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つれづれなるままに

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進められて行ったコンサート音楽伝道

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錦の公園での子供集会 錦の公園での子供集会 新会堂前にて 新会堂前にて



日本で40年間以上宣教師として尊い御用をされたドロシー・ラバツウ先生の回想録です。

私が聖書学院を卒業したのが23歳の時。

卒業と同時に遣わされた最初の任命地が三重県大台町にある錦キリスト教会でした。

そこで一人で伝道されていらっしゃっるのが教団最高齢の73歳になっていらっしゃったドロシー先生でした。

教団最若輩だった私はそこで7年間働きましたので、ドロシー先生が80歳になるまで共に生活し伝道したことになります。

本の題名は「人生は80歳から始まる」。

確かに年齢を感じさせないバイタリティー溢れる体力と気力とに満ちておられた先生でした。

私との共同牧会伝道期間は助走期間に過ぎず、その後から先生の本格的な宣教師人生が始まったのですね。

今回初めてこの回想録を手にすることが出来て、ドロシー先生という稀有な宣教師を生み出したその背景を垣間見ることが出来たのは実に祝福となりました。

まるで宝物を探し当てたように興奮しながら原書のページをめくっています。

皆様にもその全てでは無いですが、ハイライトと思えるところを紹介します。


その第30回目は、音楽コンサートを繰り広げながら開拓伝道を推進していかれた様子です。








村の小さき教会



タワーを除いて、十日以内で建物自体は立て上げられました。
子供さんや青年たちはそれを見て、とっても喜んでくれました。
まさに私どもの教会堂とは、内も外も「村の小さき教会」です。

その献堂式礼拝では20人もの中学生男子が賛美歌の「村の小さき教会」を英語で歌ってくれました。その学校の中学教師は、バッハの曲からフルート演奏してくれました。

多くのお祝いの言葉や特別賛美があり、シェルホン先生はご自分の説教時間が残されているだろうか、と危ぶんだほどです。

資金が有り余ったことについては驚かないでください。
郵便物を整理する時間がなかったですので、後日になって机の引き出しの中に一枚の小切手が残されていたのに気付きました。

この建築に大反対していたあの理事は、後になってお出でくださり、この小さな村の教会のためにベンチを作ってくださいました。さらに現在の白い教会堂の為にも、またベンチを作るためにおいでくださいました。

空調設備については何ら費用は発生していません。
それはたいそうひどいものでした。

通常の空調とは真逆に働いて、夏には蒸し風呂ように暑く、冬には氷のように冷え切ってしまいます。早天祈祷会の前には凍てついた水道管から水を抜き取る作業をしなくてはなりません。
そこで私たちが主の前に出てくる時には、既に目もバッチリと開いて覚醒の状態となった次第です。

建築作業が進む間、柏崎近くにある製材会社の所有者と知り合う機会がありました。
その所有者の奥様は、「どうせなら錦と柏崎の間にある錦峠を越えたあたりに教会堂をお建てになったらどうでしょうか」と聞いて来られました。

そんなこともあって、やがて英語と聖書クラスを柏崎にある彼らのコテージで開くことになるのです。



柏崎伝道



錦だけでも私には充分で広い町ですが、そのさらなるチャレンジを受け入れました。
そこで大人のためのバイブルクラスを開くこととなったのです。

そのような準備がなされているときでした。その家のご主人が悲劇の事故に遭われたのです。
山中で木を伐採してるときにピンと張られたケーブルロープが突然緩んで弾け、彼の腹部を直撃したのでした。私はただ主に「どうしてです」かと聞く他ありませんでした。

私は本部に対して働きのための助手を求めたことはありませんが、充てがわれて拒んだこともありません。
錦に来られて、また去って行かれる伝道師の方々が幾人か続きました。

一方で、主は錦教会に新しく生まれるクリスチャンを起こして下さっていました。
そのような私たちの中からは、熱い心を持った賜物ある助け手たちが大家族のようになって共に働いたのです。

私たちは共に祈り、共に物事を決めて行き、そして共に働きました。








キリストが選び出された教会スタッフ



ある時、特別集会のポスター作りに五組ののクリスチャン家族が励んでくれた時がありました。彼らはそのデザインを描く作業にあまりに夢中となっていたため、ちびっこちゃんたちが畳の上に落書きをしているのに気がつかなかったのです。ちびっこちゃんたちもまた、彼らなりにデザインのお手伝いをしてくれていたのに違いはないのでしたが。

ドクター上野は優れたデザイナーでして、原案を発案してはポスターやチラシに素敵なデザインを描いてくれました。
印刷も自分たちでやりくりしますが、私もそのポスター作りには奮闘しました。

彼の奥様は熟達された音楽家でいらして、結成されたばかりの小さなコーラス隊を指導してくれました。私がオルガンを演奏し、だんだんとコーラス隊に人数が集まってくるとヘンデルのハレルヤコーラスを歌う練習をするまでになりました。

