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「聖書が教える信仰について」

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「聖書が教える信仰について」






ホサナキリスト教会・日曜礼拝のメッセージアウトラインです。



















「聖書が教える信仰について」










創世記 15章1~6節










"これらの出来事の後、主のことばが幻のうちにアブラムに臨んだ。「アブラムよ、恐れるな。わたしはあなたの盾である。あなたへの報いは非常に大きい。」

アブラムは言った。「神、主よ、あなたは私に何を下さるのですか。私は子がないままで死のうとしています。私の家の相続人は、ダマスコのエリエゼルなのでしょうか。」

さらに、アブラムは言った。「ご覧ください。あなたが子孫を私に下さらなかったので、私の家のしもべが私の跡取りになるでしょう。」

すると見よ、主のことばが彼に臨んだ。「その者があなたの跡を継いではならない。ただ、あなた自身から生まれ出てくる者が、あなたの跡を継がなければならない。」

そして主は、彼を外に連れ出して言われた。「さあ、天を見上げなさい。星を数えられるなら数えなさい。」さらに言われた。「あなたの子孫は、このようになる。」

アブラムは主を信じた。それで、それが彼の義と認められた。"










信じるとはどういう事か






自己努力による信仰の振起
  自分を説得しながら、対象(他者でも自己でも)を信じようと努める姿勢

  「我が子に限って」、試合前に自分を信じるとか。




暖かい体験を通じて説得でなくても喚起される心情
  幼児が無条件に母の胸に抱かれる光景







(2) Abrahamにとっての信仰







創世記12章から:「ウルからあなたを連れ出した主」(7)に対する信仰と従順は見事
 ~神の約束の言葉も、Abrahamには虚しく聞こえた(2-3)




創世記15章に至って: 満点の星々を見せられ、神の温かい御心に触れることができた      新しい意味での信仰を抱く (3) 誤解を生じやすい教え






(3) 神があなたに到来される時







①自己説得の信仰においては、平安も確信も与えられないのが私たち

15章以降においてもアブラハムはしばしばそのような現実の中をさまよう

16章で、ハガルを迎えて息子イシュマエルを得る

さらに17:17。




②私たちのところに訪れては懇ろに語り、温かく包む

18章で神とその使命ら3人の訪問を受けている







(結論)







"ヤコブの家よ、わたしに聞け。イスラエルの家のすべての残りの者よ。胎内にいたときから担がれ、生まれる前から運ばれた者よ。

あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたが白髪になっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。わたしは運ぶ。背負って救い出す。"

イザヤ書 46章3~4節




私が気づく前から目を留め運んでこられた方がいた(私の誕生以前から)
 

「信じる」とは、この方の暖か眼差しを発見すること(人生の時点)



弱さと限界を迎えても神は背負い、運び、救い出す方(今後も)
#メッセージ

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「二通りの生き方」

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「二通りの生き方」
ホサナキリスト教会・日曜礼拝のメッセージアウトラインです。


「二通りの生き方」










マルコの福音書 8章31~38節










"それからイエスは、人の子は多くの苦しみを受け、長老たち、祭司長たち、律法学者たちに捨てられ、殺され、三日後によみがえらなければならないと、弟子たちに教え始められた。

イエスはこのことをはっきりと話された。するとペテロは、イエスをわきにお連れして、いさめ始めた。

しかし、イエスは振り向いて弟子たちを見ながら、ペテロを叱って言われた。「下がれ、サタン。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」

それから、群衆を弟子たちと一緒に呼び寄せて、彼らに言われた。「だれでもわたしに従って来たければ、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。

自分のいのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしと福音のためにいのちを失う者は、それを救うのです。

人は、たとえ全世界を手に入れても、自分のいのちを失ったら、何の益があるでしょうか。

自分のいのちを買い戻すのに、人はいったい何を差し出せばよいのでしょうか。

だれでも、このような姦淫と罪の時代にあって、わたしとわたしのことばを恥じるなら、人の子も、父の栄光を帯びて聖なる御使いたちとともに来るとき、その人を恥じます。」"







(1)  ペテロ流生き方









①  イエスを「諌めた」(32)
  苦しみ、捨てられること、殺されるのは、人が最も避けたい事柄

  人は苦難を避けて自らを楽しませ喜ばせることに注意を向けたいもの




② その理由
  イエスへの同情心~人間中心主義・ヒューマニズム

  その奥底には、自らの野心を満たしたいとの欲望~メシア王国での地位










(2) イエス流生き方










① ペテロを「叱って」(33)~原語では「諌めた」(32)と同語
 「サタンよ、しりぞけ」~ペテロのヒューマニズム的観点には悪魔の考えが潜む: 荒野での誘惑




② その理由 「神のことを思わないで、人のことを思っている」~ 個人の享楽的な生き方を否定して、神の国の前進とその強化のためには自己犠牲すべき時がある。






(3) 誤解を生じやすい教え










①イエスの弟子となる道は、自発性・自主性が土台

 「誰でも私についてきたいと思うなら」(34)~そこには他者の模倣や強制・期待は関与せず




②さらに、あなたへの個人的な使命に関わることである

 「自分の十字架を負って」イエスにとっては文字通りの十字架であり、ペトロにとって逆さ十字架であり、Abrahamにとって我が子の全身供養であった。










結論 ~ 近視と遠視










① ペテロ流行き方とは、近視眼的
 自分のこと、たった今の享楽だけを考えたら、割に合わない。

 死や十字架のどこに意味があるのか?




 

② イエス流生き方とは、遠視眼的
 現世の霊的生活において、安全と豊かさが約束されている。

 やがてイエスの再臨のときには大きな報酬(千年王国での地位)が約束されている。
#メッセージ

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