本日は、<藤田嗣治>のお誕生日です
Oct
26
1905年、「東京美術学校」へと入学し、西洋画を学び始めます。当時はパリからもたらされた「印象派」や「写実主義」の作風が流行っていて、それは、彼には合いませんでした。そのため、学校の成績はあまりよくなかったようです。
卒業後は「新宿百人町」にアトリエを構え、活動を行い始めますが、フランスへ留学したいという思いが次第に強くなり、1913年にフランスへと向かい、フランス、パリの「モンパルナス」に拠点を置き、活動を始めます。
パリでは「キュビズム」や「シュールレアリズム」が台頭してきており、日本で学んだ作風とは異なる、全く新しい西洋画に触れ、衝撃を受け彼はこれまでの作風を見直し、新たな自分の作風を見つけていくことになります。
当時の「モンパルナス」は、中心街から少し離れた寂しい郊外にありました。そのため、家賃や物価も安いこともあって、資金のない画家、彫刻家、小説家、詩人、作曲家たちが集い、集合住宅で生活をしていました。そこで、「エコール・ド・パリ」と称される様々な作家と交流を深めています。<アメデオ・モディリアーニ>、<フェルナン・レジェ>、<パブロ・ピカソ>、<アンリ・マティス>等々、名だたる芸術家と交流を行なっています。
1922年、サロン・ドートンヌ展に出展した「ジュイ布のある裸婦(寝室の裸婦キキ)」が注目を集め、誰もが知る作家となりました。
1925年には、フランスから「レジオン・ドヌール勲章」、ベルギーから「レオポルド勲章」を授与されています。その後、南北アメリカ大陸で個展を行い、1933年に日本へと帰国。
第二次世界大戦時は陸軍美術協会理事長に就任。「戦争画」の製作を手がけますが、戦後、この「戦争画」を巡り「戦争協力者」としてGHQからも目をつけられることとなります。そんな状況に嫌気をさした彼は、1949年に日本を去り、フランスに戻りましたが、第二次世界大戦後のフランスは、ナチスドイツの退廃芸術の弾圧の影響もあり、当時の芸術の賑わいはありませんでした。世界の芸術の中心も「パリ」 から「ニューヨーク」へと場所を変えつつある時期でした。その中でも彼はフランスを拠点として、多くの作品を残し、1955年に、フランス国籍を取得しています。