見ることから信仰へ From the Visible to Faith
Apr
6
聖書箇所 ヨハネ20章
あなたは、今日どのようにイースターを迎えますか。
イエス様の復活の証人たちのリアクションから学んで見たいと思います。ヨハネの20章は、最後の節によると、「イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである。」 But these are written that you may believe that Jesus is the Messiah, the Son of God, and that by believing you may have life in his name.
イエス様の親しくしていた人たちは、みな、がっくりしていました。あの優しいイエス様、権威のあるイエス様、この世の中を変えてくれると思っていた素晴らしいリーダーが十字架の上で死んでしまったのです。弟子たちも、家の中に閉じこもり、人々に弟子だと言うことで責められるのではないかとびくびくしていました。イエス様の十字架に最後までついて行った女性たちも悲しみでいっぱいでした。
①マグダラのマリヤ ヨハネ20:1,2, 16, 17
v1,2 さて、週の初めの日に、マグダラのマリヤは、朝早くまだ暗いうちに墓に来た。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。2 それで、走って、シモン・ペテロと、イエスが愛された、もうひとりの弟子とのところに来て、言った。「だれかが墓から主を取って行きました。主をどこに置いたのか、私たちにはわかりません。」
v16, 17 イエスは彼女に言われた。「マリヤ。」彼女は振り向いて、ヘブル語で「ラボニ(すなわち、先生)」とイエスに言った。17 イエスは彼女に言われた。「わたしにすがりついてはいけません。わたしはまだ父のもとに上っていないからです。わたしの兄弟たちのところに行って、彼らに『わたしは、わたしの父またあなたがたの父、わたしの神またあなたがたの神のもとに上る』と告げなさい。」
イエス様の復活の第一証人。となった。マグダラマリヤは、七つの悪霊から解放された女である。彼女は、多く赦され、多くイエスを愛する者となった。イエス様に解放されて以来、イエス様の行くところについて行き伝道していたのだそうです。
マリヤのイエスへの尊敬と愛は行動の伴うものであった。マリヤは、夜が明けていの一番で、主の墓に駆けていった。愛は、私たちに行動を起こさせます。そして、イエス様は、一番に、そんな主を愛するマリヤに現れてくださったのです。
みなさん、主を愛するものは、必ず主を見つけます。
そして、マリヤは、イエス様にすがりついた。もう、どこにも行かないで下さいと言わんばかりです。
しかし、イエス様は、「わたしにすがりついては、いけません。」と言われました。
マリヤは、目の前に見えているイエス様にすがる人生から、見えないイエス様とともに歩む人生に変えらることに導かれます。私たちも、はじめ教会に行き始めたとき、全てのことをメンターのような人に教わり、いろいろと手取り足取り教わったりします。しかし、一生その人についてその人を通して神様を知るのではなく、ある時、見えない神様と自分との二人の関係をしっかりと築くようになります。そして、聖霊様によって導かれ、歩んでいくと言う道を知っていくのです。
マリヤも、目に見えているイエス様にすがることを卒業し、この後に来る助け主聖霊様とともに生きる道に導かれていくのです。
②ペテロとヨハネ ヨハネ20:3-9
そこでペテロともうひとりの弟子は外に出て来て、墓のほうへ行った。4 ふたりはいっしょに走ったが、もうひとりの弟子がペテロよりも速かったので、先に墓に着いた。5 そして、からだをかがめてのぞき込み、亜麻布が置いてあるのを見たが、中に入らなかった。6 シモン・ペテロも彼に続いて来て、墓に入り、亜麻布が置いてあって、7 イエスの頭に巻かれていた布切れは、亜麻布といっしょにはなく、離れた所に巻かれたままになっているのを見た。8 そのとき、先に着いたもうひとりの弟子も入って来た。そして、見て、信じた。9 彼らは、イエスが死人の中からよみがえらなければならないという聖書を、まだ理解していなかったのである。
二人とも驚いた ペテロは、誰かが体を取って行ったにしては、亜麻布の残り方がおかしいと、不思議に思った。しかし、ヨハネは、「見て、信じた」とある。この後も、ヨハネは、あまりにもその事実に圧倒されたのか、みなに主が復活されたのだとは言わなかったが。。。
ヨハネは、空の墓を見たときに、聖書の言葉が成就したことを悟ったのでした。
