《襍草・/・古往今来90》山螢袋


ヤマホタルブクロ(山螢袋) キキョウ科(Campanulaceae)
学名:Campanula punctata Lam. var. hondoensis (Kitam.) Ohwi

特徴; 全体にあらい毛があり、萼裂片は狭3角形、花冠は紅紫色で種子に狭い翼をもつ。

「研究者ノート」(筑波大・松本定、中野好基)
『ホタルブクロにマルハナバチがやってきます。
先にオシベが熟し、次にメシベの柱頭が開くときにはちぢれているので、自花受粉しない仕組みになっています。
蜜のある奥の部屋の入り口は狭く、この蜂は口吻を伸ばして吸うため、花粉が体毛に付いて送粉されます。
大島を除く伊豆七島に小型の花のシマホタルブクロが見られるのは、大型のマルハナバチは分布せず、
小型のハチや自家受粉によって種子繁殖を行うためのようです。
本土の海岸付近には淡紅色~白花のホタルブクロが、標高が高くなるにつれ赤紫色のヤマホタルブクロが多く見られます。
両者の区別点は、前者にはガク裂片の間に反り返る付属体があるが、後者には無いことです。
近年、伊豆下田市須崎には
葉が厚く光沢があって毛がほとんど無い白花のハマホタルブクロとソナレヤマホタルブクロが報告され、
計5変種とも園内に植栽されたため中間形が生じています。

現場の目
名の由来は子供たちが捕まえたホタルをこの花で包んだことによるが、
そうして家に持ち帰ってホタルを蚊帳の中に放したのでしょう。
ホタル自らがこの袋状の花に入り込む意味ではなさそうです。
ホタルブクロは種子でも繁殖するが、つる枝で旺盛に増えます。
庭に2-3株植えると3-4年後にはホタルブクロで埋め尽くされます。』

自然分布
本州(東北地方南部-近畿地方東部)の山地に分布。


6月28日誌「6/14座間市・谷戸山公園」
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《襍木・/・古往今来89》紫陽花(園芸種3)


園芸種、各地の自生種・・・いずれにしても綺麗だ。
微妙に違う萼片・色。見たままに画像記録。



6月27日誌「5/25相模原市・麻溝公園」
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《襍木・/・古往今来88》紫陽花(園芸種2.)

公園等、人が管理育成しているアジサイ。
面白いのは、自生地では中々見られない組み合わせ。
手毬アジサイと、萼あじさいが寄り添っているみたいだ。

梅雨とアジサイの花、そして色の感じで雰囲気も変わる。
アジサイの「色」ではっきりとしているのは、
アントシアニンという色素に金属のアルミニウムが関係して青色花になること。
昔から言われている酸性の土壌では藍色になり、
アルカリの土壌では紅くなると言うことは間違いなさそうだ。
日本の多くの土壌中にはアルミニウムがたくさん含まれている由。
土壌が酸性だとアルミニウムは植物に吸収できる形になるが、
アルカリ性だと水に溶けないので吸収できない。
酸性でアルミニウムが多い土壌では植物の生長は妨げられる。
が、アジサイは沢山アルミニウムを吸収できる植物だとか!!
生育障害も起こさない。昔の人の経験則?観察ってすごい。
「集まった藍色の花」の意味で、集めるの意の「あづ」に「真藍(さあい)」、
で「アヅサアイ」が「アジサイ」となったとのこと。
6月26日誌「5/25相模原市・麻溝公園」
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《襍木・/・古往今来87》亜米利加紫陽花(園芸種1.)

アナベル、アメリカ・ノリノキ
アジサイの歴史概説(おたくさ考)でも記したように、アジサイ属で、最初に学名がついた花の園芸種。
萼片をじっくり見ると3枚・4枚が混在している。


アメリカアジサイ(亜米利加紫陽花) アジサイ科(Hydrangeaceae)
学名:Hydrangea arborescens 'Anaabelle'
別名: アナベル、アメリカ・ノリノキ


6月25日誌「5/25相模原市・麻溝公園」
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《襍感・/・庭の花暦》作百合

2014・7・13 サクユリの蕾。
2014・7・14、早朝。サクユリが開花した。(画像2)

7月13日の夕方、所要を終えて帰宅した。
庭の片隅を眺めると、今年もでっかいユリの蕾が見えた。
開花寸前!! オモタァ~~イって感じだった。(画像1)

7月14日の早朝(夜明け頃)、我が家の3男(猫)が、書斎におねだりに来た。
僕が在宅してると、早朝に部屋にやってきて早朝・食事!のおねだりなんだが、
しきりに外へ誘うのだ?? 
暫く前に、仲良しの野良猫ちゃんが来訪するようになったので奴か??
ってリードを付けて外に出た。ノタノタ歩いた先に、風に揺れてるユリ・・!
早朝に咲いたのだろう!! 優雅に見えるが・・・ともかくでっかい。
24cm(直径)もあった。昨年と同じ日に咲くなんて・・・・驚きだ。
1本しか径を出さないが、迫力満点のユリである。(画像2)


