「二通りの生き方」
Apr
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「二通りの生き方」
マルコの福音書 8章31~38節
"それからイエスは、人の子は多くの苦しみを受け、長老たち、祭司長たち、律法学者たちに捨てられ、殺され、三日後によみがえらなければならないと、弟子たちに教え始められた。
イエスはこのことをはっきりと話された。するとペテロは、イエスをわきにお連れして、いさめ始めた。
しかし、イエスは振り向いて弟子たちを見ながら、ペテロを叱って言われた。「下がれ、サタン。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」
それから、群衆を弟子たちと一緒に呼び寄せて、彼らに言われた。「だれでもわたしに従って来たければ、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。
自分のいのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしと福音のためにいのちを失う者は、それを救うのです。
人は、たとえ全世界を手に入れても、自分のいのちを失ったら、何の益があるでしょうか。
自分のいのちを買い戻すのに、人はいったい何を差し出せばよいのでしょうか。
だれでも、このような姦淫と罪の時代にあって、わたしとわたしのことばを恥じるなら、人の子も、父の栄光を帯びて聖なる御使いたちとともに来るとき、その人を恥じます。」"
(1) ペテロ流生き方
① イエスを「諌めた」(32)
苦しみ、捨てられること、殺されるのは、人が最も避けたい事柄
人は苦難を避けて自らを楽しませ喜ばせることに注意を向けたいもの
② その理由
イエスへの同情心~人間中心主義・ヒューマニズム
その奥底には、自らの野心を満たしたいとの欲望~メシア王国での地位
(2) イエス流生き方
① ペテロを「叱って」(33)~原語では「諌めた」(32)と同語
「サタンよ、しりぞけ」~ペテロのヒューマニズム的観点には悪魔の考えが潜む: 荒野での誘惑
② その理由 「神のことを思わないで、人のことを思っている」~ 個人の享楽的な生き方を否定して、神の国の前進とその強化のためには自己犠牲すべき時がある。
(3) 誤解を生じやすい教え
①イエスの弟子となる道は、自発性・自主性が土台
「誰でも私についてきたいと思うなら」(34)~そこには他者の模倣や強制・期待は関与せず
②さらに、あなたへの個人的な使命に関わることである
「自分の十字架を負って」イエスにとっては文字通りの十字架であり、ペトロにとって逆さ十字架であり、Abrahamにとって我が子の全身供養であった。
結論 ~ 近視と遠視
① ペテロ流行き方とは、近視眼的
自分のこと、たった今の享楽だけを考えたら、割に合わない。
死や十字架のどこに意味があるのか?
② イエス流生き方とは、遠視眼的
現世の霊的生活において、安全と豊かさが約束されている。
やがてイエスの再臨のときには大きな報酬(千年王国での地位)が約束されている。