V9 聖書のことばを理解していなかった。did not understand from Scriptureとあります。心の中に入っていなかったので、見ていることが何であるかが分からなかった。
私たちも、頭の中にある聖書の言葉が、目の前に起きていることと、結びつけることができなければ、なんの悟りも得られないのです。
私たち、クリスチャン生活の大切なことは、神の言葉を心に蓄え、そして、それを人生に適用することです。適用がなければ、何も起きないのです。
③トマス ヨハネ20:24-29
十二弟子のひとりで、デドモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたときに、彼らといっしょにいなかった。25 それで、ほかの弟子たちが彼に「私たちは主を見た」と言った。しかし、トマスは彼らに「私は、その手の釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し込んでみなければ、決して信じません」と言った。26 八日後に、弟子たちはまた室内におり、トマスも彼らといっしょにいた。戸が閉じられていたが、イエスが来て、彼らの中に立って、「平安があなたがたにあるように」と言われた。27 それからトマスに言われた。「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。信じない者にならないで、信じるものになりなさい。」28 トマスは答えてイエスに言った。「私の主。私の神。」29 イエスは彼に言われた。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」
弟子の一人のトマスは、あいにく復活のイエス様が他の弟子たちに現れた時に、居合わさなかった。トマスは「見るまで信じない」と言いました。また、「イエス様の傷に手を差し入れて確かめないと信じない」と言いました。
皮肉なものではないでしょうか。マグダラのマリヤは、12弟子でもないけれども、心からイエス様を愛し、どこにでもついていく人でありました。復活の朝も、朝早く走って墓に行きました。そのマリヤは、一番にイエス様にあいます。しかし、トマスは、弟子たちとも一緒にいなかった上、親しい友達であるほかの弟子たちが、復活のイエス様にあったという証言を信じませんでした。そして、8日の後、やっと本物のイエス様にあうことになるのです。トマスは、疑いの心をどうも持ち続けていたようです。十字架で死刑にされたリーダーにがっかりし、弟子たちとも一緒におらず、ひねくれていたのかもしれません。この疑いの心が8日もイエス様に出会うことを遅れされたのです。
イエス様が復活したのは、事実なのです。けれども、イエス様に実際であった弟子たちは、喜びに包まれており、トマスはまだ失望の中にいます。
私たちに、何を教えているでしょうか。聖書の事実も、実際のイエス様の存在にも、目が開かれていないなら、その人は、失望の中にい続けることができるのだ、ということではないでしょうか。
それが、同じ弟子であっても、です。
み言葉を覚えていない→み言葉を忘れる→心の目で見ない→不信仰・信じない→失望・希望をなくす
というサイクルの中に人は、陥ります。もし、今、みなさんの中で希望が持てない、がっかりしている、将来が信じられないなどと言う方がいたら、第一に神様のみ言葉を心に入れることからお勧めします。
第二に、日々の生活の中で、み言葉が言っていたことを探すことをお勧めします。そうすれば、少しの進歩、小さい奇跡にも気がつきます。そして、結果を見なくても、結果を信じることが出来るようになるのです。
トマスは、イエス様に出会いました。そして、イエス様は、トマスに傷跡にさわらせてあげまました。トマスは、納得します。
そして、イエス様は、言われました。「見たから、信じたのですか。」「見ずに信じるものは幸いです。」と。Because you have seen me, you have believed; blessed are those who have not seen and yet have believed.
さあ、今日は、イエス様の復活をお祝いするイースターです。み言葉を心のうちに蓄えましょう。そして、よく心の目を開いて、み言葉と見ているものを一致させましょう。そして、イエス様を信じましょう。
ぼ
Posted at 2015-04-06 15:23
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Posted at 2015-04-07 09:25
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