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ホサナキリスト教会・日曜礼拝のメッセージアウトラインです。
「あなたの手を握る」
イザヤ書 42章1~6節
"「見よ。わたしが支えるわたしのしもべ、わたしの心が喜ぶ、わたしの選んだ者。
わたしは彼の上にわたしの霊を授け、彼は国々にさばきを行う。
彼は叫ばず、言い争わず、通りでその声を聞かせない。
傷んだ葦を折ることもなく、くすぶる灯芯を消すこともなく、
真実をもってさばきを執り行う。
衰えず、くじけることなく、ついには地にさばきを確立する。
島々もそのおしえを待ち望む。」
天を創造し、これを延べ広げ、地とその産物を押し広げ、その上にいる民に息を与え、
そこを歩む者たちに霊を授けた神なる主はこう言われる。
「わたし、主は、義をもってあなたを召し、あなたの手を握る。
あなたを見守り、あなたを民の契約として、国々の光とする。"
(1) 手を握られる神
親に手をつないでもらう時
子供はつまずいても転ぶ事はない。
手を繋ぐ相手との関わりは十全で、他のことができなくなる。
神は私の手を握られると言う
神はご自身のすべてを投げ出して私たち一人ひとりに関わろうとされる
(2)義を持ってあなたを召した
①あなたは神に召し出され、神に属するものとされた(ヨハネ15:16)
私が主イエスを選んだのではなく、主イエスが私を選ばれた
② そのカラクリは神の「義」にある
人を救うべく実行される神の行動のこと
〜その究極は主イエスの十字架による贖いにある
⑶あなたを契約とし、光とする
① 聖書にある契約はすべてユダヤ人に対して与えられたもの
その契約を締結、執行、完徹されるのが主イエスであられた
②その祝福はあらゆる諸民族にとっての光となる
ユダヤ人に与えられている契約に私たちは継木された霊的異邦人である
(結論)
私たちの手は弱くなることがある。
自らの信仰の力で神を把握することに限界を感じることもある。
しかし主イエスの手は弱まることなく、永遠に私たちを握り続けてくださっている。
ホサナキリスト教会・日曜礼拝のメッセージアウトラインです。
「彼らをわたしと一緒におらせてください」
ヨハネの福音書 17章20~26節
"わたしは、ただこの人々のためだけでなく、彼らのことばによってわたしを信じる人々のためにも、お願いします。
父よ。あなたがわたしのうちにおられ、わたしがあなたのうちにいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちのうちにいるようにしてください。あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるようになるためです。
またわたしは、あなたが下さった栄光を彼らに与えました。わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです。
わたしは彼らのうちにいて、あなたはわたしのうちにおられます。彼らが完全に一つになるためです。また、あなたがわたしを遣わされたことと、わたしを愛されたように彼らも愛されたことを、世が知るためです。
父よ。わたしに下さったものについてお願いします。わたしがいるところに、彼らもわたしとともにいるようにしてください。わたしの栄光を、彼らが見るためです。世界の基が据えられる前からわたしを愛されたゆえに、あなたがわたしに下さった栄光を。
正しい父よ。この世はあなたを知りませんが、わたしはあなたを知っています。また、この人々は、あなたがわたしを遣わされたことを知っています。
わたしは彼らにあなたの御名を知らせました。また、これからも知らせます。あなたがわたしを愛してくださった愛が彼らのうちにあり、わたしも彼らのうちにいるようにするためです。」"
(1) 1つとなることを求めて
民族的な領土所有問題
(例) セワード公園を所有する先住民族長の鳥居セレブレーションでのスピーチ
②ここでの主イエスの願い〜フォロワーが1つとなること
父とイエスが1つであるように〜共通の価値観や目的の共有のこと
(2)愛が求めることとは
①私たちは、愛する対象と1つとなりたいと考える
金銭、快楽、知識、芸術、仕事などと一つに
② 神は私たちをこれから大切なもの、より優れたものとして創造された
故に存在の底にある渇きをこれらによって満たすことはできない
⑶主イエスの愛の注ぎ
① 主は、十字架の血潮をあなたに注ごうと招かれる
(例)輸血による命の付与
②主イエスの栄光に預かる約束と保証(24c)
将来の事であっても確かな約束ゆえに完了形で記されている(22a)
(結論)
主イエスのいるところにいることができるように。
その価値観と目的が主と1つであるようにと主は祈られた。
主の祈られた事は必ず成就される。
ホサナキリスト教会・日曜礼拝のメッセージアウトラインです。
「ただおことばを」
マタイの福音書 8章5~13節
"イエスがカペナウムに入られると、一人の百人隊長がみもとに来て懇願し、
「主よ、私のしもべが中風のために家で寝込んでいます。ひどく苦しんでいます」と言った。
イエスは彼に「行って彼を治そう」と言われた。
しかし、百人隊長は答えた。「主よ、あなた様を私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません。ただ、おことばを下さい。そうすれば私のしもべは癒やされます。
と申しますのは、私も権威の下にある者だからです。私自身の下にも兵士たちがいて、その一人に『行け』と言えば行きますし、別の者に『来い』と言えば来ます。また、しもべに『これをしろ』と言えば、そのようにします。」
