<グーグルロゴ>(151)「シルヴィア・プラス生誕87周年」
Oct
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父親は大学の生物学の教授でしたが、彼女が8歳の時に死亡します。この父親の死は、幼い彼女には、家族を見捨てる自殺的な行為と感じました。自身も父親に見捨てられたと感じ、後の彼女の作品に影響していくことになります。
その後、母親が教師として働きながら、なんとか家計を支え、彼女は中学、高校と進学します。
父親の死の前後から詩作を始めており、その詩は、「ボストン・ヘラルド」などにも取り上げられました。
学校の成績は優秀であり、奨学金を受け、1950年に、スミス大学へと進学。大学での成績も優秀で、校内新聞の「スミス・レヴュー」編集員としても活躍。
1952年、「マドモアゼル」誌の懸賞小説に応募、「ミントン家での日曜日」が評価され、翌年には「マドモアゼル」誌の客員編集員の一人に選ばれました。
学生として、また、作家として順風満帆でしたが、この年、ハーバード大学の短編小説の夏期講習に申し込みを行なったところ、受講を拒否されてしまいます。このことがきっかけなのか、彼女は自信を喪失してしまいます。精神的に不安定となり、睡眠薬を大量に飲んで自殺を図ります。幸い死には至らず、1954年に大学へ復学。
1955年にスミス大学を卒業し、奨学金を得てイギリスへと留学。ケンブリッジ大学ニューナム校で学ぶこととなります。そこで、イギリス人で、彼女と同じく詩作をしていた<テッド・ヒューズ>さんと出会います。2人は意気投合し、4ヶ月後に結婚。
2年間のイギリス留学を終えると、夫と共にアメリカのマサチューセッツ州西部へと移住。彼女は母校の「スミス大学」、夫は「アマースト大学」で教師として働き始めます。ところが、大学教師と自分の詩作活動の両立は時間的に厳しく、すぐに退職。
病院の事務員として働きながら詩作を続けることにしました。1959年末にイギリスへと移住。そこで、子供も生まれます。この頃から夫の<テッド・ヒューズ>さんは、詩人の<アーシャ・ウィーヴィル>さんと浮気をするようになります。
元々、精神的に不安定なところのあった彼女ですが、この頃から更に酷くなり、何度も自殺を試むようになります。そして、ついに「1963年2月11日」、ガスオーブンを用いた一酸化炭素中毒にて死亡しているのが確認されました。彼女が自殺した時、<アーシャ・ウィーヴィル>さんは妊娠をしていたそうです。(彼女も、後に自殺をします。)
彼女の詩作の多くが、「生への幻滅、絶望などを綴った暗い作品」です。詩のスタイルは、「私」を主体とした、個人的な経験、精神状況、トラウマのに焦点を当てています。これは、幼少の頃の父の死から続く、彼女の精神的な不安定が一因だとされています。
現在では、1950~1960年代の「告白主義」を代表する詩人の一人とされています。特に、何度も自殺を試みた晩年に多くの作品を残しています。
生前、多くの詩作を残しましたが、その作品が大きく評価されるのは、死後のことです。1981年に出版された詩集「Collected Poems」で、1982年にピューリッツァー賞を死後受賞しました。
2003年には、イギリスで、夫であった詩人<テッド・ヒューズ>との関係を軸に彼女の半生を描いた映画『シルヴィア:Sylvia』(監督クリスティン・ジェフズ :日本2004年12月25日公開)が制作されています。