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十字架につけられた恥 Crucified Shame
2019年4月7日日曜日バイリンガル礼拝メッセージ音声は、
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ヨハネ19:1-16
そこで、ピラトはイエスを捕らえて、むち打ちにした。2 また、兵士たちは、いばらで冠を編んで、イエスの頭にかぶらせ、紫色の着物を着せた。3 彼らは、イエスに近寄っては、「ユダヤ人の王さま。ばんざい」と言い、またイエスの顔を平手で打った。4 ピラトは、もう一度外に出て来て、彼らに言った。「よく聞きなさい。あなたがたのところにあの人を連れ出して来ます。あの人に何の罪も見られないということを、あなたがたに知らせるためです。」5 それでイエスは、いばらの冠と紫色の着物を着けて、出て来られた。するとピラトは彼らに「さあ、この人です」と言った。6 祭司長たちや役人たちはイエスを見ると、激しく叫んで、「十字架につけろ。十字架につけろ」と言った。ピラトは彼らに言った。「あなたがたにこの人を引き取り、十字架につけなさい。私はこの人の罪を認めません。」7 ユダヤ人たちは彼に答えた。「私たちには律法があります。この人は自分を神の子としたのですから、律法によれば、死に当たります。」8 ピラトは、このことばを聞くと、ますます恐れた。9 そして、また官邸に入って、イエスに言った。「あなたはどこの人ですか。」しかし、イエスは彼に何の答えもされなかった。10 そこで、ピラトはイエスに言った。「あなたは私に話さないのですか。私にはあなたを釈放する権利があり、また十字架につける権威があることを、知らないのですか。」11 イエスは答えられた。「もしそれが上から与えられているのでなかったら、あなたにはわたしに対して何の権威もありません。ですから、わたしをあなたに渡した後に、もっと大きな罪があるのです。」12 こういうわけで、ピラトはイエスを釈放しようと努力した。しかし、ユダヤ人たちは激しく叫んで言った。「もしこの人を釈放するなら、あなたはカイザルの味方ではありません。自分を王だとする者はすべて、カイザルにそむくのです。」13 そこでピラトは、これらのことばを聞いたとき、イエスを外に引き出し、敷石(ヘブル語ではガバタ)と呼ばれる場所で、裁判の席に着いた。14 その日は過越の日で、時は第六時ごろであった。ピラトはユダヤ人たちに言った。「さあ、あなたがたの王です。」15 彼らは激しく叫んだ。「除け。除け。十字架につけろ。」ピラトは彼らに言った。「あなたがたの王を私が十字架につけるのですか。」祭司長たちは答えた。「カイザルのほかには、私たちに王はありません。」16 そこでピラトは、そのとき、イエスを、十字架につけるために彼らに引き渡した。
★ 十字架の道ぞなえ
バプテスマのヨハネは、悔い改めを解きました。メシアの到来に向けて心を備えよと。イエス様の公生涯の教え。神の御国が来ました。罪を赦し、悪霊を追い出し、病気を癒し、人々に愛することを教え神の国の解放を見せられました。しかし、三年のうちにイエス様は十字架にかけられることになりました。
どうしても、罪を認められない、どうしても宗教行事ではなく愛を選びたくない、自分が赦され互いに赦しあうことをしたくない人たちというのが、イエス様を十字架に向かわせました。
★ 恥が私たちの行動を決める 創世記Gen 3
初めの人、エバが蛇に騙されるシーン。「確かにそう言ったのか?」「あなたは死なない」「神のように賢くなることを知らなかったのか」三段階で、エバは、恥の思いを深くさせられた。私たちが行動する時に、強い動機になるのは、愛か恥です。塩狩峠の話しでも、愛によって突き動かされた青年が身を投げて電車を止めました。恥もまた強く私たちを動かし私たちに行動させます。
エバが結局神様の教えに背いたのは、恥を蛇につつかれたらです。確かにそういわれたか、と言われると、自信がなくなる、そこに、死なないよと嘘をいれられ、そして、神様はあなたにだけ教えなかったのではないかと、神様に対する疑いを入れました。エバは、恥の思いでいっばいになり、実をとって食べるようになるのです。
私たちも、恥によって物事を押し出し式に決めたり、自分の行動を左右させてはいないでしょうか。
結局、アダムは、神様と対面したときに、エバのせいにし、エバは蛇のせいにしました。自分の恥を自分のものとして認め、悔い改めることをしない時に、それを誰かに投影するのです。
