秀吉と信長
Oct
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茶々が正妻として立場を強くして行くものだった。
茶々と鶴松は秀吉とともに大阪城に住むことになり、
ねねは追い出される形で京の聚楽第に移り住むことになる。
茶々を取り込んで勢力を拡大して行ったのが石田三成である。
秀吉の子飼いとして幼少期からねねが世話をしてきた
加藤清正や福島正則、そして官兵衛は徐々に疎外されるようになる。
しぜん、家中に二つの派閥が対立する構造が出来上がる。
この後、小田原征伐が終わると朝鮮出兵が始まる。
目付き役の石田三成が加藤清正らの働きぶりをネガティブに秀吉に報告したことから恨みを買い、両者の対立は決定的なものとなって行く。
豊臣家が茶々派とねね派とに真っ二つに割れ、
やがてその豊臣家の内紛に乗じていくさを仕掛けるのが徳川家康。
いわば漁夫の利をむしり取ったタヌキさん(*^^*)
こうして見ると秀吉には信長のような世界戦略がなかったようだ。
朝鮮や明を従属させたいという信長の果たし得なかった夢を外面だけ継承しても、
内実が伴っていない。その器ではないということだろう。
鶴松可愛さとお家の存続が秀吉にとっての最優先課題。
トップがそのような私心を持っている以上、御家騒動は起こるべくして怒らざるを得ない。
アジアの覇者となるという途轍もない野望は、
少なくとも信長にとり「公」のものとしての位置付けであり、
その最終ゴールに向けての手はずが順次組み立てられつつあった。
南蛮貿易を奨励して貨幣経済を潤したのも、
貿易に伴う伴天連を優遇して、キリシタンを庇護したのも、
王としてのグローバルスタンダードを極東アジアにも確立させたいとする
戦略の一環ではなかったか?
運良く舞い込んだ天下を取ったがために
人変わりして私欲に走る秀吉は、得体のしれない化け物に成り果て行く。