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《襍囈・/・古往今来86》「おたくさ」考。


Hydrangea Otaksa Sieb. et Zucc. Hydrangea macrophylla (Thunb. ex Murray) Ser. f. macrophylla

今年も自生アジサイ巡りが出来た。その前にチョット想う事を。。。!
「アジサイ」の日本固有種・園芸種が西欧に渡り、
そこから色々な品種が生まれ、総体的に「西洋アジサイ」と総称している。
里帰りしたアジサイの数々だが、その親種は・・・今は?ッて思うのだ。
すでに日本では絶滅・消滅・・・存在しない種類もあるようだ。

学名を思うとシーボルトの「おたくさ」は幻状態だ(上画像)、、、!
「おたくさ」がどんなDNAを持ち、今に受け継がれているだろうか??
植物に関するロマン的部分、日本人として見ると感慨深いものがある。
園芸種アジサイが各所で彩り、園芸大国・にっぽんを誇示、
競いあうように各所で品種発表会の如くに植栽されている。
それはそれで良いが、野生・自生アジサイが減少してる?
首都圏の場合、宅地開発・公園整備等が禍してるのでは?
そして、園芸種が多過ぎると感じて止まない。
又、自生種か、園芸種かわからないほど似通ったものもある。

シーボルトが紹介した手毬アジサイ(園芸種!?!)が、
記録画(上画像)で残っている。
以前、ブログルに記したアジサイ(2012/6/17)。このアジサイ(otaksa)、
現在ではどの品種か判らないのではないか??
品種名はさて置き、浪漫溢れるアジサイである。
学名って面白い、が園芸種に学名をそのまま使う傾向はなぜだろう??
日本語のアクセント、古代ギリシャ語、ラテン語と似ているとしてもだ!

以前「ステレオポニー(女性バンド)」がシアトルの「Sakura-Con」に出演、
その折の曲の中に『ハイド.ランジアが咲いている・あじさい』”
この曲名を見てピッタリッて思った。アメリカ的って思ったものだ。
西欧の多くの言語が、日本のアジサイを“hortensia”と表記する。
英語(米語といったほうがよいか!?!)だけが学名表示。
hydrangea[ハイドランジア] 英語、辞書には、hortensia=アジサイともあるが。
英語として「あじさい」を指す“一般名”(common name)では、hydrangeaである。
だが、英語で“hortensja”と言うと「ハナガサギク」(花笠菊)指すことが多いか?
「ハナガサギク」キク科オオハンゴンソウ属 (ルドベキア属) の 「オオハンゴンソウ」
Rudbeckia laciniata(日本では、単にルドベキアと表記)。
学名、Rudbeckia laciniata var. hortensia;
故に英語・日本語では、「アジサイ」を指さないか!!
よって英語で「アジサイ」 と言えば、hydrangeaが出てくるようだ。
学名は、一般的にラテン語表記で示される。
ラテン語は、西欧学術の基本共通語でもある(現代でも)。
「アジサイ」の学名初例は、日本のアジサイに付けられたものではなく、
北米原産のアジサイについた名である。
“Hydrangea arborescens”「ヒュドランゲーア・アルボレスケンス」一般名 smooth hydrangea。
“Hydrangea ”「ヒュドラン ' ゲーア」とは、学名としてのアジサイ属の属名。
従って「アジサイ」を“Hydrangea ”と呼ぶ英語表現は正しいのだが!
西欧で 「アジサイ」を“Hydrangea ”と呼ぶのは、英語だけである。
そこには、西欧に「アジサイ」が紹介された経緯・背景がある。
西欧で人気のある“花の集まりが球状をなす”アジサイ、
いわゆる「セイヨウアジサイ」。
それは、主に日本原産の “手毬咲き (てまりざき)”
「ホンアジサイ」を西欧で改良したもの。
日本原産のアジサイは、本来「ガクアジサイ」、
『万葉集』で「あぢさゐ」と詠まれたのは「ガクアジサイ」のこと。
アジサイの異名として、平安時代から江戸時代に至るまでは、
「よひら」「 よひらの花」「四葩」 が見える。
「ガクアジサイ」 の周囲の装飾花、
4枚の花びら(花弁ではなくガク <萼>だが)を表現したもの。
江戸時代中葉には 「ホンアジサイ」が園芸種として一般的にも流通してた。
「ホンアジサイ」は、「ガクアジサイ」の中心に纏まった小さな “両生花” が、
“中性花” に変異したもの。
花が球状を成す品種で「手毬・手鞠 (テマリ) 咲き」 と称している。
また、「テマリ咲き」 のホンアジサイを「手毬花・手鞠花」 (てまりばな)
と呼ぶ方言も多く見られる。
しかし、一般的には、ヤブデマリの園芸品種「オオデマリ」(大手毬・大手鞠)
の異称を「テマリバナ」という。

