秀吉の後継者と見込まれていた秀次が切腹に追い込まれた。
秀吉に生まれた秀頼の行く末の邪魔だてとなるのだという…
大河ドラマでは秀吉の私心による成敗で、秀次への同情を誘われるが、
本来そのような同情心の必要のない男である。
秀次は、もっと早い段階で葬り去られた方が良かった。
ルイス・フロイスは「日本史」の中で秀次のことを、
残虐非道極まる男であり、ネロをはじめとしてどんなローマ皇帝も彼ほどではなかったと報告している。
絶命の際の声を聞きたいなどどいい、興味本位から通りがかりの町人を何度も辻切りしている。
哀れなのは秀次の家族、親類一同39名が幼児に至るまで
三条河原にてズタズタに切り裂かれて絶命したことであろう。
ところで、現在でもイスラム国を名乗るイスラム過激派が同様の蛮行を犯して誇っている。
人権意識。
人の命の尊さ。
その尊厳さに思いが至らないことゆえの悲劇。
「どうして人を殺したらいけないの?」
小学生だったか、日本である子が教師にそう質問したという。
その教師がどのように答えたかは知らない。
生命の誕生も、ヒトまでの進化も偶然と適者生存が支配している価値観を教えている学校で、
どうやって善悪の基準を説くことが出来るのか?
聖書の教えが広まり、浸透していった社会で
「人権」という価値観が生まれてきたと言っていい。
科学技術の発展や経済の隆盛が社会に人権意識を移植させたのではなく、
聖書の教える神とその価値観が認められて、人ははじめて人らしい生き方に目覚める。
ざっくりいうなら、現在の少数民族を迫害する中国や自国民を洗脳して締め上げる北朝鮮、
そしてイスラム過激派、、、、
聖書の権威に真っ向から反する政権はどれも人権を踏みにじっている。
聖書の教えによれば、、
世界には一人だけの真実な神がおられる。
その方が天地宇宙の全てを創造された。
動植物をその種類に従ってそれぞれ創造された。
人は「ご自身の姿に似せて」創造された。
それゆえ、人は神と交流を持つことができ、また尊い存在なのである。
ところが最初の人、アダムは罪を犯したことにより神との交流が絶えてしまい(霊的な死)、
肉体的にもいつかは死ぬ運命の存在となってしまった。
憐れみ深い神は、人を何とかして回復させようとした。
その最後的な方法として愛するひとり子を世界に送られた。
それが、イエスと呼ばれる人間であると同時に神ご自身なるお方であった。
この方が人の罪を背負って十字架にて贖いの死を遂げられた。
それゆえ、罪を赦され、途絶えていた神ご自身との交流を人は回復できるのである。
つまり、神の目から見て人は、
ご自身の大切な独り子の命をささげるほどに尊いものとしての価値を置いておられる。
この聖書の教えを知って、どうして人を虫けらのように殺すことができようか、、、
PS.
昨日のドラマでは、秀次は切腹直前まで将棋をしていて、
恐怖のあまりその駒を散らかしてしまう。
司馬遼太郎の「豊臣家の人々」によれば、最後は碁を打っていたことになっている。
いつもは勝てない西堂という相手にこの期になって勝てたのが余程嬉しかったらしく
「今からワシは腹を切りにいくが、この盤面はくずすな。床の間へ、そっと運べ。
みなあとで石の具合をとくと見よ」と言ったという。
どちらが本当の話かは、無論知らない。
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