ホサナキリスト教会日曜礼拝の説教アウトラインです。
「神の力による信仰」
コリント人への手紙 第一 2章1~5節
"兄弟たち。私があなたがたのところに行ったとき、私は、すぐれたことばや知恵を用いて神の奥義を宣べ伝えることはしませんでした。
なぜなら私は、あなたがたの間で、イエス・キリスト、しかも十字架につけられたキリストのほかには、何も知るまいと決心していたからです。
あなたがたのところに行ったときの私は、弱く、恐れおののいていました。
そして、私のことばと私の宣教は、説得力のある知恵のことばによるものではなく、御霊と御力の現れによるものでした。
それは、あなたがたの信仰が、人間の知恵によらず、神の力によるものとなるためだったのです"
(1) パウロの宣教主眼〜人々に「信仰」を惹起させること
①聖書の語る「信仰」は何でないのか
自分の力で神を信じること。願いや仮定を肯定し、説得させようとすること。
実は私たちは信じることを頑張っては出来ないし、コントロールもできない。
②聖書の語る「信仰」とは
他者の真実に接触した時、自分の中の真実が立ち上がり、これに応えようとする営み。
最大の他者なる神の真実に触れる時、それまでなかった真実が蘇って、神に任せている自分を発見する。
(2) パウロの宣教形態〜その見えるところ
①優れた言葉と知恵とを用いなかった。
コリント教会、ギリシャ世界のトレンドとは真逆。
むしろ、イエスキリストの十字架以外に何も知らないとした。
②健康的にも弱く、さらに恐れおののいていたマインド。
肉体的健康に恵まれず、それが気力や気分にもネガティブに波及していた。
(3) パウロの宣教実態〜その隠れたところにあったもの
① 御霊と御力の表れ。
聖霊の臨在が疑いようもなくその場を覆い、神の力ある業によって病人が癒されていった。
② 神の力によって支えられる信者を排出。
教会内のあるものは、人間的な魅力や力に頼るシンパを形成(2:4)していたが。
(結論)
私の理解を超えた聖霊様の働きを見させていただこう。
イエス様が今も生きておられることを知らせていただこう。
与えられる信仰によって、神の御霊に導かれて。
「あなたの本質を見極めるキリスト」
ホサナキリスト教会・日曜礼拝のメッセージアウトラインです。
「あなたの本質を見極めるキリスト」
マルコの福音書 2章15~17節
"それからイエスは、レビの家で食卓に着かれた。取税人たちや罪人たちも大勢、イエスや弟子たちとともに食卓に着いていた。大勢の人々がいて、イエスに従っていたのである。
パリサイ派の律法学者たちは、イエスが罪人や取税人たちと一緒に食事をしているのを見て、弟子たちに言った。「なぜ、あの人は取税人や罪人たちと一緒に食事をするのですか。」
これを聞いて、イエスは彼らにこう言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人です。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためです。」"
(1) キリストは、人をどう見たのか
①人の本質はどこに? 人は様々な物差しで他者をカテゴライズし、理解しようとしてきた。
民族、国語、性別、家庭、学歴、職業など。
②キリストはあなたをどう見るか(聖書の人間観)。神の形に造られたた尊いものであり、善なるものである。罪によってこの事実に曇りが生じている。
(2) 人々は、人をどう見るのか
①病の人を見て(2:3) 。 非生産者であり、価値のないものであるとみなす。
②取税人と罪人たちを見て(2:16) 。 神に捨てられているが故に人の社会から阻害され無視されても当然だとし、その差別感情が優越意識を助長させた。
(3) キリストの見方に気づくとき
①私の真の価値に目覚める。罪と病の不健康な状態が真の私ではない。真の私はキリストが自らの命を捧げるほどに尊いものである。私の中に隠れている神の子としての姿をご覧になっておられる。
②他者の価値にも気付く。キリストの愛により癒され満たされたとき、あの人の為にも、キリストは命を捧げられたことに思いが及ぶ。
(結論)
私は自分自身を、そして他者をどのように見てきたであろうか。
キリストの視点でこの世界を見るために、今注がれている私に対するキリストの眼差しを受け入れよう。
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