「テマリ咲き、ホンアジサイ」は、テュンベリーやシーボルトが
日本で採取したアジサイの標本で見れる(上画像)。
長崎・出島に医師として赴任したスウェーデンの植物学者テュンベリーが、
アジサイの標本を持ち帰ったのが 1778年。
その後、出島に赴任したシーボルトが命名した
 Hydrangea otaksa 「ヒュドランゲーア・オタクサ」、
ホンアジサイをオランダに持ち帰ったのが1830年であった。
がそれ以前にも「テマリ咲きアジサイ」は、渡欧していたらしい。
“ hydrangea”「ヒュドランゲーア」と言うラテン語名は、
オランダの植物学者“Jan Fredrik Gronovius”が命名。
これは、日本の「ホンアジサイ」ではなく
北米原産の“アメリカノリノキ(アメリカ糊木)に付いた学名(1739年)。
今言う“Hydrangea arborescens [ ヒュドラン’ゲーア アルボレス’ケーンス ]は、
グロノヴィウスが付けた学名ではなく、後年のリンネが命名したもの(なんとも複雑)。
古くは、1語命名(グロノヴィウスが“hydrangea”と命名したように)であった。
二名式の学名を普及させ確立させたのは、
カール・フォン・リンネ(Carl von Linné、1707年5月23日-1778年1月10日)。
《スウェーデンの博物学者、生物学者、植物学者。「分類学の父」と称される。》
この“Hydrangea arborescens”「アメリカノリノキ」 は、
米国東部からカナダの岩壁河岸や渓谷に自生しており、
現在では、“Annabelle”「アナベル」という園芸種で知られている。
アジサイの仲間は、「朔果(さくか)」 と呼ぶ実をつけ、
熟し乾燥すると実の皮が裂けて中のタネが撒き散らされる。
裂けた実が、「小さな水壺」を連想させ、グロノヴィウスは、
hydrangea 「小さな水壺」 という名前をつけたようだ。
一般に見る「テマリ咲きアジサイ」は、総ての花が中性花
(ガクアジサイの装飾花と同じ)で枯れても実がならない。
古くのアジサイ名は、“Hortense”「オルタンス」 という貴婦人の名で呼ばれていた。
「ホンアジサイ」に西欧全般で使用されるようになる
「通名」(common name)がついたのは1771年から1773年頃。
フランスの博物学者“Philibert Commersonフィリベール・コメルソン”が
フランス語で“Hortense”とアジサイを呼んだ。
名前の由来等は、不明だが“Hortense” という女子名は、
古代ローマの氏族名 Hortensius「ホルテンシウス」に見える。
“Hortense”最初に「ホンアジサイ」に付けられた名前だが、学名ではなかった。
コメルソンが、「ホンアジサイ」を“Hortense”「オルタンス」と呼んだ10年後、
スウェーデンの植物学者テュンベリーが、日本産のアジサイの分類を行った。
テュンベリーは “オランダ東インド会社”の医師として
長崎の出島に 1775~1776年の1年間滞在している。
その間に多数の植物標本を収集して持ち帰っている。
テュンベリーの日本産「ホンアジサイ」、
学名、Viburnum macrophyllum Thunb. (1784)が学名の最初。
だがその学名には、“Hydrangea”“Hortensia”の表記が無い。
テュンベリーは、日本から持ち帰った
「ホンアジサイ」の 属名(分類名)を間違えたようである。
“Viburnum=ガマズミ属”としている(アジサイとガマズミは外見がよく似ているが)。
種小名“macrophyllum”「大きい葉の」で「大きな葉のガマズミ」 と名付けている。
未知の植物群、分類方法が判然としていない時代の学者の試行錯誤が見えて興味深い。

前置きは、此のくらいにしてシーボルトのことに戻って、「“otaksa” おたくさ考」。
学名には、先取権の原則があって、先に発表した学名が 「有効な学名」とされる。
知らずにあとから発表された学名は 「異名/シノニム」 synnonym という扱いに。
年代を追ってみると;
1739年 オランダのグロノヴィウスが北米原産のアメリカノリノキをラテン語で Hydrangeaと表記。
1753年 リンネがグロノヴィウスの Hydrangea を引用し、「アジサイ属」 の名前に当てる。
1771 or 1773年 フランスのコメルソンが出自不明のアジサイをフランス語で Hortenseと表記。
1775~1776年 テュンベリーが出島で植物標本を収集
1784年 テュンベリーが日本のホンアジサイを Viburnum macrophyllum と分類する。
1788年 英国のジョゼフ・バンクス卿がキュー植物園に、
    中国から持ち帰ったというテマリ咲きのアジサイをもたらす。
1789年 フランスのラマルクが、コメルソンが Hortense と呼んだアジサイを 
    Hortensia opuloides と分類する
1790年 英国のジェームズ・エドワード・スミスが、ジョゼフ・バンクス卿のアジサイを
    Hydrangea hortensis と分類する。
1823~28年 シーボルトが出島で動植物の標本を収集
1829年 シーボルトがガクアジサイを Hydrangea azisai と分類する。
1830年 フランスのスランジュがHortensia, Hydrangeaという2つの属をHydrangeaに統一する。
1839年 シーボルトがホンアジサイを Hydrangea otaksa と分類する。

