野・里山を散策していると、
自然界の動植物は、粛々と営みを繰り広げている。
人間界を見ると、無用な殺戮を繰り広げている。
思慮を・・・人間性とは何か??
単に落胆していられない。
良心・善なる心を持ちたいものだ。
日々の生活の中でも気にとめないと社会の様々な出来事が通り過ぎていってしまう。事象は時間と共に忘れ去られていく。
この所、裁判で、解せない判決が相次いでいる。
先日、又も考えさせられる民事法上の決定があった。
自分にとって関係ないこと、社会での既存・一般的倫理の中で、一個人の考えであっても思考してみたい。
そんな自己主張が容易に出来るのがブログであろう。
法の判断は、専門家だけが出来るのでもない。
社会的コンセンサスも重要な判断要素、である。
法的判断は、狭義の法・条文解釈だけでではない。
社会通念として、要件妥当とする内容であれば、
法・条文解釈を拡大できるとする判例が出始めた。
現行法をも活用・・・できる事である。
現行法における限界、とする判断が相次いだが、
今度は、「法の前に人間」それを問うているやであった。
「生きた法律」!!硬直した判断が、司法では、よくみられるが・・・。
先日、画期的な判例が出た。
「代理出産」 を容認する・・判断基準を定義するべくな判決。
世に不妊で悩む夫婦は、多いであろう。
欧米で言われる「生殖補助医療技術」を一個の人間として真摯に考えて見ることも大切である、と海面の模様を見ながら思った。
日本の医学会は、容認していないかもしれない!?!
更には、養子ではなく実子として出生届を出したいのは当事者・子供が欲しい親の身勝手なことか??
而して、「出産した女性だけを母とする」法解釈ははたして??現代社会において正論か??
生殖補助医療技術の確立・法制化が検討されている時期だが、生命倫理に基づいた真摯な分析・検討、既成概念に捕われず、東京高裁の判断・決定が示すように、真摯・慎重にではあるが、国民、一人一人が、思考すべき時が、今、と感じる。
高裁の決定書にある「わが国の民法は、生殖補助医療技術が存在しなかった時代に制定されたが、現在はこうした技術で人為的な操作による妊娠や出産が可能になっている」「法制定時に想定されていなかったからといって、人為的な操作による出生が、わが国の法秩序の中に受け入れられない理由とはならない」
但し、ケースバイケースであることは確かで、慎重な判断、医療実施に際しての基準・規定を早急に国として策定して欲しい。
現実問題として、向井さんの場合のように既存の問題を、国の審議会の答申で「代理出産禁止」と言う法律が出来ようとした前に、東京高裁という場で出た決定は、物議をかもすことは確かだが、
『誰のための法か!?!』と言う点で、まさに当事者の立場にたった、慎重に審議された真摯な決定、人道的な決定と、賛意を表したい。
あの9・11事件直後に語った老哲学者の困惑、
『暴力にまでなった「宗教」・・・と。
師は、「如何にすれば理性的未来を構築できる」と、苦悩を見せていた。。。
その上で、「死」が何を意味するのか、、、
「暴力」がウィーンの城門の前に立ちはだかった
(オスマン・トルコ帝国による1529年、1568年の第一次、第二次ウィーン包囲、
また1683年のトルコ軍によるウィーン包囲等を指す)などの歴史上の事実・・に重複させ、
「恐ろしく長い間絶えて無かったことを思うと本当に不気味に感じられてきます。」
「共通感覚」「他者の思考」「他者の理解」』等を語っておられた。。
20世紀を代表する一人の哲学者の言を思いながら、
9・11事件以前に日本に存在した事件「オーム事件」も忘れてはなるまい。
宗教の存在が、我々の生活に如何なる力を呼び起こしているのだろう??か。
宗教は「何をなしうるか」、凡人の己には分からない。
「テクノロジーの狂気」、宗教の恐ろしさを「オーム真理教」等の新興宗教に見る。
科学技術を用い、「詭弁」「妄想」、言葉巧みに言いたい放題。
「オウム事件」を空洞化させてはいけない。
その他の怪しげな宗教団体も含めて、
罪と罰、倫理と行為規範を裁判の中で深く審理して欲しかった。
オーム事件の首謀者に断罪がくだったが、中味の全くない事実に対する結論が出ただけだ。
人が人を裁く、そこには「審理」と言う客観的整合性がなくてはいけない。
「裁判・訴訟制度」の根幹をなす、
「検証」が疎かにされ、法廷技術(訴訟技術)
つまりは、形だけの訴訟が先行して、裁かれる加害者、
そして救済されるべき被害者の存在を充分に検証していない、
蔑ろにしている。
同時に、言論・行政・政治、それを動かし携わっている人々にも危惧感を持つ。
真摯に分析、対策を講ずるべき、と・・・
新たに日本を動かす首相が決まる時、
英知を結集して、
平和な日本を築いて欲しく希して止まない。
我必非聖
彼必非偶
共是凡夫耳
日本の聖人の言葉を思う。
権力者の犠牲になった
総ての地球上の人民のご冥福を祈る。
身近なところで、海での「成人を祝う会」が一月十五日に片瀬東浜で行われた。
この様な時に、不謹慎かも知れませんが、現代社会の裏腹を思うて止みません。
事故が人的な原因と報道されていますが、要因の一端は、社会的要求が引き金ではないだろうか。「より速く、安全に」と言う相反した事が根底にありましょう。過密ダイヤとは申せ、普段、乗客は利便性に対して危惧・疑問を言わない。特にマスコミ関係者が危険を、危惧を、世に問うていたであろうか?
こぞって、結果的事故現場等を報道しているだけではないか。更には、同情的に、悲しみを助長させているだけのように見える。JRと言う企業内部での現場・最前線にいる担当者(今回は、運転手)の非を言っている。然し、危険・暴挙に走らざるを得なかったかもしれない運転者の心理状態をも想像するのである。営利・利便性、事故が起こったとき、しばらく間は、自重するだろう。あらゆる観点において、過密ダイヤを軽減する、例えば、10分間隔を15分間隔にする、となったら、利用者側は、何と言うのだろうか。
事故が起こるたびに思う事である。社会全体が、其々少しの我慢をもつ、余裕を持って対処すべきであろう。世の中全体が、走りすぎている。
自然界の摂理を、思うのだ。
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