イエスはこれを聞いて驚き、ついて来た人たちに言われた。「まことに、あなたがたに言います。わたしはイスラエルのうちのだれにも、これほどの信仰を見たことがありません。
あなたがたに言いますが、多くの人が東からも西からも来て、天の御国でアブラハム、イサク、ヤコブと一緒に食卓に着きます。
しかし、御国の子らは外の暗闇に放り出されます。そこで泣いて歯ぎしりするのです。」
それからイエスは百人隊長に言われた。「行きなさい。あなたの信じたとおりになるように。」すると、ちょうどそのとき、そのしもべは癒やされた。"
(1) 100人隊長の認めた世界観〜権威と秩序
①聖書に登場する100人隊長の特別な地位
②職業からその日常生活を通じて神の世界を透視
(2)私たちの生きている世界
①病がある、心の汚れがある、壊れた人間関係がある。
〜中風という回復の見込みのない身体障害、厳しい現実。
②失望にあっては助けを求める勇気すら失う
求めても拒否されると更なる失望、惨めな思いを味うゆえ
⑶キリストの驚き(⑴と⑵とが交差した時)
① 100人隊長の正しい自己認識〜「私の屋根の下にお入れする資格は私にはありません」
ユダヤ人は異邦人の客とはならない。駐留軍の将校として被征服民を不当に扱うこともできたはずであったが、ユダヤの文化を尊重。
②「ただおことばをください」
キリストの御言葉は私どもの現実を変える力がある。
壊れた私の現実に異次元のキリストの世界が生き始める。
神の言葉には力があるから〜「光よ、あれ」「すると光があった」
(結論)
キリストはあなたにとってどういう方か。
世間一般の認識か、それともあなたが世界を観察しての結論か。
その観察は公平で他者を尊重しているものか。
世界の神の統治者が私たちのことを心配し深くあわれんでおられる。
勇気を出し、声に出して求めてみよう。
「ただおことばをください」
「キリスト教信仰」とは、
「キリストの言葉を受け取ること」。
それはすなわち
「キリストにとどまること」
「キリストと1つとされること」
と等しい。
すると
「キリストが私たちのうちにとどまり」
「キリストが私たちと一つとなる」。
それは
人間側の先駆的・主導行為ではなく
あくまで絶対者の招きと接近とを受容する姿勢。
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"あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまっているなら、
何でも欲しいものを求めなさい。そうすれば、それはかなえられます。"
ヨハネの福音書 15章7節
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今夕日没後の空に現れた夕焼け。
これをデザインし、色付けをしたのは絶対者なるお方。
そこに私たちは一筆たりとも加筆していなかった。
"Christian faith" means...
"to receive the word of Christ."
It means.
"Abiding in Christ."
"to be united with Christ."
It is the same as
"Christ abides in us.
"Christ becomes one with us."
It is not a pioneering or leading act on the part of man,
but an attitude of acceptance of the invitation and approach of the Absolute One.
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"If you abide in me and my words abide in you,
ask for whatever you want, and it will be given to you.
John 15:7
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The Scarlet color appeared in the sky after sunset this evening.
It was the Absolute One who designed and colored it.
We did not add even a single stroke to it.
ホサナキリスト教会・日曜礼拝のメッセージアウトラインです。
「信仰の第一人者・完成者なるイエスから」
ヘブル人への手紙 12章1~2節
"こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、一切の重荷とまとわりつく罪を捨てて、自分の前に置かれている競走を、忍耐をもって走り続けようではありませんか。
信仰の創始者(第一人者)であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい。この方は、ご自分の前に置かれた喜びのために、辱めをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されたのです。"
(1)「信仰」とな何か
①一般的な定義
〜自らの経験や知識を超えた存在を認め、これに自らを委ねる自覚的な態度〜
ここには主体が常に人にあり、その状態は時や環境とともに揺れ動く。
②聖書の伝える「信仰」
雲のように取り巻いている信仰の証人たちの例が11章にある。
サラの例(11節)〜サラにとって大甘の点数(創世記17:17)ではないか?
