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礼拝後、子供たちがごみ集めをしています。。。ちゃんと、ごみ袋も入れ替えて、替えの袋も中に入れてっと。。。そういえば、日本の学校では、みんなやってますもんね。幼稚園児が草むしりしているし。。。なんか、できるんだーと新鮮に感じてしまいました。アメリカナイズされたなー。。。
今日は、初めて、けっぴーとしずかちゃんで、ワーシップをリードしてくれました。
不安だったみたいですが、とっても良かったです! 神様は、神によりたのむものを用いられますね。
2018年2月18日日曜日バイリンガル礼拝メッセージ音声は、こちらから。。。
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主のすばらしさを味わい、これを見つめよ。幸いなことよ。彼に身を避ける者は。詩編34:8
Taste and see that the Lord is good. Oh, the joys of those who take refuge in Him! Ps.34:8
ダビデがアビメレクの前で気が狂っているふりをして、難を逃れた、その時のダビデの歌です。私たちは、どんな試練の中にあっても、安息に入ることができる。神の豊かさを味わうことができるのです。主に身を避けるなら。。。
ユダヤ人の安息日は、前もって料理をしておいて、安息日の日には料理はしません。けれども、皆が食卓について食べ物を分かち合い、楽しみます。
★安息は,肉体的感覚で喜びを味わう日です
創世記2:1-3 Genesis2:1-3
1 こうして、天と地とそのすべての万象が完成された。2 神は第七日目に、なさっていたわざの完成を告げられた。すなわち第七日目に、なさっていたすべてのわざを休まれた。3 神は第七日目を祝福し、この日を聖であるとされた。それは、その日に、神がなさっていたすべての創造のわざを休まれたからである。.
他の宗教や、キリスト教でも肉体は悪、霊は良いとされる傾向があり、肉体的な欲を取り除くことが、徳を積むようなそんな認識が広くあります。キリスト教の場合は、プラトン、アウグスティヌスに代表される二元論によって、肉体は悪。肉の欲は悪とされてしまいました。私たちの神様は、本当は逆だったのです。私たちの肉体を喜ばせることは、私たちの人間であることを祝うことです。安息とは、タッチ、におい、聞く、見る、そして何より味わうことを祝い楽しむ日です。
★食べ物
食べ物というのは、もっとも私たちを満たす楽しみ。Eating with fullest pleasure.
この楽しみの中に、私たちの感謝が込められています。私たちが作り出したものでない、食べ物は神様からの贈り物です。
エデンの園で、アダムはなんでも取って食べることができた。それは、実践的なレベルでの神様からの命令であり、またアダムの従順のあらわれでもあった。
食べ物というのは、ユダヤの文化の中心的なものとなった。食べ物は、信頼を表します。主の祈りでも、我らの日用の糧を今日も与えたまえ、といいますね。先週のメッセージのマナも、信頼が試されました。荒野を旅しているユダヤ人たちは、岩から自ら出る経験もしました。食べ物がない時に、信仰がなくてはならないのです。食べ物は、もう一度、神を信頼するかどうかをいつも問われるものであります。マナを荒野で自分のためにため込むことは、不信仰の現れでしたね。
何を食べるか、いつ、だれと食べるかということはまたとても重要です。
イエス様がこの地上に来られてからは、それが特に強調されました。イエス様は、また天からのパンであり、生ける水であられました。イエス様の存在は、食べ物に例えられました。そして、奇跡を通しても、神の与えるパンは、いつも十分であり、いつも余りあるほどである豊かさがあることが示されました。イエス様は、人々とともに食べました。ある時は、いつも罪人と食事をしていると責められました。
食べ物は、交わりを示しています。神の豊かさの中で、ともに食することに素晴らしい意味があるのです。
★美しさ
レビ23:3 Leviticus23:3 聖なる会合 Holy Convocation
六日間は仕事をしてもよい。しかし七日目は全き休みの安息、聖なる会合の日である。あなたがたは、いっさいの仕事をしてはならない。この日はあなたがたがどこに住んでいても主の安息日である。
食べ物は、交わりのためでもあるといいましたが、レビ記でも、安息日は聖なる会合の日であるとあります。人々が集う日であると。私たちは、聖なる会合に招かれています。
〇三位一体の関係に招待されている
安息とは、神の創造の神殿の中に入ることだと、先週話しましたが、そこには、ホストしてくれている方々がいるのです。それは、父、御子、御霊の三位が交わりながら存在体いる。その三位一体の神が私たちを、安息の神殿に招いていらっしゃるのです。
カール・バルトが次のように書いています。「三位の神は輝かしい、その輝きは喜びである。この喜びは人々を引き寄せ、また打ちのめすほどだ。ですから、この神の美しさ、すなわち、三位であられる神は、一つであるがそれぞれに異なっており、互いに関係をもち、完全な一致がある。その存在が美であり、また経済であり、その愛にあふれる三位の交わりは、まるでダンスのようだ。そのダンスが、美しさを放っている。」
神の美しさは、肉体的な感覚からも私たちに伝わるのです。ともに神の臨在の中で交わり、食事を共にするとき、私たちも神のダンスに参加し、神の美しさを体験するのです。
私たちの教会が毎週食事を共にする意図は、ここにあります。毎週、ケビンさんが心を込めて用意してくれていること、とても感謝しています。
