野・里山を散策していると、 自然界の動植物は、粛々と営みを繰り広げている。 人間界を見ると、無用な殺戮を繰り広げている。 思慮を・・・人間性とは何か?? 単に落胆していられない。 良心・善なる心を持ちたいものだ。
週末の昼下がり、ふと大空をみあげると二羽の「とんび」が・・ 鋭い視線を見せていた。 目線の先を追ってみると、公園で母子が・・・!! ハンバーガーを食べている。 そのハンバーガーを狙っているのだ、鳥達は!! 母子の脇に、まだ袋に入ったハンバーガーあった。 急ぎ母子のそばに行き、注意を促した。 昨年末に引っ越してこられた由。 大そう驚かれていた!! 鳥達が、人間の食物を急襲するようになったのは、 人々がそう仕向けたのである。 数十年前にこうした場所で食物を投げ与えていたことがあった。 当時、それを注意して顰蹙をかったことがあった。 こうした事を反省せず、 善意!?!の餌与えをした人々が、鳥たちを批難している。 安易な行動で、自然界の掟を崩している。 自然を破壊して動植物が住みにくい環境を人間が作っている。 動物に非はない。 この鳥たちを眺めていて、「共生」を考えさせられた。 2005-05-22にもこのブログルで同じような記事を記したが、 改めて思う。。。
無意識に、ぼ〜〜っと海面を見ていると、一瞬、不可思議な模様とであった。偶然の産物だが、なんとも面白い。単に、画像を見ているだけではどんな場面か分からないかもしれない。説明あっての理解。日々の生活の中でも気にとめないと社会の様々な出来事が通り過ぎていってしまう。事象は時間と共に忘れ去られていく。 この所、裁判で、解せない判決が相次いでいる。先日、又も考えさせられる民事法上の決定があった。 自分にとって関係ないこと、社会での既存・一般的倫理の中で、一個人の考えであっても思考してみたい。 そんな自己主張が容易に出来るのがブログであろう。法の判断は、専門家だけが出来るのでもない。 社会的コンセンサスも重要な判断要素、である。 法的判断は、狭義の法・条文解釈だけでではない。 社会通念として、要件妥当とする内容であれば、 法・条文解釈を拡大できるとする判例が出始めた。 現行法をも活用・・・できる事である。 現行法における限界、とする判断が相次いだが、 今度は、「法の前に人間」それを問うているやであった。 「生きた法律」!!硬直した判断が、司法では、よくみられるが・・・。 先日、画期的な判例が出た。 「代理出産」 を容認する・・判断基準を定義するべくな判決。世に不妊で悩む夫婦は、多いであろう。 欧米で言われる「生殖補助医療技術」を一個の人間として真摯に考えて見ることも大切である、と海面の模様を見ながら思った。日本の医学会は、容認していないかもしれない!?! 更には、養子ではなく実子として出生届を出したいのは当事者・子供が欲しい親の身勝手なことか?? 而して、「出産した女性だけを母とする」法解釈ははたして??現代社会において正論か?? 生殖補助医療技術の確立・法制化が検討されている時期だが、生命倫理に基づいた真摯な分析・検討、既成概念に捕われず、東京高裁の判断・決定が示すように、真摯・慎重にではあるが、国民、一人一人が、思考すべき時が、今、と感じる。 高裁の決定書にある「わが国の民法は、生殖補助医療技術が存在しなかった時代に制定されたが、現在はこうした技術で人為的な操作による妊娠や出産が可能になっている」「法制定時に想定されていなかったからといって、人為的な操作による出生が、わが国の法秩序の中に受け入れられない理由とはならない」 但し、ケースバイケースであることは確かで、慎重な判断、医療実施に際しての基準・規定を早急に国として策定して欲しい。 現実問題として、向井さんの場合のように既存の問題を、国の審議会の答申で「代理出産禁止」と言う法律が出来ようとした前に、東京高裁という場で出た決定は、物議をかもすことは確かだが、 『誰のための法か!?!』と言う点で、まさに当事者の立場にたった、慎重に審議された真摯な決定、人道的な決定と、賛意を表したい。
