三十年前の私が 最近、書いている詩を読んだら 何を甘っちょろいこと 言っているんだよ と、笑うだろう 三十年前の私が書いた 詩を思い出して 何を甘っちょろいこと 言っているんだよ と、笑っている 笑いの質は違うけど……
#家族詩 実家の母に 最近、スマホを使って もらっている アプリは 電話、カメラ、写真、ライン 八十歳を過ぎて初スマホ 使えないと電話がくる あーだのこーだの説明 苦戦しているが 写真が送ってきたり テレビ電話したり なんだかんだ楽しんでいる 今日も花の写真がおはようと 笑ってやってきた
私は逝ってしまったのだろうか 拝まれている 目の前には誰からも慕われる 八十歳を過ぎた詩人がホームに立つ 私は「お疲れ様でした」と 電車に乗り込み頭を下げていた 「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏……」 何が始まったのだろう 大先輩の詩人は突然に手を合わせ 大きな声でお経を唱え始めた なぜか私に 明日の事など分からないが 順番で言えば大先輩が先に逝くよな そう心の中で呟いていたが けして嫌悪感を抱くことはなかった これにはきっと意味があるのだからと 電車の扉が閉まり 大先輩はまだ両手を合わせていた 車内にもお経が聞こえていたのだ 乗客たちは 降臨した者を見るような目をしていた いったいこの状況は…… 不思議な心持ちのまま自宅へ帰る 大先輩の詩から私が拝まれたヒントが あるかもしれないと 百八名の詩が綴られた詩集を開いてみた もちろんその大先輩の詩を拝読 ほとけさま この詩の題目に思わず唸った 私に関することが綴られているかも そんな馬鹿げた思考になりつつ 言葉を追いかけて行った先に 「ほとけさまが立っていた」と括られ ありがとうの気持ちを 仏さまに伝えるだろうところで 終わっていた 大先輩のお経を唱える姿を思い浮かべ 私も今日一日の出来事に ありがとうを伝えたくなり 手を合わせ南無阿弥陀仏と唱えた
ジャスミンが香る頃 大型連休へ滑り込みながら布団に倒れた どれだけ身体が動かないだろう 仕事の時より四肢の痺れを感じながら 風は日々をめくっていった 自分の心を探る時間は不安へ傾く 寿命と身体、自分がこれから出来ること 思考は終わる前にという 前向きのような、後ろ向きのような 折り返して時が過ぎている実感 冷静に見つめる日々があった それでも靄がかかった道は見えてきた 自分を見つめる時間は貴重だ 進むべき先ははっきりしていないが 痺れを感じながら歩くこと 苦痛は味わう勲章として自分につけ 勢いよく下っていけばいいのさ もう自分の道に立っているのだから ああ、連休明けの朝日だ
寂しいから 辛いから 生きている喜びを 分かち合いたいから 君と微笑んでいたいから 生きている 君が微笑むから 僕が微笑むから 生きている不思議を 分かち合いたいから 幸せを願いたいから 生きている そして たわいもない日々に 感謝する時 生きていることで いっぱいの幸せになる
昔のプルタブは 遊び道具になった 輪っかを指輪にしたり ヘラの部分をバネにして 輪っかの切り込みに 引っ掛けて 輪っかを飛ばしたり プルタブを拾い たくさん連結させて ネックレスにしたり 子供は なんでも遊び道具にして 楽しんでいた
緑ちゃんは 植物だから感情がない だけど僕には 笑ったり悲しんだりの 緑ちゃんの気持ちが わかるんだ 勝手に 思い込んでいるだけ そうよく言われる でもね 緑ちゃん好きだよ って言うと めちゃ微笑むんだから