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イエスを十字架につけた人たちPeople who crucified Jesus

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2015年3月22日日曜日バイリンガル礼拝音声は、http://youtu.be/y2xP2rKRzFA

ヨハネ19:1-16
そこで、ピラトはイエスを捕らえて、むち打ちにした。
2 また、兵士たちは、いばらで冠を編んで、イエスの頭にかぶらせ、紫色の着物を着せた。
3 彼らは、イエスに近寄っては、「ユダヤ人の王さま。ばんざい」と言い、またイエスの顔を平手で打った。4 ピラトは、もう一度外に出て来て、彼らに言った。「よく聞きなさい。あなたがたのところにあの人を連れ出して来ます。あの人に何の罪も見られないということを、あなたがたに知らせるためです。」5 それでイエスは、いばらの冠と紫色の着物を着けて、出て来られた。するとピラトは彼らに「さあ、この人です」と言った。6 祭司長たちや役人たちはイエスを見ると、激しく叫んで、「十字架につけろ。十字架につけろ」と言った。ピラトは彼らに言った。「あなたがたがこの人を引き取り、十字架につけなさい。私はこの人には罪を認めません。」7 ユダヤ人たちは彼に答えた。「私たちには律法があります。この人は自分を神の子としたのですから、律法によれば、死に当たります。」8 ピラトは、このことばを聞くと、ますます恐れた。9 そして、また官邸に入って、イエスに言った。「あなたはどこの人ですか。」しかし、イエスは彼に何の答えもされなかった。10 そこで、ピラトはイエスに言った。「あなたは私に話さないのですか。私にはあなたを釈放する権威があり、また十字架につける権威があることを、知らないのですか。」11 イエスは答えられた。「もしそれが上から与えられているのでなかったら、あなたにはわたしに対して何の権威もありません。ですから、わたしをあなたに渡した者に、もっと大きな罪があるのです。」12 こういうわけで、ピラトはイエスを釈放しようと努力した。しかし、ユダヤ人たちは激しく叫んで言った。「もしこの人を釈放するなら、あなたはカイザルの味方ではありません。自分を王だとする者はすべて、カイザルにそむくのです。」13 そこでピラトは、これらのことばを聞いたとき、イエスを外に引き出し、敷石(ヘブル語ではガバタ)と呼ばれる場所で、裁判の席に着いた。14 その日は過越の日で、時は第六時ごろであった。ピラトはユダヤ人たちに言った。「さあ、あなたがたの王です。」15 彼らは激しく叫んだ。「除け。除け。十字架につけろ。」ピラトは彼らに言った。「あなたがたの王を私が十字架につけるのですか。」祭司長たちは答えた。「カイザルのほかには、私たちに王はありません。」16 そこでピラトは、そのとき、イエスを、十字架につけるために彼らに引き渡した。

いよいよ、イエス様が十字架に掛けられる日が近づいて来ました。イエス様は、当時ユダヤの地方を支配していたローマの総督ピラトに引き渡されます。
今日は、イエス様を十字架に掛けた人たちについて注目してみたいと思います。

① 群集

時は、過ぎ越しの祭。大勢の人たちが祭を祝うためにエルサレムに来ていた。
ローマの総督、裁判官であるピラトは、イエス様に罪を認めないので、釈放したかった。18章では、イエス様を釈放しようと試みたが、群衆は、イエス様ではなく大罪人バラバを釈放するように求めた。

また、この群衆を扇動していたのは、祭司長などの宗教指導者たちであった。宗教者たちは、イエス様が妬ましかったので、イエス様をのぞきたかったのである。

19章でも、群衆は、「除け、除け、十字架につけろ」と何度も繰り返し叫んでいる。

群衆と呼ばれた人たちが、イエス様に会いに行ったのではなかったのだろうか? 群衆と呼ばれた人たちが、癒されたのではないか? イエス様の教えに耳を傾けたのではないか? また、満腹になるまでパンと魚をふるまってもらったのではなかったのだろうか?
イエス様は、このような人たちに十字架につけられたのでした。
イエス様のことを見聞きし、興味を持ち、また癒されたり、良いことを体験するが、個人的な関係を持っていなかった。そして、いとも簡単に、宗教指導者たちの掛け声に従ってしまう。
イエス様が殺されようが、どうなろうが、自分とは関係がない。と思ったのです。良いことを見聞きしたり体験したけれども、個人的な関係がないならば、イエス様の十字架の痛みは、彼らに何のインパクトもないのです。
ですから、リーダーの掛け声一つに何の考えもなく、さーっとついて行ってしまうのです。いわば、真理に対して無関心な人たちです。思想のない人たちと言っていいのかもしれません。
イエス様は、このような、天の御国、真理、真の神様、宗教よりも愛に生きる、などということに無関心な人たちに十字架につけられたのです。

一つ目は、真理に無関心な人たちでした。

②  ピラト

ピラトは、前々から会いたいと思っていたイエス様にやっと、こんな形で会えました。18章では、イエス様にいろいろと質問しています。そして、イエス様をだんだん求めるようになりました。「真理とはなんですか」とも聞いています。真理の探究者となりました。

また、イエス様を求めていますし、この良い人をどうしても罪に定めたくありませんでした。だいいち、罪を認められなかったからです。そして、イエス様をどうにか助けようと考えました。18章では釈放しようと試みたが、結果バラバが釈放されてしまいます。