1830年、フランスの植物学者 ニコラ・シャルル・スランジュ(Nicolas Charles Seringe) が、
Hortensia属、Hydrangea属を、同一と判断して属の統合を行った。
同一種に対して、複数の学名が存在する場合、「先取権」 に基づいて決められる。
属名として、ラマルクのHortensiaは無効で、リンネのHydrangeaが残った。
「ホンアジサイ」 の分類はテュンベリーがいちばん早いので macrophylla という種小名が有効。
学名は、Viburnum macrophyllum Thunb.  「ウィーブルヌム・マクロピュッルム」
        ↓
    Hydrangea macrophylla (Thunb.) Ser.「ヒュドランゲーア・マクロピュッラ」
( )の中は、属を移動する前の命名者の名前です。
つまり、( )の中の人物は「種小名の命名にしか関与していない」 ということ。
Thunb. は Thunberg “テュンベリー” の略。
そのあとの、( ) に入っていない命名者 Ser.(= Seringe スランジュ)は、
この種の帰属を他の属からこの属に変更した意。
この新しい学名表記からでは、もとの属がナンであったかはわからない。
シーボルトが分類した日本原産の「ガクアジサイ」Hydrangea azisai は、
この時点では“アジサイ属”Hydrangeaであった。
が、1世紀後の1923年、英国の植物収集家アーネスト・ヘンリー・ウィルソン
(Ernest Henry Wilson)により「ガクアジサイ」は「ホンアジサイ」の変種とされ、
シーボルトが名付けたazisaiという種小名は無効になってしまう。
「ホンアジサイ」と同じ“Hydrangea macrophylla”という学名のもと移つされた。
   Hydrangea azisai Siebold et Zucc.
        ↓
   Hydrangea macrophylla var. normalis E.H.Wilson
変種名のnormalis「ノルマーリス」 という形容詞は
norma「定規、規範、基本となるもの」 という名詞から派生した形容詞。
「ホンアジサイ」 の元は 「ガクアジサイ」 である、という意味合い。
これでシーボルトの学名は消えた。
1956年、日本の植物学者、原寛 (はら ひろし)が、
「ガクアジサイ」は“変種”ではなく、“品種”formaという見方を示した。
これは、必ずしも人工的に生み出された“品種”ではなく、
“変種”よりも下位の分類「個体に少々の変異があらわれるもの」を指す。
人工的につくられた品種は “園芸品種”と言い、
以前は、cultivar(略 cv.)で表記していた。
現在では、学名のあとに‘’(シングルクォーツ) で囲って示す。
この “変種” → “品種” の変更によって、
更に、「ガクアジサイ」 と 「ホンアジサイ」 の学名の表記が変わる。
「ガクアジサイ」
   Hydrangea azisai
      ↓
   Hydrangea macrophylla var. normalis E.H.Wilson
      ↓
   Hydrangea macrophylla f. normalis (E.H.Wilson) H.Hara 
「ホンアジサイ」
   Hydrangea macrophylla
      ↓
   Hydrangea macrophylla var. macrophylla
      ↓
   Hydrangea macrophylla f. macrophylla

扨々、本題の「シーボルトは、なぜ、“お滝さん” を “オタクサ”と書いたのか?それも“otaksa”
シーボルトは、出島で楠本滝を妻としていた(経緯・仔細は略)。
シーボルトは、1823年11月15日付けで、故郷ドイツのヴュルツブルク Würzburg にいる母方の小父(おじ)、
フランツ・ヨーゼフ・ロッツ Franz Joseph Lotz に滝と暮らし始めたことを手紙で報告している。
"Auch habe ich mich der alten holländischen Sitte unterworfen
und mich pro tempore mit einer liebenswürdigen 16-jährigen Japanesin verbunden,
die ich nicht wohl mit einer Europäerin vertausche."
(わたしは、オランダ人の昔き習慣に従い、一時的に(pro tempore)、
愛らしい16歳の日本の娘と結婚し (verbinden) ました。
ヨーロッパの娘をこの娘の代わりにするなど考えられません。)
此の文面は、当時の出島での規律に照らすと思う所多々ありますが。。。