何所でも見られる天空・・・陽の明かり。 画像の光景を見ていて、先日あった裁判の結末を思っていた。 オーム真理教麻原彰晃の裁判の事を。 『テクノロジーの狂気』そして宗教。 『』の言葉は、 西暦1900年生まれで2002年3月13日に永眠された、 哲学者ハンス・ゲオルグ・ガダマー、享年102歳・・ が最後に世人に語った言葉である。あの9・11事件直後に語った老哲学者の困惑、 『暴力にまでなった「宗教」・・・と。 師は、「如何にすれば理性的未来を構築できる」と、苦悩を見せていた。。。 その上で、「死」が何を意味するのか、、、 「暴力」がウィーンの城門の前に立ちはだかった (オスマン・トルコ帝国による1529年、1568年の第一次、第二次ウィーン包囲、 また1683年のトルコ軍によるウィーン包囲等を指す)などの歴史上の事実・・に重複させ、 「恐ろしく長い間絶えて無かったことを思うと本当に不気味に感じられてきます。」 「共通感覚」「他者の思考」「他者の理解」』等を語っておられた。。20世紀を代表する一人の哲学者の言を思いながら、 9・11事件以前に日本に存在した事件「オーム事件」も忘れてはなるまい。 宗教の存在が、我々の生活に如何なる力を呼び起こしているのだろう??か。 宗教は「何をなしうるか」、凡人の己には分からない。 「テクノロジーの狂気」、宗教の恐ろしさを「オーム真理教」等の新興宗教に見る。 科学技術を用い、「詭弁」「妄想」、言葉巧みに言いたい放題。 「オウム事件」を空洞化させてはいけない。 その他の怪しげな宗教団体も含めて、 罪と罰、倫理と行為規範を裁判の中で深く審理して欲しかった。 オーム事件の首謀者に断罪がくだったが、中味の全くない事実に対する結論が出ただけだ。 人が人を裁く、そこには「審理」と言う客観的整合性がなくてはいけない。 「裁判・訴訟制度」の根幹をなす、 「検証」が疎かにされ、法廷技術(訴訟技術) つまりは、形だけの訴訟が先行して、裁かれる加害者、 そして救済されるべき被害者の存在を充分に検証していない、 蔑ろにしている。 同時に、言論・行政・政治、それを動かし携わっている人々にも危惧感を持つ。 真摯に分析、対策を講ずるべき、と・・・ 新たに日本を動かす首相が決まる時、 英知を結集して、 平和な日本を築いて欲しく希して止まない。
美しい風景に出会った。 この夕日の遠い向こうでは朝日を拝する人々がいる。 わが大地は、大きく・・・丸い。 9月11日に思い・希するは、 地球全体の人々の友好。 人は、何故にいがみ合うのか?? 多くの欲を捨て、、、。我必非聖 彼必非偶 共是凡夫耳日本の聖人の言葉を思う。権力者の犠牲になった 総ての地球上の人民のご冥福を祈る。
終戦記念日って何!?! 記念日ではない、戦争を考える、国々の戦いを戒める、 戦争体験者の立場で反省・戒める・・・つまりは悲惨な出来事を思い起こし、 世界平和を訴える日であると思う。 自主・独立、世界唯一の原爆被災国として不戦国でありたい。 米国の庇護を廃して、無防備国家・日本になれたら、 と夢想した一日であった。 そんなことを思っていた時、知人を案内して江ノ島を訪れた。 普段、気にも止めない風景に、思ったことがある。 画像の景観、江ノ島から見た七里ガ浜方面である。 手前の海岸道路に面しているのが七里ガ浜高校の校舎、 後ろに位置する建物は、高名なPホテル。その右下もPホテルの一部である。 この建物の所には、かつて海水プールがあった。 目前の海、数百メートル沖合いから海水を引き込み安全な海水浴??ができた。 珍しいこともあって最初は結構、賑わっていたが、 当時、この海岸線の道路は、有料であったことが原因か? いつしか閉鎖してしまった。 