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「宝は土の器の中に」

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「宝は土の器の中に」





ホサナキリスト教会・日曜礼拝のメッセージアウトラインです。











「宝は土の器の中に」





コリント人への手紙 第二 4章6~16節



"「闇の中から光が輝き出よ」と言われた神が、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせるために、私たちの心を照らしてくださったのです。

私たちは、この宝を土の器の中に入れています。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものではないことが明らかになるためです。

私たちは四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方に暮れますが、行き詰まることはありません。

迫害されますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません。

私たちは、いつもイエスの死を身に帯びています。それはまた、イエスのいのちが私たちの身に現れるためです。

私たち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されています。それはまた、イエスのいのちが私たちの死ぬべき肉体において現れるためです。

こうして、死は私たちのうちに働き、いのちはあなたがたのうちに働いているのです。

「私は信じています。それゆえに語ります」と書かれているとおり、それと同じ信仰の霊を持っている私たちも、信じているゆえに語ります。

主イエスをよみがえらせた方が、私たちをもイエスとともによみがえらせ、あなたがたと一緒に御前に立たせてくださることを知っているからです。

すべてのことは、あなたがたのためであり、恵みがますます多くの人々に及んで感謝が満ちあふれ、神の栄光が現れるようになるためなのです。

ですから、私たちは落胆しません。たとえ私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。"




(1)  私たちは土の器



①  当時イスラエルでの食器は粘土で作られていた。割れやすく、すぐに壊されてしまう。


② 私たちの体も、心も傷つき壊れやすいもの
  


(2) 宝が土の器の中に入って



① 「宝」とはキリストご自身のこと。啓示の光を照らされた心に、その神の栄光を知る者にされた(6)。



②宝が器の中に注入されて居住した経験が、ペンテコステの日に起こった。
主イエスの霊が各自に注がれて、その方と共に生きるものとされた。




(3) 神の栄光の表れ~計り知れない神の力が明らかとされる



 ①死にゆく体に対し、主イエスのいのちが明らかとされる(10)


②  信仰の霊を抱いているが故に宣教する(13)


③  すべてのことを感謝に至らせる~苦しみ(8)、迫害や躓き(9)さえも


④  日々新とされる内なる人(16)


⑤今の艱難をテコとして計測不可能な重たい栄光へ至らせる(17)



(結論)



本日は、ペンテコステ記念日です。

神の霊が注がれて、今、私たちの内に主イエスが生きておられます。

私たちは日々衰えていく土の器に過ぎなくても、この尊い宝をいただいて永遠の栄光に至るものとされています。
#メッセージ

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「愛から引き離すものあるか」

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「愛から引き離すものあるか」
ホサナキリスト教会・日曜礼拝のメッセージアウトラインです。
















「愛から引き離すものあるか」










ローマ人への手紙 8章31~39節










"では、これらのことについて、どのように言えるでしょうか。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。

私たちすべてのために、ご自分の御子さえも惜しむことなく死に渡された神が、どうして、御子とともにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがあるでしょうか。

だれが、神に選ばれた者たちを訴えるのですか。神が義と認めてくださるのです。

だれが、私たちを罪ありとするのですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、しかも私たちのために、とりなしていてくださるのです。

だれが、私たちをキリストの愛から引き離すのですか。苦難ですか、苦悩ですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。

こう書かれています。「あなたのために、私たちは休みなく殺され、屠られる羊と見なされています。」

しかし、これらすべてにおいても、私たちを愛してくださった方によって、私たちは圧倒的な勝利者です。

私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いたちも、支配者たちも、今あるものも、後に来るものも、力あるものも、

高いところにあるものも、深いところにあるものも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。"










(1)  繋がっていた愛



①キリストの十字架において
  極限にふみにじられ、死の底に突き落とされたとき




②父と子との関係は揺るがなかった   
  父の愛がその時注がれていた。私のあの暗黒の時にも、イエス様の愛は注がれていた。







(2) 表された栄光







① 最も卑しめられた時に栄光が表されるのか?
  「この方は誠に神の子であった」と100人隊長の告白




②  神の愛と義、救いと裁きの交差~スパークによる遮光のように
 私のあの悲惨な屈辱と卑下された経験は、神の愛に気づくキッカケとなり得た







(3) 確定された勝利







 ① 「屠られる羊とみなされた」(36)ものが「圧倒的勝利者となる」(37)のは、
  先駆者キリストゆえ。







②  このキリストが復活され、神の右の座におられ、私たちのために執りなしておられる(34)。

 よって困難も迫害もどんな被造物も、キリストの愛から私たちを引き離すことはあり得ない(35、39)。










(結論)










1923年の関東大震災で、被災民の蚊帳にろうそくの火が十字架に光る。

その絶望した状況の中にキリストの愛を感じたマーチン宣教師の作詞作曲したのが、聖歌397番「遠き国や」だった。あなたのあの暗闇の瞬間にも、キリストの愛が輝いていた。
#メッセージ

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