シーボルトが「テマリ咲きのアジサイ」に付けた学名、
Hydrangea otaksa [ ヒュドラン’ゲーア オ’タクサ ]
の種小名 otaksa は、永らく、何を意味するか謎でであった。
長崎あたりの方言名などと考えられてもいた。
otaksaの真意を推察したのは、植物学者の牧野富太郎博士であった。
otaksa が 「お滝さん」 の訛りであろうと。
しかし、アジサイに遊女の名前が付けられたことにひどく憤っていた由。
ここで浮かび上がるのは、 Otaki-san が otaksa???
日本人的に言えば、otakusaでしょう。
otak(u)saの“ u”は、西洋人がotaksaと書いた場合、
kとsのあいだで落ちている母音がuであるとはかぎらない。
uと断言してる思い込み、日本語的発想でしか無い。
日本語版Wikipediaでは、otakusa、otaksaが混在表記されてる。
シーボルトは、なぜ、otaksa「オタクサ」と書いたか?
いろいろな推論がなされているようだが、
“otaksa”をシーボルトが、
日本語から如何にラテン文字転換していたか、検討すべきでは!?!
2007年、「ちくま学芸文庫」刊『日本植物誌』に沢山の日本語植物名の転写がある。
また、シーボルトが帰国後に記した『日本』“NIPPON”には、
日本滞在中の出来事・日本の風俗・習慣・歴史・地理など、
広汎な事柄についてドイツ語で記した、
さまざまな分野の日本語日常語彙、固有名詞などがラテン文字表記されている。
こうした語彙をみるとシーボルトが、日本語のラテン文字表記をオランダ語方式で表したと考えたい。
当時、オランダはヨーロッパで唯一、日本と交流あった国、定着した表記法も存在していた。
ドイツ語文章中でもドイツ語式表記はせず、まれに、tsとすべきところをtzと独語表記している程度。
シーボルトの表記法の特徴は、オランダ語方式で表していることだ(分析詳細は略。)。
又、シーボルトの日本語のラテン文字綴りが「不安定」なこと。
シーボルトの表記にはユレがあり、しばしば規則を外している。
シーボルトは、日本語の音韻体系をよく理解していなかった、と想像する。
長崎方言で 「お滝さん」 と言った場合、その発音は、“キ” が無声化する。
日本人は、無声化した “キ” と “ク” を口蓋化の有無で聞き分ける。
「オタクサン」と 「オタキサン」の区別ができるのだが、
k 音について、西ヨーロッパ出身の西洋人には、この区別は不可能だったのではないか?
耳で聞こえないものを文字で書き分け用もないのは、至極当然だと思える。
つまり、“キ” ki の母音が落ちていることは聞いて、すぐにわかるが、
それが 「硬口蓋化している」 ということは認識できないし、ましてや、文字で表すなど???
シーボルトが 「オタキサン」 というコトバを、耳で聞いたままに書き記そうとすると、
どうしても、Otaksanになってしまうのは論理的に説明がつく。
シーボルトが“otaksan”ではなく、“ otaksa”としたのは、
ラテン語として語末が-aで終わらないと、女性の名前にならない。
ラテン語による記述で文法的に変化させられないから、ではなかったか、と推測する。
otaksaというのは、otaksaeという属格形ではなく、otaksusという形容詞の女性形でもない。
つまり、 Hydrangea「ヒュドランゲーア」“アジサイ属”という属名と
otaksa「オタクサ」という種小名は、「同格 (主格) の名詞の並記」とみなすべきと思う。
こうした、主格の並記というタイプの学名は決して少なくなく、特に、動物の学名に多い。
ニシローランドゴリラの学名 Gorilla gorilla gorilla などというタイプは、
亜種名まで種小名がくりかえされており、主格が3つ並んでいることになる。

検証は大変ですが、推論で浪漫はより高まる。あじさいへの思い入れであります。

「6月24日誌・叛逆のろれつ」
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《襍草・/・古往今来85》判らない花。


クサイ(草藺) イグサ科(Juncaceae)
学名:Juncus tenuis

「6月 14日《襍草・/・古往今来59》!?!分からない花名。」を記した。
色々調べても??所が、コメントを下さったmoonさんの「懐かしい匂いがする花です。」
をヒントに手元の資料を見ていて、ついに見つけた。
なんとも面白い・・・イグサ(藺草)をひっくり返してクサイ(草藺)。
名付け親に聞いてみたい命名経緯を。
何処でも見られる草だが、花を見たことがなかった。
「クサイは6月頃に茎を出して数枚の苞葉を出し、その中心部に目立たない花を付ける。
花の基本数は3であり花弁に相当する花被片は内側に3枚、外側に3枚、雄しべは6本。
雌しべの柱頭は3つに分かれ風に乗って運ばれてくる花粉を捕まえやすいように綿毛状。」
と資料にでていた。
ごくごく身近に見れる草でも出会う瞬間を逃すと花を見れない。
注意力不足を再認識した瞬間でした。moonさんは、知っておられたのだろう。
ヒント、有難うぞんじました。

そうだ、、、夏過ぎたら畳の手入れをしなければ、、、!
それと、資料の整理と写真添付。。。時間がほしい!?!


