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ぼくしのめがね

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ホセア五章

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シアトルの秋のそらです。とても... シアトルの秋のそらです。とても、さわやか。朝晩は、寒いですが、その冷たい空気もさわやかで、大好きです。紅葉で山もきれいです。日本の紅葉には勝てませんけどねー。こちらは、常緑樹が多いので。。。
2017年10月8日日曜日礼拝メッセージ音声は、


ホセア5:1-15

祭司たちよ。これを聞け。イスラエルの家よ。心せよ。王の家よ。耳を傾けよ。あなたがたにさばきが下る。あなたがたはミツパでわなとなり、タボルの上に張られた網となったからだ。2 まがった者たちは落とし穴を深くした。わたしは彼らをことごとく懲らしめる。3 わたしはエフライムを知っていた。イスラエルはわたしに隠されていなかった。しかし、エフライムよ、今、あなたは姦淫をし、イスラエルは身を汚してしまった。4 彼らは自分のわざを捨てて神に帰ろうとしない。姦淫の霊が彼らのうちにあって、彼らは主を知らないからだ。5 イスラエルの高慢はその顔に現れている。イスラエルとエフライムは、おのれの不義につまずき、ユダもまた彼らとともにつまずく。6 彼らは羊の群れ、牛の群れを連れて行き、主を尋ね求めるが、見つけることはない。主は彼らを離れ去ったのだ。7 彼らは主を裏切り、他国の男の子を生んだ。今や、新月が彼らとその地所を食い尽くす。8 ギブアで角笛を吹き、ラマでラッパを鳴らし、ベテ・アベンでときの声をあげよ。ベニヤミンよ。警戒せよ。9 エフライムは懲らしめの日に、恐怖となる。わたしはイスラエルの部族に、確かに起こることを知らせる。10 ユダの首長たちは地境を移す者のようになった。わたしは彼らの上に激しい怒りを水のように注ぐ。11 エフライムはしいたげられ、さばかれて打ち砕かれる。彼はあえてむなしいものを慕って行ったからだ。12 わたしは、エフライムには、しみのように、ユダの家には、腐れのようになる。13 エフライムがおのれの病を見、ユダがおのれのはれものを見たとき、エフライムはアッシリヤに行き、大王に人を遣わした。しかし、彼はあなたがたをいやすことができず、あなたがたのはれものを直せない。14 わたしは、エフライムには、獅子のように、ユダの家には、若い獅子のようになるからだ。このわたしが引き裂いて去る。わたしがかすめ去るが、だれも助け出す者はいない。15 彼らが自分の罪を認め、わたしの顔を慕い求めるまで、わたしはわたしの所に戻っていよう。彼らは苦しみながら、わたしを捜し求めよう。

歴史的背景
ホセアのイスラエルに対する預言、この預言は、アッシリアの侵略によって生じたパレスチナにおける、前733年いわゆるシリア・エフライム戦争を示していする。
敵に打ちのめされるという状況の中で。。

○神には知られているが、自分は隠れているつもり—恥 

V3-4 3 わたしはエフライムを知っていた。イスラエルはわたしに隠されていなかった。しかし、エフライムよ、今、あなたは姦淫をし、イスラエルは身を汚してしまった。4 彼らは自分のわざを捨てて神に帰ろうとしない。姦淫の霊が彼らのうちにあって、彼らは主を知らないからだ。

神は、知っていた。私たちが罪を犯している時も、どんな時も、私たちは神に知られている。Gaze 神のまなざしについて、以前話しましたが、私たちは、神のまなざしから離れるといいことがないのです。私たちは苦しみ、寂しく、むなしくなります。しかし、私たちは、神のまなざしから逃げてしまうのです。それは、罪から来る私たちの自動的な行動です。罪が入ると、罪悪感が入り、そして、恥が入り、恐れが入り私たちは神の目から隠れようとします。最初の人、アダムとエバが罪を犯して真っ先にしたことは、隠れることでした。物理的だけではなく、心理的にも、実は、脳科学的にも恥は、私たちを隠そう、または、人目に見えないようにしよう、まなざしを避けるようにするのです。恥と、脳について。

