《時節・_・襍囈⇔子どもの日 泉の森2023/5/5》
端午の節供・・「柱のきずは一昨年の五月五日の背くらべ」
子供の頃に聞いた童謡?? 今でも子供達は、聞くのだろうか?
旧暦(陰暦・・)五月五日は端午の節供。
三月三日の桃の節供が女の子の節供、対して男の子の節供を言う。
端午は「月の初めの五日」と言うこと(更に古くは月初めの「午」の日)。
日本における端午の節供の記録は、日本書紀にまで遡る。
推古十九年(611年)五月五日に「薬猟りす」と言う記述が有る。
ここでいう「薬」とは鹿の若角の事。鹿の若角を採るのは、男性の仕事。
一方の女性は、野原で薬草を摘むのが常であった由。
この行事の合間に「あかねさす紫野行き標野行き・・・」
等という有名な相聞歌のやりとりも行われていた。
ここで摘まれる薬草の中には、菖蒲や蓬も入っていたと思われる。
宮中行事として行われた端午の節供の薬猟りであった。
それが時代が下るに従って、貴族社会の行事が、武家や庶民まで広がった。
日本には古くから五月を「悪月」などと呼び、物忌みする事も有った。
これを「さつき忌み」と言う。
菖蒲と蓬で屋根を葺いた「女の家」と呼ぶ小屋を造り女性達が忌みごもりした。
これは、田植えが始まる前に身を清め豊作を祈った儀式であったか??
田植えの主役は女性で「実りを生み出す」。
田植え作業を「子を産む」性である女性でなければならないと言う発想もあった由。
元々は端午の節供も女性のための節供だったようだ。
その名残か、五月五日の「こどもの日」の趣旨に見える。
「こどもの人格を重んじ、こどもの幸福をはかるとともに、母に感謝する」。
元々、女性のための節供だった端午の節供が「男の子の節供」に変化したのは??
武家社会の発達のためだったようだ。
端午の節供の植物、「菖蒲(しょうぶ)」が「尚武(しょうぶ)」に通じる。
端午の節供を想うと公家の儀式が、武家に広まり一般化した。
* * * * *
今年は、わたくし事で、自宅等でPCとにらめっこの日々。
ちょっと息抜きに近間の泉の森へ。移築された古民家には、五月人形が。
甲冑飾り(鎧飾り・兜飾り)や武者人形(子供大将人形・童子人形)が飾られていた。
外には、鯉のぼりが・・・最近屋外(自宅庭)に鯉のぼりを観なくなった。
都市部の一軒家では、広さの問題もあって見かけなくなった。
鯉のぼりを飾るポールの高部先端には、避雷針をつけたものだ。
泉の森民家園の鯉のぼりは、古いもので色あせていたが素朴であった。
コロナ禍もおさまり、森の中は子供たちの歓声にあふれていた。
「令和伍年(皇紀2683年)5月5日、記」
端午の節供・・「柱のきずは一昨年の五月五日の背くらべ」
子供の頃に聞いた童謡?? 今でも子供達は、聞くのだろうか?
旧暦(陰暦・・)五月五日は端午の節供。
三月三日の桃の節供が女の子の節供、対して男の子の節供を言う。
端午は「月の初めの五日」と言うこと(更に古くは月初めの「午」の日)。
日本における端午の節供の記録は、日本書紀にまで遡る。
推古十九年(611年)五月五日に「薬猟りす」と言う記述が有る。
ここでいう「薬」とは鹿の若角の事。鹿の若角を採るのは、男性の仕事。
一方の女性は、野原で薬草を摘むのが常であった由。
この行事の合間に「あかねさす紫野行き標野行き・・・」
等という有名な相聞歌のやりとりも行われていた。
ここで摘まれる薬草の中には、菖蒲や蓬も入っていたと思われる。
宮中行事として行われた端午の節供の薬猟りであった。
それが時代が下るに従って、貴族社会の行事が、武家や庶民まで広がった。
日本には古くから五月を「悪月」などと呼び、物忌みする事も有った。
これを「さつき忌み」と言う。
菖蒲と蓬で屋根を葺いた「女の家」と呼ぶ小屋を造り女性達が忌みごもりした。
これは、田植えが始まる前に身を清め豊作を祈った儀式であったか??
田植えの主役は女性で「実りを生み出す」。
田植え作業を「子を産む」性である女性でなければならないと言う発想もあった由。
元々は端午の節供も女性のための節供だったようだ。
その名残か、五月五日の「こどもの日」の趣旨に見える。
「こどもの人格を重んじ、こどもの幸福をはかるとともに、母に感謝する」。
元々、女性のための節供だった端午の節供が「男の子の節供」に変化したのは??
武家社会の発達のためだったようだ。
端午の節供の植物、「菖蒲(しょうぶ)」が「尚武(しょうぶ)」に通じる。
端午の節供を想うと公家の儀式が、武家に広まり一般化した。
* * * * *
今年は、わたくし事で、自宅等でPCとにらめっこの日々。
ちょっと息抜きに近間の泉の森へ。移築された古民家には、五月人形が。
甲冑飾り(鎧飾り・兜飾り)や武者人形(子供大将人形・童子人形)が飾られていた。
外には、鯉のぼりが・・・最近屋外(自宅庭)に鯉のぼりを観なくなった。
都市部の一軒家では、広さの問題もあって見かけなくなった。
鯉のぼりを飾るポールの高部先端には、避雷針をつけたものだ。
泉の森民家園の鯉のぼりは、古いもので色あせていたが素朴であった。
コロナ禍もおさまり、森の中は子供たちの歓声にあふれていた。
「令和伍年(皇紀2683年)5月5日、記」