信仰の主体は自分自身にではなく絶対他者=神にある。
(2)完成された信仰
①「創始者」=「第一人者」「プリンス」 2節b
その地上生涯と受難を通じて11章にある信仰者の系譜につながり、
さらにそのトップに立たれた主イエス。
②「完成者」2節c
復活と神の右の座に着座されることを通じて
父なる神からの是認と確証
⑶付与された信仰
①「キリストを信じる」とは、「キリストの信仰(第一人者・完成者)が私のものとされる」
キリストにとどまること、キリストと1つとされること、キリストが内に住むことを意味する。
②救いの基盤は人の功績でなく、キリストのそれによる。
そこには信仰の年限、教会への貢献度、聖書知識の多寡は関係なく、
ただキリストの功績だけが崇められる
(結論)
"律法を行うことによってではなく、キリストを信じることによって(キリストの真実によって)
義と認められるためです。" ガラテヤ人への手紙 2章16節
自分の感情や知識また経験や業績を信仰の土台としてはならない。
それは常に不安定なものであり不安がつきまとう。
私たちの信仰は与えられたものであり、すなわちキリストの信仰。
それ故に確かで永遠的なものである。
何気なく海辺を見渡すと鋼鉄のでかい船を発見。
どう見ても戦艦である。
シアトルのダウンタウンの港に向かっている。
何用で?
通常航海ならまだしも、作戦行動ならその行き先や目的については一部司令官たちしか知らされていないはず。
とは思ってみたものの自国のシアトルで作戦行動起こすはずもないか。
重大な作戦についてはたとえ自軍隊内であっても秘匿性は高まる。
ロシアがウクライナに侵攻するか否かは一般ロシア兵ですら知らされていない。プーチンの胸の内三寸にのみ存している。
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主イエスは弟子たちに、
父から聞いたことをの全てを話したので、
あなた方はもはや僕ではなく「友」であると言われた。
僕は主人がすることを知らない、と言う。
主人の心にある深いところや仕事の目的、その動機・感情面など知らなくとも良い。
ただ言われた通りに手足を動かしていれば良いのが僕であり、その役割に徹するのが本来の使命であり、それは兵士に通底する。
ところが、「友」は異なる。
主人の心にあること、彼の物事についての評価や判断をつぶさに知って同様の重荷や感情を共有するのが「友」。
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"わたしはもう、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべなら主人が何をするのか知らないからです。わたしはあなたがたを友と呼びました。父から聞いたことをすべて、あなたがたには知らせたからです。”(ヨハネの福音書 15章15節)
ここで主イエスが使われた「全てのことを知らせた」にある動詞は過去形。この時点で弟子たちにはすべての天にある真理をすでに伝えた、と。
しかし弟子たちが咀嚼できたものは主が語られたうちの100分の1にも満たない。
彼らにはジーザスのスピリット(聖霊)がそのうちに与えられていなかったからだ。
同様に神の啓示の書としての聖書は多くの言語に訳されて、ほぼすべての人がアクセス出来る。この私にさえも。
しかしそこにある真理を理解・咀嚼するには聖霊様の導きがあって初めて可能となる。
私個人の人生の意味や世界歴史のからくりから、世界と宇宙に見る神秘やその行く末について、、、私はどの程度任されているだろう。
知識の伝達量としてではなく主人の心にある秘め事を。
アブラハムはかつて神の心にあった痛みと重荷を打ち明けていただいたことから「神の友」と呼ばれた。
"主はこう考えられた。「わたしは、自分がしようとしていることを、アブラハムに隠しておくべきだろうか。"(創世記 18章17節)
"だがイスラエルよ、あなたはわたしのしもべ。わたしが選んだヤコブよ、あなたは、わたしの友アブラハムの裔だ。”(イザヤ書 41章8節)
私が自分自身を友として受け入れている度合いは、
ジーザスを友としてどれほど信頼関係を築けているかに正比例しているように思えて来た昨今。
それが他者を友として受け入れることと正の相関があるように思える。
「将来と希望を与えるもの」
ヨハネの福音書 9章1~5節
"さて、イエスは通りすがりに、生まれたときから目の見えない人をご覧になった。
弟子たちはイエスに尋ねた。「先生。この人が盲目で生まれたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。両親ですか。」
イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。この人に神のわざが現れるためです。
(序論)
「前」=目の向かう先、見える方向。
空間においては進む方向が前となる。2「前方に学校がある」
時間においては過ぎ去った過去が前となる。「1週間前、3年前」
人間は過ぎ去った過去しか見ることができないので過去が前。
しかし神は将来も把握されていらっしゃる。
(1)生まれつきの盲人
①絵に描いたような不幸な人物
人は多くの情報は視覚から得ると言う。
「道の途中」で会ったこの人物は物乞いをしていた可能性が大きい。
生産力のない悲惨な人生ではなかろうか。
②因果応報を訪ねる人間性
「誰かが罪を犯した。この人か、その両親か。
それで(Hina•理由・原因)生まれて来た(Sub +Aorist)」< ギリシャ語構文>
弟子たちは不幸の原因が罪にあることを前提としている。
不幸が起きるのは、罪ゆえの神の裁きであると考えられていた。
(2)因果応報の原理を覆された主イエス
①「罪を犯したのはこの人のでもその両親でもない。
それは(Hina•理由・原因)神の業がこの人に現されて行く(Sub +Aorist)」<ギリシャ語構文>
②主イエスは私どもの未来を見つめそこから語られる
問題、挫折や不幸が起こることを許された。
その過去に原因があったからではなく、理由が将来にある。
⑶神の業が表されるとは
①「業」は原語で複数形
この男性にとって神の業は、いやしの奇跡に始まり、憐れみ、尋問、追放、迫害、自立、そして信仰と礼拝(9:38)
②最大の神の業は、神を知るに至り礼拝者へと変えられること。
"イエスは答えられた。「神が遣わした者をあなたがたが信じること、それが神のわざです。」"
ヨハネの福音書 6章29節
(結論)
"わたし自身、あなたがたのために立てている計画をよく知っている──主のことば──。それはわざわいではなく平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。"
エレミヤ書 29章11節
神は私どもの将来を見つめ、その計画を立てて平安と将来とを与えると約束される。
ホサナキリスト教会・日曜礼拝のメッセージアウトラインです。
「自分へのこだわりからの解放」
マタイの福音書 9章9~13節
"イエスはそこから進んで行き、マタイという人が収税所に座っているのを見て、「わたしについて来なさい」と言われた。すると、彼は立ち上がってイエスに従った。
イエスが家の中で食事の席に着いておられたとき、見よ、取税人たちや罪人たちが大勢来て、イエスや弟子たちとともに食卓に着いていた。
これを見たパリサイ人たちは弟子たちに、「なぜあなたがたの先生は、取税人たちや罪人たちと一緒に食事をするのですか」と言った。
イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人です。
『わたしが喜びとするのは真実の愛。いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためです。」"
「わたしについて来なさい」
①思いがけないイエス様の招きの言葉だった。
ヨハネとヤコブの場合との類似と相違点。
② キリストの呼びかけには、私を「自分」から離れさせる力がある。
経済面社会面また倫理道徳面から人を値踏みする物差しを崩壊させてしまう。
(2) 「なぜ一緒に食事をするのか」
①イエス様は社会からの評価やラベル、その肩書きで人を判断されなかった。
到底パリサイ人には理解しようのないことだった。
両者の超えようのないその壁が、イエス様を十字架へと追いやった。
② 神の国はその虐げられているものたちの間に成就した
ユダヤ文化において共に食事をするとは親密な間柄にあってのみ許されること。
⑶ 「医者を必要とするのは丈夫なものではなく病人」
①「丈夫なもの」「正しいもの」はイエス様の前から退けられた。
そのように自負するのは社会の評価に依存しているゆえ。
ここにに欺瞞がある。
②「憐れみは好むが生贄は好まない」(ホセア6:6)
「生贄」〜確立されている宗教儀式であり自己義を促すもの。
「憐れみ」〜社会通念として確立されてはいないが人のニーズに応えようとする本来の人情。
「行って学べ」〜新たな価値観は従来の所属社会にあって気づく事は困難ゆえに。
(結論)
このような私にさえも目を留め、声をかけ、食事を共にされると主イエスはおっしゃられる。その絶対的な呼びかけに応じる時、私たちはこだわりから離れて、主イエスの与える喜びに生きるものとされる。
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