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「私の所有者は誰なのか」

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「私の所有者は誰なのか」
ホサナキリスト教会・日曜礼拝のメッセージアウトラインです。





「私の所有者は誰なのか」



ローマ人への手紙 14章4~11節



"他人のしもべをさばくあなたは何者ですか。しもべが立つか倒れるか、それは主人次第です。しかし、しもべは立ちます。主は、彼を立たせることがおできになるからです。
ある日を別の日よりも大事だと考える人もいれば、どの日も大事だと考える人もいます。それぞれ自分の心の中で確信を持ちなさい。
特定の日を尊ぶ人は、主のために尊んでいます。食べる人は、主のために食べています。神に感謝しているからです。食べない人も主のために食べないのであって、神に感謝しているのです。
私たちの中でだれ一人、自分のために生きている人はなく、自分のために死ぬ人もいないからです。
私たちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死にます。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。
キリストが死んでよみがえられたのは、死んだ人にも生きている人にも、主となるためです。
それなのに、あなたはどうして、自分の兄弟をさばくのですか。どうして、自分の兄弟を見下すのですか。私たちはみな、神のさばきの座に立つことになるのです。
次のように書かれています。「わたしは生きている──主のことば──。すべての膝は、わたしに向かってかがめられ、すべての舌は、神に告白する。」"



(1) 私自身のものであるとする誤解


①通常、私たちは衣食住を決める自由を持っている
〜よってこのような誤解を生み安い

②時に制限もあるが
独裁国家による自由の制限や、前近代的な奴隷搾取生活


(2) 私自身を持て余してしまうとき


①心や体を思い通りに制御できるのか。
〜自律神経などの不随的働き

②社会通念等によって知らず知らずのうちにコントロールされる場合もある
〜「日」や「食」に関する宗教的戒律下にあった当時のローマ教会



(3) キリスト者は神が所有権となった者


①キリストが死んで甦られたゆえに
 〜「生きるにしても死ぬにしても」私は私のものでなくキリストのもの


②神のものは神がお守りになられる
 〜その生死に関わること、最期に臨んで責任を取られるのだ




(結論)



キリストは私を捉えられた。
私はキリストのものとなり、キリストが私のものとなった。
今や私の心と体の全てをキリストが所有しておられる。
#メッセージ

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