新約のイエス様の十字架の前にも、たくさんの人の恥がかかわっていました。人々は、みな恥の思いをイエス様に転嫁したのです。
★ 十字架の周りの人々の恥
〇宗教人たち…祭司や律法学者は、イエス様の新しい愛の教えが赦せなかった。人々がみんなイエス様について行ったのが赦せなかった。今まで、伝統的に律法を守ろうとしてきたが、それがうわべだけの行動であるとイエス様に見抜かれて、腹を立てた。恥は、自分の本当の姿に耐えられないのです。
〇ピラト…ピラト、イエス様に罪がなく、十字架にかけるような罪を認められなかったし、イエス様を十字架にかけたくなくて、なんとか助け舟をだした。が、人々が、あなたはローマ、シーザーにに逆らうのか、と言われたその一言で、恐れた。恥は私たちに恐れを持たせます。裁かれることが怖いからです。ピラトは、その一言で、自分の恥に向き合わずに瞬時に、イエス様を十字架にかけることに決めたのです。
〇群衆…群衆は、今までイエス様にいい影響を受けた人たちもたくさんいたでしょうし、過去三年間、イエス様のうわさをいろいろと聞いてたはずです。群衆心理といいますが、これは、恥の集まりの心理とも言えるのではないでしょうか。現代の世の中では、SNS, メディア、ポリティカル、芸能ゴシップ、などもこれの現れだと思います。みな、自分の身近なことでもないこと、あるいは、本当か嘘かも自分で調べていない、ひいてはそんなに実は気にしてないことをどうしてあそこまでひつこく追いかけるのでしょうか。みんな、誰がが、罰を受けるところを見たいのです。社会的制裁social sanctionを受けるところが見たいのです。そうすれば、すっきりすると思うのです。
〇弟子たち、ペテロ…ペテロは、イエス様を追いかけて行きますが、結局、イエス様を知らないとのろってまで嘘をつきました。それも、恥がさせた行動です。自分がイエス様といつも行動をしていたものだと知れたら、明るみに出たら、人に裁かれるからです。制裁を恐れて嘘をつき、イエス様を裏切りました。
〇私たちは、みな恥の思いを持っています。そして、その恥を隠すために、とっさに行動を選んでしまうのです。自分の身体の外で、恥が罰せられのをみたいと思うのです。
★ 恥が恐れること
明らかにされること。
人に見られること。
裁かれること。
★ 私たちの恥がイエス様を十字架にかけたのです。
イエス様は、全てを体験してくださった。
イエス様は、私たちの罪を背負って、罪のないお方なのに、私たちの罰を代わりに受けてくださいました。私たちが一番恐れていることを体験してくださいました。
★ 恥が力を失うとき
恥は、Vulnerability とEmpathy で力を失う。
イエスは、素っ裸でうたれた傷を隠すことなく、自分の弱さを隠すことなく十字架に罪人として掛けられて、本来完全無欠、全知全能の神であるのに、死にゆく姿を人々に見せるという究極のVulnerability を示された。
このイエス様は、私たちの罪を赦し天国へ導いてくれる、ご自身を神への全焼のいけにえとして捧げられた大祭司であります。
そして、
へブル書4:15では、
私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。For we do not have a high priest who is unable to empathize with our weaknesses, but we have one who has been tempted in every way, just as we are—yet he did not sin.
私たちもイエス様のように、自分の弱さに正直になる時に、自分を隠さない時に、恥は力を失います。恥によって物事を決断することはなくなります。
また、私たちを理解してくださる、イエス様に慰めをいただくときに、また信仰の友に一緒に祈ってもらい、共感してもらう時に、恥は力を失います。
★ 招き
私の中に、恥はないだろうか。恥によって行動してはないか。
人に知られたくない部分。
それを人に投影してはいないか。
ゴシップをしてしまわないか。
誰かが裁かれるのを見て喜んでいないか。
その、恥のために十字架につけられたイエス様を信じましょう。イエス様は、あなたの恥を理解できる方であり、あなたを慰めてくださいます。
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