富士山が低いらしい
Jan
10
「来てみれば聞くより低し富士の山
釈迦も孔子もかくやあらん」
長州の急進的家老であった村田清風が17歳で初めて江戸へ立ったとき
その途中、駿河で富士を見た時の歌であるという。
当時、長州藩では藩財政の改革を推し進めた村田の革新党と
これを嫌う反動勢力の坪井九右衛門らに政治勢力は二分されていた。
高杉晋作によって後日、
その改革派らは「正義党」、保守系は「俗論党」と名付けられるようになるが、
彼らは米国の議会政治のように
両党が互いに抗争しながら藩政権を交代して牛耳るようになる。
幕末になると村田を祖とする改革派は
尊王攘夷を叫んで倒幕勢力の中核をにない、
坪井を祖とする保守派は佐幕派を結成して行く。
長州藩はすでに幕末以前から政治の流動性がこのようにして活況であり、
封建政治打破の起爆性を秘めていたと言っていい。
さて、その村田清風である。
大河ドラマに出てくるか定かではないが、
吉田松陰がその生涯の師と仰ぐ一人である。
司馬遼太郎はその歌を作った村田清風という人物を
「世に棲む日日」の中で次のように描写している。
「つくられた権威というものの化けの皮を剥ぐ洞察眼と、
腕力と捨て身の度胸のようなものがあり、
それが彼の終生の政治的骨格を貫いた。」
その「政治的骨格」というものが
吉田松陰に、高杉晋作に、そして長州全体に遺伝して行き
明治維新への動力となり得たと言っていいのではないか。
「つくられた権威」が当時の幕藩体制であるなら現在のそれは、
日本においては天皇制であろうし、
イスラム原理主義では預言者であり、
ローマカトリックでは教皇制度ということになろう。
無論、善悪のことではなく
創造主によらない
「つくられた」権威のことである。