錦の隣には孫太郎と言うリゾート村があり、よくピクニックに出かけました
日本で40年間以上宣教師として尊い御用をされたドロシー・ラバツウ先生の回想録です。
私が聖書学院を卒業したのが23歳の時。
卒業と同時に遣わされた最初の任命地が三重県大台町にある錦キリスト教会でした。
そこで一人で伝道されていらっしゃっるのが教団最高齢の73歳になっていらっしゃったドロシー先生でした。
教団最若輩だった私はそこで7年間働きましたので、ドロシー先生が80歳になるまで共に生活し伝道したことになります。
本の題名は「人生は80歳から始まる」。
確かに年齢を感じさせないバイタリティー溢れる体力と気力とに満ちておられた先生でした。
私との共同牧会伝道期間は助走期間に過ぎず、その後から先生の本格的な宣教師人生が始まったのですね。
今回初めてこの回想録を手にすることが出来て、ドロシー先生という稀有な宣教師を生み出したその背景を垣間見ることが出来たのは実に祝福となりました。
まるで宝物を探し当てたように興奮しながら原書のページをめくっています。
皆様にもその全てでは無いですが、ハイライトと思えるところを紹介します。
その第31回目は、降水量日本一と言われている尾鷲に近いだけに、川からの洪水と言う危険と隣り合わせであったこと。
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三重県錦は台風銀座
台風ーそれは想定することのできない生き物のようなものです。
衛星写真は真ん中に黒い穴のある、嵐の渦となっている雲の写真は提供してはくれます。
その穴は台風の目であり、そこには完璧な静けさがあります。しかしその台風の通過地点にあっては、どんなひどい災害が起こるかは誰も予測し得る事は出来ません。
高い巨木でさえなぎ倒すことがあります。ある大木は会堂の屋根に倒れ、そのまま会堂前の道を塞いだことや、他のときには会堂のタワーを直撃したこともありました。他のときには、主のいないままの空の犬小屋が吹き飛ばされて、教会の庭まで運ばれて来たこともあります。
それが日中にやって来た時なら、ただできる事と言えば、空中を飛ばされている多くの物体を見ながら安全を祈るほかないし、夜にやってくるときには、停電の中キャンドルを灯して自らを静め、コーヒーでもすすりながら風のうなり声やそこいら中の衝撃音を聞くことしか出来ないのです。
地元の消防団の方々は重大な責任感を持ちながら、昼でも夜でも嵐の間は、実によく働いてくださいます。しかしながら私たちはその消防団が本来の火災の時よりも洪水なったときの方がより偉大な活躍を私たちにしてくださったことを認めないわけにはいきません。
教会堂の前を通る路地の向こうは川となっていて、大雨の嵐の日に、ついに氾濫して路地に水が溢れて床上浸水直前となった時がありました。
会堂にあるオルガンや図書等全てをベンチの上に載せた後、私たちはいつでも裏山の崖を這いずり登って逃げる準備をしなくてはならなくなりました。時に深夜でしたが、消防団の方々がやって来られて小学校の体育館が緊急避難場所になっていること、避難の手伝いが必要なときにはいつでも連絡するようにとも知らせに来てくれました。
重大な事はコネクション
ある夜、私の部屋の窓から見える大きな倉庫が炎に包まれているのに気が付きました。
消防団の方々は忙しく立ち回っているのですが、炎の勢いは一向に収まりません。
消防士の抱えているホースからは、水が出て来ないのも見て取れます。それはただホースが消火栓に繋がれていなかったのが原因でした。彼らの働きは台風の時の方がずっと優れています。なぜなら火事よりも台風の件数の方がずっと多いからです。それにしても、コネクションが最も大切な事柄であるのには間違いありません。
錦町の消防団
それは日曜日の事でした。
山形からの友人が訪ねて来てくださっていた時のことです。
そして私はいつも訪問してくださる方にお手伝いを依頼しています。
その日も朝早くから激しく雨が降り続いていて、シーツがそのまま空から垂れ下がっているかのように雨で外が一面白く見えました。
隣からは若い青年が裸足のまま教会まで歩いてやって来ていました。
それで四名となりましたので、いつもの日曜礼拝を始めたのです。
激しい雨のためどこにも出かけることができず、ランチを終えてから私たちは日曜学校の教材作りに励むことにしました。その間、絶えず私たちは教会堂の前を流れている川に警戒の目を向けていたのです。
やがて数名の消防団の方々の突然の訪問に、私たちは驚かされました。
「皆さんは今すぐここから脱出しなくてはなりません。川の水は既に縁まで上がって来ています。裏山へ逃げること以外に避難する道はありません」と言われました。
私どもは急いで本棚の半分下にある本を空にしたり、オルガンをテーブルの上に載せたり、貴重品を床から高いところに乗せた後、主がこの教会堂を守ってくださるようにと祈りました。
裏手の山を両手を使いながらよじ登って行かなくてはならないですから、身軽でなくてはなりません。聖書と現金を持ち、そしてレインコートだけをかぶっての避難開始です。
川の水はすでに土手を乗り越え始めています。それで私たちがまさに避難を始めたとき、目の前で奇跡のようなことが起こりました。川の水位が少しずつ下がり始めていったのでした。
さらには、こんなエクサイトメントな出来事もありました。
その日は夏季子どもキャンプの初日のことでした。
お母様方たちが子供さん達とその荷物を教会に送り届けていた頃には、雨はもう既に降り出していました。午前中のプログラムは聖書の話、ゲーム、そして工作等でして、順調に進んで行きました。ランチとその片付けがちょうど終わった頃の事でした。
消防団の方々がお見えになられて、そこから脱出せねばならない、と言われるのです。教会前の川を見ると、すでに川岸から水が溢れて、大きな湖を作っていました。
消防団の方々は見えなくなっている川岸にロープで非常線を張り、目印としました。
彼らが小さな子供さんを抱えて、また大きな子供さんたちはお互いに手をつなぎ、先生や大人スタッフたちともとも手をつないだまま、私たちは小学校近くまで歩いて退避したのです。
そこには消防車や救急車、トラックや非常用の車両が用意されていて、私たちは分散して町役場まで送られることとなりました。そして多くのスピーカーから町内放送がなされて、すべての子供たちは無事に町役場に退避している、とアナウンスされたのです。
やがてお母様方がやってこられて、大きな毛布に包まれながらも濡れてびしょびしょになっている子供たちをそれぞれ引き取って行かれました。私たち教師やスタッフメンバーは何度もお詫びを繰り返したのでしたが、その横で子供さん達はとっても楽しんでいる様子。
彼らにとって消防自動車や救急車に乗るのは初めてのことだったのです。
紀伊長島から来られた子供さん達は、引き続き私たちとともに留まりました。その頃は紀伊長島道路の土砂崩れのため、緊急車両以外は通行止めとなっていたからです。
ようやく全ての子供さん達が親に引き取られ帰って行った後、私たちもそれぞれ自宅に帰りました。その夜、私は寝付くことができませんでした。
子供たちの完成していないままの工作品が、テーブルの上にそのまま乗せられているし、彼らの荷物は教会堂のあちこちに散らかったままです。私はすすり泣きながらつぶやいていました。
「主よ、どうしてですか」
次の朝早く、電話が鳴りました。
「私たち、もう一度キャンプ出来ますか?」
「もちろんですとも!」
私は叫ぶように答えたのでした。
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