。
②その結果は、これまでの自らが積み上げてきた経験による判断と思い込み。そして悲観と絶望(2)。
ペテロの「見た」(7)〜「セオレオー」
①注目する、経験する、分析のために見つめる。
英語のセアター(劇場)の語源。俳優が演じる背後にある意味を汲み取ろうとする。
②事もなく見える福音書記事の中から驚くべき卓越性を把握することができる。
2人の弟子たちの走力、性格、洞察力の相違が分かる。
頭に巻かれた布と、体を包んだ亜麻布の配置位置と様子。
ヨハネの「見た」(8)〜「エイドー」
①その背後にある意味を理解、比喩から本質につながる昇華、精神的に見る。 “I see what you were saying”
②後に墓の中に入ったヨハネは、その内部の様子を「見て」、信じるに至る。
聖書を知的に理解したまま、自らの常識にとどまり続ける所の自由主義神学においては、暗闇と失望の中に留まる。
「彼らは、イエスが死人の中からよみがえらなければならないという聖書を、まだ理解していなかった。」(9)
(結論)
聖書の伝えるイエスの復活が、単なる神学ではなく生活の実態でなくては意味を持たない。
復活の
過去的ー弟子たちの証言する歴史的事件
現在的ー今も生きたもう主が私を支えている
永遠的ーやがて復活の主とお会いする
事実を「見よ」(エイドー)。
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