<グーグルロゴ>(107)「モリエールを称えて」
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女優である<マドレーヌ・ベジャール>(1618年1月8日 -~1672年2月17日)さんと出会い、2人は恋人となり、この出会いがきっかけで、演劇の道に進むことを決意します。
1943年6月、彼女と共に、パリで、劇団「盛名座」を立ち上げました。1644年に古い球技場を借りることで、なんとか公演活動を開始しますが、すぐに資金難に陥り2年ほどで解散。彼自身も多額の借金を背負うこととなり、パリにもいられなくなり、残った劇団員数名と逃げるようにフランス南西部のボルドーへと移動しました。そこで貴族の庇護を受けた劇団(デュフレーヌ劇団)に参加することができ、そこを拠点に演劇活動を開始、1655年には最初の喜劇作品である「粗忽者」を上演。
ボルドーを拠点とした演劇活動は上手くいっていましたが、1650年代後半になると、援助を受けていた貴族が亡くなるなどし、財政的に苦しくなってきます。そこで、彼はパリへと戻り、演劇活動を行うことにしました。
その頃、フランス王は「太陽王」とも呼ばれた<ルイ14世>の治世となっており、文化振興も盛んに行われ、運良く、彼は<ルイ14世>の弟である<フィリップ1世>の庇護を受けることができ、<ルイ14世>の御前で演劇を行う機会を得ました。その御前公演は好評で、国王や貴族達に気に入られ、パリでの活動の後ろ盾を得ることができ、1958年頃からパリを拠点に活動を始め、大成功を収めます。
この頃、彼が劇団の団長となり「モリエール劇団」が誕生しました。そして、彼の劇団はパリを代表する劇団へと成長していきます。1665年には、ついに国王<ルイ14世>の庇護を受けた劇団となりました。
彼の最後の作品となったのが、1673年の「病は気から」です。彼は、この舞台に病を押して出演し、「1673年2月17日」の公演の後に亡くなりました。彼の死後、「モリエール劇団」は国王の庇護を失い、他の劇団との合併を余儀なくされます。その後、合併された劇団が、現在の王立劇団「コメディ・フランセーズ」の元になります。
世俗的な描写と風刺を効かせた喜劇を多く生み出し、現在の演劇でも見受けられる喜劇における「典型的な人物像」を創造し、フランス古典喜劇の確立者であり、「ル・シッド」で知られる<ピエール・コルネイユ>さん、そして、「フェードル」で知られる<ジャン・ラシーヌ>さんと共に、フランス古典の3大作家の1人に数えられています。
彼の最後の作品「病は気から」の舞台初日が1673年の「2月10日」であり、この日を記念してロゴが変更となっています。