V4「彼らは自分のわざを捨てて神に帰ろうとしない。」とありますが、なぜでしょうか。

ここでも、恥が貢献しています。アディクションもワークホリックも仕組みが同じです。恥から恥へと私たちは導かれるようにサイクルの中にはまります。聖書は、御霊の働きによって栄光から栄光から栄光へと書いてあるのに、まるで真逆ですね。恥にとっては、感じることが恐怖です。見つかりたくないから、自分の脳や心の中でさえも、恥は、自分の存在を隠して、影武者のように人生を支配していきます。恥の存在に向き合わないために人は、自分の感覚を麻痺するようにするように行動します。ある人は、お酒によって自分を麻痺させ、この箇所では姦淫によって、また働きすぎでも自分の感覚を麻痺させることができます。その結果、どうなるでしょうか。また恥に導かれます。飲みすぎた、仕事でトラブル、また恥の恥になりまたくるくるサイクルに入っ行きます。

ブリネー・ブラウンは、人は喜びに耐えられない。と言いました。恥は、喜びという栄光ある感情に耐えられないというのです。これは真理をついてます。栄光が本当に欲しいなら、隠れないで神の前に出てこなければいけません。喜びをつかむには、ボルナラビリティがなくてはなりません。(隠さず神の前に裸になること。)

○躓きは、躓きをうみ、霊的な目が曇る、神が余計に見えない

v5-6 5 イスラエルの高慢はその顔に現れている。イスラエルとエフライムは、おのれの不義につまずき、ユダもまた彼らとともにつまずく。6 彼らは羊の群れ、牛の群れを連れて行き、主を尋ね求めるが、見つけることはない。主は彼らを離れ去ったのだ。

先のみ言葉に続いて、恥のサイクルの中にいては、主を見つけることは難しいとあります。躓く人は、何度も躓きます。不思議なことです。それは、一つの躓きが次の躓きを産み、躓けば躓くほど、霊的な目がくもり、心が麻痺していくからです。躓きを避ける最大の攻略は、いつも神様の前にボルナボル裸になれるかということにかかっています。神様に正されても、それに従う勇気があるか。神様の忠告を受ける勇気を持っているかということです。

○目に見える人/国に希望を見出そうとする、助けを求めても無駄だ

v12-13 12 わたしは、エフライムには、しみのように、ユダの家には、腐れのようになる。13 エフライムがおのれの病を見、ユダがおのれのはれものを見たとき、エフライムはアッシリヤに行き、大王に人を遣わした。しかし、彼はあなたがたをいやすことができず、あなたがたのはれものを直せない。

人は、自分の問題に気が付き始めたとき、行動を起こそうとします。神様は、この預言の中で、イスラエルは、神をないがしろにし、神を役立たずのようにみなし、自分の問題を直すために、大国に助けを求めたというのです。しかし、この大国でさえ、イスラエルの病をいやすことはできなかったのです。

人に頼ると罠に陥ると箴言にも書いてあります。何か問題が起きたときに、自分の問題が見えたとき、私たちは、人でなく、神に向かうべきです。今、何か、物事がうまく行かない、自分の腫物を見たなら、神に行くべきです。無駄な時間を過ごさず、神様を腐れにせず、そんな時こそ、神様に聞くべきです。

○罪を認め、神の臨在を求めること

v15 15 彼らが自分の罪を認め、わたしの顔を慕い求めるまで、わたしはわたしの所に戻っていよう。彼らは苦しみながら、わたしを捜し求めよう

  罪を知ることは、解放。罪を認めることは、自由。顔=臨在 神と共にいること
勝利の入り口は、ありのままの自分の状態に目が開かれることです。これは、簡単なことではありせん。自分を客観的に見れることは、成熟を意味しています。何も恥ずかしいことではありません。本当の自分を隠して、自分を美化して美化された自分を信じるのではなく、ありのままの自分を知り、そんなありのままの自分が神に受け入れられている、神に知られていることを理解するところに解放と成長があります。

自分が分かったら、もう癒しが90%なされたと言っていもいいくらいなのです。そういう意味では、人は、自分自身をもGaze することが難しい存在なのかも知れませんね。自分を見つめることを避けて、自分の美化した理想像を追いかけているのでは、それはそれで偶像礼拝のようになってしまいます。
自分を見つめること、そして、神の御顔を求める、つまり、神のまなざしの中に入ることは、私たちの解放と癒しであります。

#ホセア #旧約聖書 #礼拝メッセージ

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MR職人
Commented by MR職人
Posted at 2017-10-15 04:46

<自分は隠れているつもり>頭隠して尻隠さず・・ですね。 

People Who Wowed This Post

bokushi
Commented by bokushi
Posted at 2017-10-15 20:06

はい、尻隠さずですー
そのことば、忘れてました。
その通りですよね!

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