Apr
18,
2015
“再び・ヴリーツェンの桜!!”《襍囈 ・/・拈華微笑1》
戦後70年にして、未だバッシングを受けてる敗戦国!!日本。
更には、政争を仕掛けられてる現状・現況、何とも忍びがたい。
海を挟んだ隣国(2国)だけに悪しき日本軍人が居留していたのか???
而して現今を思うと沖縄に関する報道が偏向してるのでは、と危惧する。
ブログルを使わせて頂きはじめた頃に記した「ヴリーツェンの桜」、
今のブログル仲間、そして若き友たちに新年度^^)始めのブログとして、
再度、紹介し、現況の日本、日本人を深慮したい。
※ ※ ※ ※2005/04/21;bloguru投稿※ ※ ※ ※
例年この頃になるとある事を思い出す。
ドイツ北部旧東ドイツ・ポーランド国境近くの町ヴリーツェン(Wriezen)の桜の事だ。
ある時、この町に第二次大戦終焉前後時期に一人の日本人が、活躍していたと知った。
「肥沼信次医学博士」 昭和9年日本医科大学卒業後、東京帝国大学医学部放射線教室を経て1937年ドイツのベルリン大学(正式名フリードリッヒ・ヴィルヘルム大学。現フンボルト大学)の医学部放射線研究所に入り、数々の研究成果をあげ東洋人として初めて教授資格を取得した偉人の足跡。
日本では余り知られていないが、ドイツの小中学校の教科書にも載る医学博士である。
1998年ごろ日本の新聞紙上やテレビのドキュメンタリーでも取り上げられていたが、一般的には知られていない偉人ではないか。
旧制中学時代、アインシュタイン博士に憧れ、キューリー夫人を尊敬しドイツに憧れていた。数学が好きで東京帝大医学部時代「数学の鬼」と言われてた。
1937年春にドイツに向かい、伝染病研究所(初代所長は結核菌発見者のコッホ)に入所した。フンボルト奨学生としてベルリン大学(現フンボルト大学)の放射線研究所で研鑚しその後研究員となった。
博士は、ナチスドイツへの宣誓書を提出させられるが、
「私はフリーメーソン結社に所属したことないことを、ここに宣誓します。」
「私は純潔な日本人であり、日本国籍を有する事をここに宣誓します。」と、
ヒットラー総統への忠誠を示すものではなかった。
当時のドイツではドイツ人でも4代前までユダヤ人の血が混じってないドイツ人であることを証明しなければならなかった。
増してや日本人である。この宣誓文は、博士の意志の強さと勇気を示したものだろう。
1945年3月18日にベルリン在留日本人に帰国指示がくだったが、博士はドイツ残留を選択した。戦時下で、ベルリンの住居が壊れエバースヴェルデに疎開していた博士は腸チフスが蔓延し、医師のいないヴリーツェンに向かう。
チフスを恐れ誰も行きたがらない地にである。
当時の病院職員の言では、「肥沼先生は、疲れを知らず、いつも笑みをたたえ、
ドイツ語がそれほど流暢なわけではなかった(これは方言の強い事から)が、患者に絶えず話しかけていた。
7人いた看護婦も、5人が死んだ。町にはチフスが蔓延し、近くの難民キャンプでは性病も広がった。
生活物資も薬も不足していたが、博士は多くの人を救った。」
「子供が起きて、何か食べれば、もう大丈夫ですよ。」と親達に言ったものだった、と。」
寝る間も惜しみ医療活動を続けていたのである。献身的な対応が伝えられている。
「ある日、5キロ離れた緊急難民収容所にチフス、マラリア、赤痢患者の往診に出かけたが、若い准看護婦がこの世の光景とは思えぬ惨状に入ることができずにたたずんでいるのをよそに、博士は、自分の身の危険もかえりみずに診察を始め、彼女の方をふりかえり「君の使命感はどうしたんだ。」とやさしく言ったという。
准看護婦は、その言葉に、躊躇していた自分を恥じるとともに、気の遠くなるような感動にうたれ、医療の何たるかを教えられたと語っている。父親の発疹チフスを治療してもらった子供の言では、近在の村にまで何度も往診をしてくれたと、。
一人の婦人の言では「家に来てくれるお医者さんなどいなかった。先生は診察したあと持ってきた薬を全部置いていってくれました。また、肥沼先生は診察料のことを口にしませんでした。うちだけでなく、他の家ででもです。人を慰め、握手を求め、薬を運んで救助を急いでくれて……。すべてが狂乱・興奮状態であった時代にですよ。本当にそういう先生がいたのかと、今の人には信じられないでしょうけど、大変素晴しい尊敬できる方なんです。」
博士が治療した部屋が、まだそのまま残っていて、婦人は、肥沼博士のことを、子々孫々伝えていくという。
異国の地で伝染病センター医師として、働き、薬が不足すれば、荷馬車を繰り、すし詰めの鉄道に乗り、または徒歩で、分断べルリンの危険地域や米軍駐屯地から命からがら薬を入手してきた。
ヴリーツェンの人々は肥沼博士が異国の地におりながら家族の事を全く話さなかった事で、家族が居ないものと思っていた。
病魔に倒れた博士は、最後に「日本の桜は大変綺麗です。みんなに見せてあげたいな。」であった由。
肥沼博士自身もチフスに感染したのだが、博士は、看護や薬を使う事さえも拒みヴリーツェンにて1946年3月8日に死去された。
旧東ドイツ時代は秘密警察の問題も有り公に賞賛する事は出来なかったが、
その墓は病院の同僚や村民によってずっと大切にひっそりと守られてきた。
80年代以降、肥沼博士に対する関心が高まり、1993年には、市役所の顕彰版にその名前が彫られ、1994年には名誉市民号が贈られ、日本の遺族にも連絡が取れたのである。
1994年7月1日には、肥沼博士の記念碑の除幕式が行われた。
ドイツの代表的新聞FAZ紙で13面の4分の1ほどを割いて紹介している。
統一ドイツになって肥沼博士の話は知られるようになり、肥沼博士の兄弟が墓参した折、日本の桜の苗木の送呈、寄付で桜の樹が増え、今や、町中に桜が見られる。これらのことにはヴリーツェン近郊在住、画家の横尾龍彦氏の尽力が大きい。更には、博士の功績を称えて1991年より記念柔道大会「肥沼杯」が命日の3月にあわせて開催されている。参加国はドイツ、ポーランド、日本、10歳から12歳の自由参加で、大会初日には博士の墓前に献花し、詣でている。
肥沼信次博士はヴリーツェンの人々の心の中に生きているのである。
前途有望な若い医師が、37歳で生涯を閉じた。戦争禍の悲惨さを思うのです。
今の季節になると、当地を今一度、訪れたいと思うが機会を持てずもどかしい。
今でも独逸の大学教授資格は、厳格であり、その資格たるや威厳ある。
博士の研鑽された時代は、現在と比較には成らないほど教授資格は崇高な地位であった。30代なかばで教授資格取得、とてつもない業績だった事がわかる。
博士の人間性・・・日本人として誇り、将来に向けても語り継ぐべきであると再度、掲載した。
**参考HP**
Home ホームページ - Lebensbilder 日独交流の群像 - Ko(y)enuma, Dr. Nobutsugu 肥沼信次博士(1908-1946), Arzt 医師
http://www.das-japanische-gedaechtnis.de/lebensbilder-a-z/koyenuma-dr-nobutsugu1908-1946-arzt.html
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