6月23日誌「5/25大和市・泉の森」

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《襍感・/・自転車レース&お菓子》Tour de France

2014・07・05(画像1)
パリブレスト(画像2)。


今年もツール・ド・フランスが始まった(第101回目)。
昨日(5日)、初日・・プロローグは、英国・ヨークシャーからリーズまで190.5km。
第1ステージ、開幕スプリントを制したのは、マルセル・キッテル(ドイツ、ジャイアント・シマノ)
2年連続の第1ステージ制覇!!(画像1)。これ又すごぉ~い~~~!
今年も日本人では、新城幸也(ユーロップカー)が参戦している。とても楽しみだ。

扨々、このレース、個人的にもとても感慨深いレース。
レースを知ったのは、40年も昔のこと。
1968年12月六本木にフランス菓子専門店「A.ルコント」が開店。
日本で初のフランス人パティシエのフランス菓子専門店。
オーナーシェフパティシエ、アンドレ.ルコントさん、愉しい方だった。
その名店「A.ルコント」が、2010年9月26日(日)に閉店。
閉店前の6月にツール・ド・フランスを記念してのお菓子のイベントがあった。
仏蘭西の伝統ある調理の専門学校”ル・コルドン・ブル-”と
仏蘭西の伝統的地方菓子の普及に取り組む“クラブ・ドゥ・ラ・ガレット・デ・ロワ”
が共催で自転車レースから生まれたフランスの伝統菓子「パリ・ブレスト」(画像2)、
そして仏蘭西の地方菓子を紹介するイベント。
クラブ・ドゥ・ラ・ガレット・デ・ロワ、ル・コルドン・ブルーのシェフパティシエ。
超一流のパティシエが、個性ある「パリ・ブレスト」と様々な地方菓子を披露した。

この両団体と深い関係を持ちフランス料理アカデミー日本支部の初代会長を努め、
日本に仏蘭西菓子文化を紹介し続けた“Andre Lecomte”さん。
この方を抜きにして菓子「パリ・ブレスト」や「ツール・ド・フランス」は、語れない(僕個人)。
故アンドレ・ルコント氏が、お菓子や料理を通じて日本に伝えたフランス文化。
彼のエスプリの効いた会話が懐かしい。
このケーキ、”パリ・ブレスト”は、ツール・ド・フランス(Tour de France)ゆかりのお菓子と聞いた。
ツールの前身レース(モデルになったレース)1891年にパリとブルターニュ地方の町ブレスト間で、
「パリ・ブレスト・パリ」(PBP)が行われた。 パリ~ブレスト間の約1200kmを90時間以内に往復する。
伝統菓子の名称の由来は、諸説あるらしいがこのレースの開催を記念して作られたと言うのが有力な説。
パリのロングイユ通り(コース沿道)にあった「メゾン・ラフィット」という菓子店の職人、
ルイ・デュラン氏が考案したと伝えられている。

※ツール・ド・フランスは、スポーツ新聞ロト(L'Auto・今のレキップ紙)がライバル紙に対抗して企画されたのが始まり。自転車レースを企画していた他社とは、ル・プティ・ジュルナルがパリ~ブレスト往復、ヴェロ紙がボルドーパリを主催していた。
この中で最も古いのが”パリ・ブレスト・パリ(Paris-Brest-Paris,PBP)、1891年に第一回大会が開催されている。このレースをモデルにして出来たのがツール・ド・フランス、つまりは、フランス一周レース。※
仔細は別にして、こうした事を教えてくださったのは!40年年以上昔・学生時代。。。
当時、六本木の”A.ルコント”で、オーナーのAndre Lecomteさんから教えて頂いた。
東京オリンピックの仏蘭西菓子シェフとして来日、終生、日本での仏蘭西菓子発展に寄与した方である。
彼のエスプリに富んだ会話が懐かしい。
当時、ロードレーサーで訪れ2階のサロン・ド・テで飲食する者などいなかったからか??
頂いているケーキに色々と解説をしてくださった。その一つが「パリ・ブレスト」だ。
リング状に絞ったシュー生地にクレーム・プラリネを挟んだ姿は、自転車の車輪をイメージしている!?!
上には、アーモンドスライスをたっぷり振りかけて。。。
又、上にアーモンドが無く中にクレーム・シブーストを使ったものはパリ・ニースと呼ばれている。
中に挟むクリームにもイタリアンメレンゲを加えた軽いバタークリームを使ったり、カスタードを加えたり、
シャンティを加えて軽やかにしたり。。。
お店によって、シェフによって少しずつアレンジされて楽しい。
*パリ・ブレストそしてパリ・ニース・・共に現役のロードレ-ス*