七里が浜の右手は、 「新田勢」の鎌倉攻めで有名な稲村ガ崎。 この合戦で「鎌倉時代」は、終焉した。 800年後の鎌倉攻めは、環境破壊であった。 鎌倉時代以後、 仏法の聖地、特に臨済宗の建長寺・円覚寺を中心に仏門の修行地として、 また、古都としての観光地として静かな佇まいであった。 昭和の時代、とりわけ第二次大戦後は、 首都圏の通勤エリアとして生活地として開発が盛んになる。 それが、緑豊かな鎌倉の環境破壊の始まりだった。 画像の左奥は、「七里ヶ浜団地」?? と我々は呼び蔑まして、開発に猛反対をしていたが、 前述のプールと共に一大高級分譲地になった。 今でこそ落ち着いた生活地になったが、 それでも後ろの鎌倉山から見る七里ガ浜分譲地は、 マッチ箱のようで、しっくりしない。航空写真を見ると緑豊かな周りの中に砂漠があるように見える。 人間の目線でものを見てはいけない。 自然環境と共存・共栄、つまりは動植物をも含めての環境開発であって欲しいものだ。 江ノ島から眺めていると、 40年経てば少しはよくなってくるものだ、 と感慨あって眺めていた。 だが、稲村ガ崎から七里ガ浜・腰越に至る海岸道路後ろの緑地は、 ことごとく宅地化された。 止む終えないことだろうが、景観の視点に立つと、 場所によっては、個々の建物外壁であっても 「色」を検討すべき時、などと思ってみた。
今年も各地で成人式が行われ、色々な場面が報道された。 若者の無軌道な姿が画面に映るたびに思うのは、 社会背景。 現代社会(それぞれの時々も亦、同じ様に見える)、 大人社会の出来事が、社会の事象が、、重なって見えてくる。 我ガ身を振り返ると、 事象は時間と共に整理され、感情は薄れ消えていく。 反面、過去の教訓を生かせず、新たな事象になる。繰り返しの人生か?身近なところで、海での「成人を祝う会」が一月十五日に片瀬東浜で行われた。
昨年の日本海に面した地方での災害が、完全には復旧できていないだろう。今またしても豪雨の報がある。snailwakerさんの所は、大丈夫だろうか、心配。その一方では、日照りで苦しんでおられる地方も深刻と聞き及ぶ。個人的には何も出来ない自分が、もどかしい。 天災は、いかんともしがたい。良策を早く講ずることを国、行政に切望したい。 災害被災地の皆さん、お見舞いもうしあげます。 せめてブログルの仲間には何がしかの協力を。 情報交換を、掲示板に書き込んでみたらいかがなものだろうか。
今般のJR事故でお亡くなりになられた方々には、言葉を失います。わが身を思い起こせば、自ずからが挑んで遭難、天界に散った多くの仲間を思うと、ご遺族の思いは言語に絶するものと拝察いたします。どうか、残されたご遺族が、強く生き、進んで頂きたく思います。この様な時に、不謹慎かも知れませんが、現代社会の裏腹を思うて止みません。 事故が人的な原因と報道されていますが、要因の一端は、社会的要求が引き金ではないだろうか。「より速く、安全に」と言う相反した事が根底にありましょう。過密ダイヤとは申せ、普段、乗客は利便性に対して危惧・疑問を言わない。特にマスコミ関係者が危険を、危惧を、世に問うていたであろうか? こぞって、結果的事故現場等を報道しているだけではないか。更には、同情的に、悲しみを助長させているだけのように見える。JRと言う企業内部での現場・最前線にいる担当者(今回は、運転手)の非を言っている。然し、危険・暴挙に走らざるを得なかったかもしれない運転者の心理状態をも想像するのである。営利・利便性、事故が起こったとき、しばらく間は、自重するだろう。あらゆる観点において、過密ダイヤを軽減する、例えば、10分間隔を15分間隔にする、となったら、利用者側は、何と言うのだろうか。 事故が起こるたびに思う事である。社会全体が、其々少しの我慢をもつ、余裕を持って対処すべきであろう。世の中全体が、走りすぎている。 自然界の摂理を、思うのだ。