漸進/累積的啓示を認めるか否かが契約神学とディスペンセイション神学との違いをもたらしている。
❶ディスペンセイションの解釈法
*旧約聖書には新約聖書においては未だ啓示されていないことも啓示されていて、いわばその原形であり胎動期であった。
*旧約聖書はそれ自体で解釈されるべきである。なぜならその時代の啓示の分量にはその時代の限界が存在するからである。
*旧約聖書にある完全な光に照らして旧約聖書を再解釈してはならない。
❷非ディスペンセーション(主に契約神学者)の解釈法
*漸進的啓示を受け入れていない
聖書全巻を貫く契約概念を3つの契約に集約してしまうので時代的進展とともに啓示が増加わってきたと言う自然な理解を齟齬してしまうことに繋がる。3つの契約とは、行いの契約、購いの契約、恵の契約。
*例えば契約神学者の巨頭とも言うべきHODGE氏は、「恵の契約」を次のようにまとめている。
「新約聖書と旧約聖書合わせて考えると救いの計画は常に1つしかない。その計画には同じ約束、同じ救い主、同じ条件そして同じ救いが内包されている。-----以上のことから教会は常に存在していたと言える。キリスト以前の神の民は教会を形成していたと言うことである。その教会はすべてのディスペンセイションおいて1つであり同一のものである。
教会は常に同じ約束、同じ贖い主そして同じメンバーになるための条件を有していた。その条件とは神の御子を世の救い主と信じる信仰である。」
これらのこの彼の著作から単純に湧き上がる疑問は、旧約時代の人物例えばアブラハムやモーセがどうしてキリストの贖いとその明確な約束の言葉を知り得ることができて、信じることができたのか。
彼は続けて次のように説明している。
「私たちの場合は旧約聖書から恵の契約に関する情報を発見する能力は限定されている。当時の人たちが預言者を通しあるいは神の啓明によってどの程度付加的情報得ていたかは私たちには知る由もない。」
このようにHODGE氏は、明らかに旧約時代には啓示されていないような事柄でも、彼らはなんらかの神的方法により知り得ていたと言う前提に立っている。
これは先に神学的前提を持って聖句を読み込む(eisegetical)営みであり、意味を汲み取る(exegetical)作業ではない。
*彼らの特徴は、啓示が完成している新約聖書を中心/優先にして旧約を含めた神学体系を構築しようとするところにある。そこで救いもその条件も教会もあらゆることをたった1つのことの中に集約しようと努める。
❸聖書神学は、各書が啓示が与えられた順番に研究していく学問である。
*聖書には啓示が1度に与えられたと教えている箇所はない。
*聖書は神の啓示のプロセスを記した記録である。
*イエスご自身も漸進的啓示を前提にしながら聖書を解き明かされている。
"それからイエスは、モーセやすべての預言者たちから始めて、ご自分について聖書全体に書いてあることを彼らに説き明かされた。"
ルカの福音書 24章27節
*そしてイエスご自身が漸進的啓示の頂点であると教えている。
"神は昔、預言者たちによって、多くの部分に分け、多くの方法で先祖たちに語られましたが、
この終わりの時には、御子にあって私たちに語られました。神は御子を万物の相続者と定め、御子によって世界を造られました。"
ヘブル人への手紙 1章1~2節
*ヨハネ福音書の冒頭は漸進的啓示に従って記されている。
「はじめに、言葉があった」(1節)
モーセと律法の言及(17節)
預言者への言及(19ー25節)
イエスへの言及(26-27)
------聖書を解き明かすと言う営みは、どうこれを解釈するのかと言う事と同等であること。正しく解釈するためには、字義どおりの解釈が推奨されるべきこと。字義どおりの解釈とは、啓示の漸進性を認めるものであることをこれまで見てきました。これからもしばらく続きます。-------
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