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  • みこころを行いたまえ

みこころを行いたまえ

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みこころを行いたまえ







受難週の木曜日は、
ゲッセマネの園で主が苦悩の祈りをされた日である。

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それからイエスは少し進んで行って、ひれ伏して祈って言われた。
「我が父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。
しかし、私の願いようにではなく、あなたのみこころのようになさってください。」
(マタイ26章39節)


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神の御子であられるお方がここまで自らを低いところに置かれた。
天のみ座を離れ、地上に降ってから経験する最大の謙卑(けんぴ)の場面である。

「死ぬほどの悲しみ」は自らを支えきれず、
その上体を岩の上に投げ出した姿勢で平伏されたのだった。

主は一体何をそんなに苦悩されたのか?
父なる神から飲まざるを得ない「杯」とは何であろうか?

主は、飲まずに済むならそうさせて欲しいと
ー3度も父に祈られた。

〜それは十字架上での肉体の痛みや苦しみの事ではない。それ以上のものである。
〜またそれは十字架上での辱めや屈辱といった精神上の苦痛でもない。それ以上のものである。

これらの痛みはすでに覚悟の上であられた。
十字架に向かう歩みを30歳で始める際、明確にこれらを意識されていたのである。

この日に至って、初めて主に啓示された事柄があった。
それが意味する恐れ、痛み、耐えられない深い孤独を知って悶絶されたのである。

その新しく知った十字架の痛みとは、
父なる神との断絶…であった。

天地創造以前から永遠の昔から両者は一つであり、全き愛と信頼で結びついておられたのに、
分かたれなくてはならない時間が来るのを知った。

主が罪そのものとなられ、
父なる神から容赦のない断罪と刑罰とを受けねばならない!

その暗黒の度合いを人の言葉で表現することは不可能である。
人間には到底体験できない深い苦悩である。

イエスのレベルで父なる神との永遠かつ全き交友を人は経験できない。
十字架上のイエスのように父なる神から見捨てられ、断絶されたものはいない。

……そこまでですか、父よ。
もし、回避できるものならそれだけは……

激しい動悸は主の皮下組織の毛細血管を破り
血が汗となって流れるほどの苦悩であった。


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私たちはどこまで主に従っているか?
自分が想定している範疇の中なら従いやすい。

しかし真のテストは
私たちの想定を超えたところにある。

ここまで従って来た。
これ以上のものが要求されるだなんて「聞いてないよ!」と言いやすいものだ。

「わたしの願うようにではなく
あなたのみこころのようになさって下さい」

主とともにそう告白出来るかどうか。
そこに従順のテストがある。

主が地上で学ばれた一つだけの学科がある。
それが「従順」という学科であった。

神ご自身の主は全知全能であられ、
あらゆる知恵に満ちておられたが、従順だけは体得せねばならなかったと聖書は教える。


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「キリストは御子であられるのに、
お受けになった多くの苦しみによって従順を学び」
(ヘブル5章8節)



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主は私たち信者の模範でもあられる。
信仰の創始者であり、完成者であると聖書は告げる。

主が従順をこの日に学ばれたように、
私たちの生涯で従順を学ばねばならない時がやって来る。

わたしの願いを差し出し、放棄し、
みこころを行ってくださいと、献身する時がやって来る。

神は成功者になれと期待していないし、命じてもいない。
それは世の中の価値観である。

神が信者に求めておられることは常に変わらない。
いつの時代もこの一事である。

従順であれ、というこの一事である。


#聖書メッセージ

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