A.ルコントさんのパリ・ブレストは、クレームパティシエールにバター、
プラリネ、シャンティー、イタリアンメレンゲも加えた、スペシャル・クリームだった。
”クレーム・パリ・ブレスト”としか言い様がないかも・・とルコントさんは、解説していた。
手間がかかるためか、お菓子屋さんで余り見かけない。
クラブ・ドゥ・ラ・ガレット・デ・ロワ(フランスの伝統菓子の継承や普及のための団体)が、
ツール・ド・フランスに合わせて7月(2010年のこと)にプロモーションして、
クラブ会員各店に”パリ・ブレスト”を店頭に登場させたとか。。。
多くは、プティガトーサイズ、夏場に合わせシャンティー・オ・プラリネの軽いクリームだったりと、
シェフも時代の嗜好に合わせて、伝統をベースにしながら試行錯誤されていたようだ(友人情報)。。

・・・ケーキ好き・ツールファンには、溜まらない!!
A.ルコントと云えば今一つ、思い出のケーキがある。
Eufs à la neige souce anglaise (ウフ・ア・ラ・ネージュ、ソースアングレーズ)。

A.ルコントさんは、伝統的な菓子職人。ムッシュ・ルコントと言える風貌だった。
僕の好きだった、2つのケーキ・・・
Eufs à la neige souce anglaise(ウフ・ア・ラ・ネージュ、ソースアングレーズ)
Paris Brest(パリブレスト)
六本木の小さなお店の2階・サロン・ド・テでの会話を思い出す。
パンも素晴らしかった。特にA.ルコントのクロワッサンは、絶品だった。
日本国内で、あれを超えるものを食した事がない。
昭和は、遠くなりにけり・・・だ!!

André Lecomte(アンドレ・ルコント)さんは、
1931年 フランス・フォンテーヌ・ブロー生まれ。13歳で菓子職人の修業を始める。
1956年 ホテル・ジョルジュサンクのシェフパティシエに就任。
1963年 ホテルオークラの招聘で来日。
1968年12月17日 六本木に日本初のフランス人パティシエのフランス菓子専門店「A.ルコント」を開店。
1968年 フランス料理アカデミー日本支部創設のために尽力し、初代会長を務めた。
1978年 店舗を六本木から青山に移転。
1994年 「ブラッスリー・ルコント」を青山にオープン。
1999年 逝去。
その後は、奥様ががんばっておられたが、、、閉店を決断された。

僕の学生時代・・・フランスの街角にあったサロン・ド・テ、そのものだったケーキ屋さん。
懐かしく思いだすが、淋しい限りだ。。

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《襍草・/・古往今来84》大紫露草


オオムラサキツユクサ(大紫露草)  ツユクサ科(Commelinaceae)
学名:Tradescantia virginiana

北アメリカ東部原産の草花。今や道端や空き地に野生化している。
紫陽花見物で賑わっている公園。だが、力強く自己主張?咲き誇っていた。
花弁は、青・紫色・バラ色・白色とあるらしいが、青系しか見たことが無い。
花糸の紫色が美しい。

6月22日誌「6/8相模原市・麻溝公園」

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《襍感・/・美味・洒脱》紫陽花見物の途で。

丼に鯵のたたきを入れたところ。これでたたきは半分。
中身は、早々に食べてしまって、外箱ロゴを撮した^^)。
「プチホテル グランベール」食堂の出窓。

6月18日~20日、西伊豆松崎から南伊豆・東伊豆・伊豆高原へと紫陽花探しに出かけた。
箱根を上がって1国を三島へ降りたが、昨年ほどひどくはなかったが、濃霧の山中を。
山中の所々で紫陽花を確認しながら伊豆国へ、堂ヶ島・西天城高原を通り西伊豆松崎についた。
小雨模様の紫陽花日和^^)、お腹が空いた所で食探し。偶然広い駐車場を見つけ、
その脇に「さくら」という食堂が、、。他に探すの面倒!!って店内に入った。
地元の人・観光客?、結構賑わっている。カウンター席にして、品書きを見る。
地魚料理が定食として幾種類もあった。なかに「アジまご茶漬け」なる品書きが!?!
これに決めた(歯の治療中でお茶漬け・・・嬉しい)。それと面白い文面が??
「ところてん」食べ放題・無料サービス!(残したら料金頂きます?)
極普通のところてんの他にあんみつでお馴染みのブロック状寒天スタイルが数種類。
好みのものを、自分で取ってくる。。。おいしい、 ほんとにオイシイ!
料理が中々出てこないのを良いことに、数種類頂いてしまう。

料理が出てきた。 まずは、お通し 魚(イワシ?)を甘辛く煮たもの。
 お新香、サラダ、かき揚げ(タマネギと明日葉!)、これが前菜!!
アジのたたきが、お茶碗一杯!に出てきて・・・驚いた。山盛りじゃん!!
極めつけは、ご飯が、お釜で・・・!オカマでご飯を炊いて出してくれたのです。
「お米が立ってる!!」おいしい。。。。「ところてん」は、前菜の前菜!?!