あるアメリカの教会からの厚意で、愛する方が天に召された記念として捧げられ贈られたハンドベル・セットは、私どもの音楽活動に弾みをつけてくれました。

伝道師が教会においでにならないときには、教会員が協力して週報作りに励みました 。
水曜日夜の祈祷会の時間までに、私がすべての原稿を用意しておきます。
すると、当番となった教会員は謄写版印刷のためのガリ切りに励んでくれるのです。
彼らは週ごとの当番制で順番に役割を担ってくれました。



協力を惜しまないクリスチャン家庭



ある年のクリスマスと新年の特別集会のためには、膨大な印刷物を必要としました。
私はある部分の印刷をプロの業者に依頼してはどうか、と聞いてみたのです。
しかし誰もがその意見に賛成せず、自分たちで作った方が良いものができる、と異口同音に言うのです。そこで私たちは皆、そのことに賛成し、ただひたすら働いて、また祈りました。

その集会直前となると、ほとんど徹夜で働いたこともあります。
そんな時、私どもの心までもがその印刷物と一緒に溶かされて行くような疲れを感じたこともありました。

その頃と比べると、現在私たちのすることと言ったら、コピー機の電源をオンにし、印刷枚数をセットし、後はスタートボタンを押すだけですよね。

協力について言えば、私は教会員に対して、決して依頼をした事はありません。
彼らが自主的に計画を立ててくれたのです。

私たちは皆でポスターを作り、それを町中に貼り出しに行き、そしてトラクトもまた共に配りました。今の時代は、私たちは何をするにもアピールから始めます。
協力作業のために、祈祷会出席のために、また礼拝出席のためのアピールをしなくてはなりません。
「もし毎週来ることができないのなら、少なくとも月に一度はおいで下さい」という感じですね。

私たちは自分から出て行くよりも、人を教会にかき集めることにより大きな意義を見出しているのではないでしょうか。
もし教会が霊的なお祭り(喜びと活発さ)の状態であれば、霊的に空腹な人達が祝福を求めて自らやってくるに違いない私は確信しています。

こんなことをある牧師に言ってみたところ、彼はこんなふうに答えてくれました。
「先生の好きなようにしても良いですが、成功はおぼつかないと思います」と。



時が良くても時が悪くても、引き続き植え続けて



もう一人の牧師は、特別集会のトラクト配布のために人員要請する段になって、こんな風にも言っておられました。結果については多くを期待あいてはならない、と。
「多分、新しい人が来ても二名か三名程のことでしょう」ですって。


"風を警戒している人は種を蒔かない。雨雲を見ている人は刈り入れをしない。"
(伝道者の書 11章4節)

"朝にあなたの種を蒔け。夕方にも手を休めてはいけない。あなたは、あれかこれかどちらが成功するのか、あるいは両方とも同じようにうまくいくのかを知らないのだから。"
(伝道者の書 11章6節)

皆さんは、アメリカンインディアンがコーンの種を蒔く時、常に三種類の種を蒔いているという話を聞いたことがあるのではないでしょうか。

一つは、カラスのために。
もう一つは、野ネズミのために。
そして今一つが、えインディアン自身のために。



大コンサート


私どもが企画した最も大きなイベントの一つは、有名ミュージシャングループによるコンサートでした。20名ほどにもなるそのグループの中には、テレビに出演している有名人やラジオでのスターなどもいらっしゃいました。

監督の一人が私に電話をかけてきて下さり、私たちが彼らを招く興味があるのか聞いてこられました。もしそうなら、ステージのギャラ料金表を送るとのことでした。これは彼らが通常、コンサート・チケットの販売を開始する手法でした。

錦教会では、このような方法で物事を運ぼうとはしません。
私たちは神様の驚くべき恵みを値なしで頂戴したのですから、神様の恵みを他の全ての人々にも値なしでお届けしなくてはならない、と感じるからです。

もしそのミュージックグループが無料コンサートに同意をされるなら、私どもは喜んで全ての事をお世話する約束をしました。すなわち、あらゆる準備、宣伝広告、そして宿泊食事費用などを教会が責任を持って提供するというものです。

私たちは町にある最大収容人数の施設である老人福祉センターのホールをお借りしました。
当時の錦町にはおよそ三千人強の人口があるとされていましたが、その内の約800名の入場者が与えられ、500名ほどがゲストブックに記帳して下さいました。

夕食には全てのスタッフメンバーを教会堂にお招きして、ホームメイドの料理を振る舞いました。宿泊は幾人もの教会員のご自宅に分散して、それぞれ泊まってもらいました。
それぞれのご家庭へと分散して出掛ける直前まで、全てのメンバーは、教会堂に会して交友とデザートなどを心行くまで楽しんでいました。