先ほどの、聖書箇所を読んでも分かるように、ピラトは、ユダヤ人とイエス様の間を行ったり来たりします。そして、どうするか、判断に困っています。それは、なぜでしょうか。彼には、イエス様を生かすという権威があったのではないでしょうか。なぜ、こんなに困らなければ奈良なのでしょうか。

彼は、自分の信念、また神や真理よりも、自分の生きている世界、住んでいる領域において面目を保ちたかったのです。

ユダヤ人を満足されたい。また政治的にも丸く治めたい。そして、何より、最後の決め台詞となつたのは、ユダヤ人のこの言葉でした。

ヨハネ19:12-13
こういうわけで、ピラトはイエスを釈放しようと努力した。しかし、ユダヤ人たちは激しく叫んで言った。「もしこの人を釈放するなら、あなたはカイザルの味方ではありません。自分を王だとする者はすべて、カイザルにそむくのです。」13 そこでピラトは、これらのことばを聞いたとき、イエスを外に引き出し、敷石(ヘブル語ではガバタ)と呼ばれる場所で、裁判の席に着いた。

ピラトにとっては、カイザルに対する忠誠心を疑われるくらいなら、この罪のない人を殺した方がましだったのです。つまり、カイザルの気持ちを害するくらいなら、一人の罪のない人を死刑にするほうが良かったのです。

みなさん、真理を選ぶときには、犠牲が伴うことをピラトは知らなかったのです。自分が犠牲を払ってまでも、真理を手には入れたくなかったということです。

聖書の箴言の書には
神を喜ばせることよりも、人を喜ばせることを選ぶなら、罠にかかります。というような言葉があります。究極的には、真理を得るには、人に嫌われたくないという自分を取るか、神を取るかという選択になるのです。

③ 父なる神、御子イエス様の従順な姿

さて、もう一人イエス様を十字架にかけた人がいます。それは、この聖書の箇所には直接的にでてきていませんが、父なる神様です。

ヨハネ19:10-11
そこで、ピラトはイエスに言った。「あなたは私に話さないのですか。私にはあなたを釈放する権威があり、また十字架につける権威があることを、知らないのですか。」11 イエスは答えられた。「もしそれが上から与えられているのでなかったら、あなたにはわたしに対して何の権威もありません。ですから、わたしをあなたに渡した者に、もっと大きな罪があるのです。」12 こういうわけで、ピラトはイエスを釈放しようと努力した。しかし、ユダヤ人たちは激しく叫んで言った。

ピラトが釈放したくて、自分には権威があるんだぞ、と言い出しました。するとイエス様は、「上からの権威でなければ、ピラトでもイエス様の生死に関する権威は何もない」と、おっしゃいました。すなわち、イエス様が十字架にかかられるのは、上からのことだとおっしゃいました。人間の手にかかっているのではない、というのです。

イエス様は、父の計画にもくもくと従われました。何を聞かれても、自分の有利になるようなことは言わず、静かに従われました。イエス様は、何の罪も犯していないのに、極悪人がつけられる十字架につけられようとしているのです。平手打ちをされ、つばを吐きかけられ、人々に馬鹿にされ、笑われました。しかし、決して、自分の面目を保つために、何一つ自分を守るために口を開くことをされなかったのです。

どうしてでしょうか。
それは、私たちの罪を背負うためでした。私たちが罪赦されるためでした。私たちが永遠の命を持つためでした。

神様は、私たち人間をお造りになりました。私たちに素晴らしい宝物を一人ひとりのうちに与えました。しかし、私たちには罪があります。それは、ピラトのような、また群集のような、私、わたしがかわいいという、真理に無関心な心です。
神は、そんな私たちを救われたいと思われたのです。
ですから、本当は、罪人である私が受けなければいけなかったその刑罰をイエス様に負わされたのです。そして、誰でもこのイエス様を信じるものには、罪が赦され、永遠のいのちが与えられるようにされたのです。
イエス様は、この父なる神の計画にもくもくと、けっして自分を守ることもなく従われたのです。

ピラトと違うのは、イエス様は、真理のために多大な犠牲を払われたのだということなのです。

それは、後の日に、多くの実りを見るためでした。そして、実際そうなりました。私もイエス様を信じて救われました。それは、私を信仰に導いてくれた人の命も救いました。そして、私の家族を救いました。また、私を通してたくさんの人に伝われました、今も、伝わり続けています。

さあ、みなさんに質問します。あなたは、今日のメッセージの誰に当てはまりますか。真理について無関心な群衆でしょうか。また、真理を求めているが、最終的に、神よりも人を選んでしまったピラトのようでしょうか。

いずれにしても、真理を受け取るには、犠牲が伴います。群衆と言われている一人が、もし、あの時、宗教指導者にノーといったならば、そこで救われていたでしょう。ピラトが、たとえカイザルに背いたと言われても、あの時、イエス様を求めつづけたのならば、イエス様に出会い、真理を悟ったでしょう。

イエス様に出会うには、何がしらの犠牲が伴うのです。

しかし、私たちの払う犠牲は、イエス様の払ってくれた犠牲に比べたら、比べものにならないくらい小さいのです。

その犠牲を払ってイエス様に出会いませんか。

もうすぐイースターです。今日のこのことを心に思いめぐらしながら、今週一週間すごしましょう。



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