  「まご茶漬け」 食べ方を店の方が説明してくださる。
まずアジのタタキににんにく醤油をかけ、半分のご飯と一緒に頂く(これだけで満腹感)、
女将さんのお薦めとおりに!!残りのアジをご飯に全部乗せてお店の方に渡す。
すると、熱々の魚スープをかけてくれた。これが、まご茶漬け!であった。
食べ進むほどに美味しい!
自家製のにんにくしょうゆや、うめず、ぜつみょうの味。幸先良い出会いだった。

食後、松崎山間部にある「石部棚田」を見に、平日なのか?何方とも出会わず、静か。
石部は昔、石火と呼ばれ岩に神が宿るとして火を燃して海上交通の目印とするなど、
火に縁のある地区で、故事にちなみ、棚田の畦に蝋燭を灯す催しが在る由。
散策し終えて、いざ南伊豆へ。

場所・地名的に南伊豆に入った途端に、ガクアジサイが、沿道に顔を見せ始めた。
昨年、見そびれた所など見聞して宿泊場所の下田蓮台寺へ。

二日目、いよいよ以って、紫陽花「行脚」の様相を呈してくる。
野の、自生紫陽花は、実に力強く映る。萼片が大きいのだ。
紫陽花については、「日誌」で記録したいとおもう、ここでは省略。

二日目の収穫、其一は、「ラスク」だった。
南伊豆・下賀茂にある製菓・パン屋さん!「大丸堂製菓」。
この辺りは、温室メロン栽培の草分け地。それ故、メロン最中は知られている。
この製菓店でもメロン最中は作られている。
しかし今回の目的は、「竹炭ラスク」なるものを求めて「大丸堂製菓店」に立ち寄った。
南伊豆町の「放竹林」を活性化利用、竹を食用炭粉に加工してパン生地と混ぜた物!!
この「竹炭ラスク」美容と健康に良いとか、帰宅して食してみると 「美味」!!

2日目~三日目、収穫は、宿泊、伊豆高原・大室山麓の「プチホテル グランベール」
緑濃い山懐の小さな宿。だが出迎えてくれたものが、とても心地良かった。
部屋に・・おそらくは、ホテル周辺に咲いていたと思しき野草が。
利用済み?小さな食材用ガラス瓶に可愛い手毬小紫陽花が生けられ出迎えてくれた。
夕食、食堂の窓には、ヤマホタルブクロが楚々と瀟洒な姿を見せる。
食事前に癒しの演出を見た。
さりげない宿主の感性を感じた一瞬、まさに「求美即不得美、非求美即美矣」と映った。
「用と美」久し振りに思い起こさせて頂いた言葉。若き頃よりの他力の恩恵に再会した思いだった。
この宿の食事、作り手の技が・・・食の演出が色々と見えた(筆舌に尽くしがたい)。
朝食も同様で、温かいパン等々、食に対する「心」が伝わってくる。

フランス料理に“アラカルト”(1品料理)を取り入れた、フランス料理界の祖、サーリーワイル。
伝説の調理人の伝記なども思い起し、食を堪能した。お陰で写真を撮るのを忘れた。
料理は作り手の感性そのものだが、味は料理代に比例する。作り手の価値か??
それを思うと、ここの宿泊代は、ゼロに等しい。
翌朝、朝食を頂きながら、ゼロは更に大きくなった^^)。

僕にとっての食文化感は、東京オリンピック頃に遡る。
調理に関しては、小野正吉さん、製菓は、アンドレ・ルコントさんから其々知識を得た。
温かいパンを頂きながらその頃を懐かしく思い出せた。

来週から始まる、ツール・ド・フランス(世界最大の自転車ロードレース)、
其の歴史と共にあるお菓子“パリ・ブレスト”
お菓子の由来を面白おかしく教えてくれた、ルコントさん。
フランス菓子・クロワッサン等、本物を食べさせてくれたルコントさん。
ルコントさんの作ったクロワッサン、絶品だった。そんなことも思い出せた今回の旅。

紫陽花は、春だけだが、、、四季折々と再訪したい場が現れた感を持つ。


「6/18~/20伊豆松崎~伊豆高原」
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