彼らはそれぞれ異口同音に、こんな小さな田舎の教会が、これだけのコンサートイベントを運営できることに驚いた事を口にされていました。
それは私たちがしたことではなく、主ご自身が私たちを祝福されて、主の忠実な僕たちに豊かな報いをお与えてくださったがゆえに可能となった事なのですが。



延長されたプログラムと激怒の管理人



錦教会は、音楽の賜物のある方々で祝福をいただいていました。
クリスマスの喜びを、錦の町全体にお届けしようと、私どもは決意していました。
日本のチャーチオブゴッドから伊藤文枝先生をソリストとしてお招きして、クリスマスの特別音楽集会を計画しました。

そこで、最も収容人数の大きい老人福祉センターを再び使用する許可もいただきました。
私どものプログラムは予定時間よりもかなり超過してしまったところ、管理人はひどく怒りをあらわにするのです。

そこで全てのプログラムを終えないまま、とにかくその会場を追い出されるようにして退出せねばならなくなりました。それは実に、終了セレモニーを踏まないままの、打ち切りでした。

さらに、どんなに私どもがお詫びを重ねても、その管理人の怒りは静まりません。
怒号が飛び交う中、どうしたことか私は自分の車の鍵を見つけることができなかったのです。
そこで自分の車をそのセンターの駐車場に置き去りにしたまま、とにかく飛び出して帰宅しました。

翌日、私は大きな深呼吸をしなながら平和を祈りつつ、再びあの管理人とお会いしました。
彼の怒りはすでに収まっていて、私への気遣いを感じさせる程でしたので、落ち着いた会話ができました。その中で、かつて彼はキリスト教との接触を持ったことも知りました。

私は彼に、昨日の混乱にもめげずに将来もこの会場を使用したいこと、そして会場使用のルールについては事前に私どもに知らせて下さるようにとお願いしました。

どんな反対を受けようとも、私どもの喜び、生きる希望と確信ある生き方について、ぜひとも町の全ての人々にお伝えしたいと願っています。




増築された牧師館




チャーチオブゴッド本部としては、牧師とその家族とを新たに錦教会に送ろうと計画しました。
そこで私どもはこの小さな教会堂に接続する牧師館を建てることにしました。建築献金がすぐに始められました。ところがその後、その牧師は来ないことになったのです。

それでも建設資金はかなりの額が達成していましたので、計画通りに増築工事を始めることとなりました。まもなくフィンキーさんらが来られるし、子供夏季キャンプがありますが、果たしてその時まで工事は完成するでしょうか。時間は短く、予算は限られています。

私は地元の建築業者に急いで依頼せねばならない、と感じたのです。
私どもが自宅で食事をする時、私の座る席からその建築会社を見ることができます。その時いつも、性急に対処するように促されていると感じました。

共にいた日本人伝道師には何も告げないまま、私はその促しに従って建築業者のところに行きました。外国人としての私は、新たな事態に向き合う時、常に事前にスピーチを準備しておきます。
今でも私はその内容を、一字一句の全てを思い出すことができます。
私どもの予算は計画の半分ほどしかないし、時間は限られています、と彼に正直にお伝えしました。彼の話によると、彼には兄弟がいて現在関わっている建築作業がその日の夕刻までには終わるのだそうです。さらに彼らの会社には、他の建築プロジェクトからの余った資材があって、窓や扉等は廃墟となった建物から確保できるとのことでした。

そんなことで、私どもの予算内で建築を請け負って下さると言って下さいました。
その新しい牧師館の献堂式には、シェルホン先生と美智子先生、またフィンキー(ベイデン教会宣教主事)ご夫妻の臨席も賜わりました。

夏季子供キャンプの最中、愛しい子供さんたちで教会堂はいっぱいになりましたが、新築の牧師館はフィンキーご夫妻のプライベートの部屋となり、その騒がしさから逃れてもらえたのでした。



ウイリアム・フィンキーと奥様のご訪問



ウィリアム・フィンキーさんと奥様のウィルマさんとは、二回にわたり私どもを訪問されました。
神様の時は完全であると、私たちは知りました。
神様の時は常に完全であり、神の供給もまた充分なものです。

二回目のフィンキーさんの訪問までに、主は意欲に溢れた若い青年たちのグループを私たちに与えて祝福してださっていました。
彼らは熱心に英語聖書を勉強し、クリスチャンコーラスを学び、また暗唱聖句にも励んだ人たちでした。

その時には美智子先生のお手伝いもあって、夕食はバラエティのある国際色豊かな夕食となりました。イングリッシュマフィン、アメリカンクリームチキン、メキシカンチリビーンズ、イタリアンピザ、そして日本の海苔巻きやフレンチアップルパイなどです。

夕食の後、その青年たちがそれぞれ歌や英語暗唱聖句を発表してくれました。
ビーンズは余ったのでフィンキーさんは翌日の朝食にも食べる事が出来ました。
彼らの家では許されていないビーンズだったのですが。





#ドロシー師

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