私たちは、神の交わりの美しさから喜びを頂き、神の美しさは、私たちにさらなる願いを引き起こし、その願いは、神に対する畏敬の念に導いていきます。
★受肉のイエス様を受け取る
この私たちを安息に招く神は、私たちのように肉体をまとって、この地に来てくださいました。これは、大きな意味があります。神は、私たちの肉体を祝福されているのです。イエス様の美しさ、それは、受肉、誕生、奉仕、十字架、死、復活、復活、その命に触れる時、私たちはその美しさ故に、もっと知りたいという願い、それが欲しいという願いがおき、そして、主への畏敬の念にかれるのです。
このイエス様は、私を覚えてこれをしなさいと、パンを裂きました。イエス様を覚えてパンを食しぶどう酒を飲むときに、このイエス様と一つとなるのです。救いを得、そして、まことの魂の安息に入ることができます。
ヨハネ6:55-58
わたしの肉はまことの食物、わたしの血はまことの飲み物だからです。56 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、わたしのうちにとどまり、わたしも彼のうちにとどまります。57 生ける父がわたしを遣わし、わたしが父によって生きているように、わたしを食べる者も、わたしによって生きるのです。58 これは天から下って来たパンです。あなたがたの父祖たちが食べて死んだようなものではありません。このパンを食べる者は永遠に生きます。
共同体の食事とは、イエス様を食することであり、神の美に招かれているということです。
礼拝後。大好きなお兄ちゃんと遊ぶ子供たち。。。六時前まで教会で遊んでました。。。
2018年1月21日日曜日礼拝音声は、
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今日から新しいシリーズを始めていきたいと思います。それは、安息日、英語ではSabbath といいます。安息日について調べれば調べるほど、もし、神を信じているクリスチャンたちが、本当の意味で安息日を守るならば、この世の中は変わるだろうな。。。と思わされました。今日は、シリーズのイントロダクションとして基本的なことを話したいと思います。
★安息日のはじまり
安息日のはじまりは、この世のはじめ、天地創造の時からありました。私たちのイメージの安息日とは、きっと日曜日の感覚かもしれません。歴史の中で、人が休まずに働くと効率が悪くなると、宗教的な意味以外でも、日曜日が休みになったという背景があります。EX) Soviet Union; 1929 restructure the calendar, communal resting. ちなみに、ユダヤの世界では、金曜日日没から土曜日の日没まで。ろうそくをともして始まります。
創世記2:1-3 Genesis2:1-3
1 こうして、天と地とそのすべての万象が完成された。2 神は第七日目に、なさっていたわざの完成を告げられた。すなわち第七日目に、なさっていたすべてのわざを休まれた。3 神は第七日目を祝福し、この日を聖であるとされた。それは、その日に、神がなさっていたすべての創造のわざを休まれたからである。
★神は祝福され、休まれ、その日を聖であるとされた。
神は、創造の業をなさるときに、神に似せられた人間と7日目の安息日を祝福されました。人と安息には神の好意と守りがある。それが栄えるように神は祝したです。
神は、疲れたから休まれたのでしょうか? よく人間的な考えで、神は疲れたのだとか、いや神は疲れないから、人間に見本を示したのだとか言われますが、神は疲れたので休んだのではないのです。
全て、素晴らしく整えられた世の中をみて、ご自分に似せられた造られた素晴らしい人間たちを見て、それを楽しんでいたのです。何かをすることから手を留めて、過去六日日間、いや神様にとっては計画のはじめからの思いかもしれません、振り返り、ああ、よかった、と思いを巡らせていたのです。創造の御業を楽しんでいたのです。
神は、その日を聖とされました。神が創造されたもので聖とされたのは、安息だけです。聖とする、聖別するとは、どういう意味でしょうか?
それは、神のために取り分けるということです。お取り置きすることです。すなわち、他のものと分けること。分離することであります。ですから、他の六日間とは別にするということです。神が、聖なる日と定めたのはこの日だけです。
★時間Time is the heart of existence.
神は、七日には何も造られなかったのですから、何を聖いとしたかというと、一日、すなわち時間ですね。少し、時間について考えてみましょう。
人間の存在に意味を与える時間とはなんでしょうか。今の世の中は、エコノミーと時間が密接に関係している。タイムイズマニーでしょ?どれだけお金を稼ぐ能力があるかわかる、労働時間が、一番の価値をもつでしょうか?
エコノミーとくっついている時間の概念には、いつも時間は前へ前へ進んでいる。前に進むことしか概念にありません。しかし、立ち止まって、過去を振り返らなければ、感謝や教訓はうまれないのではないでしょうか。
時間は、人をコントロールしています。一日のスジュール、一か月、三カ月、半年、一年。。。人は、時間のコントロールから離れなければ、遊び、楽しみを得ることはできないのです。時間の感覚から解放されてはじめて、遊びの感覚が生まれるのです。
時間は生活にリズムを与える。習慣をもつ。人は、時間でリズムを作ります。中毒のリズムもあれば、宗教的なリズムもあります。。。時間の概念から離れなけれは、私たちに見えないものがある。
★ 安息は神の特徴 Sabbath is God’s Signature
安息は、神様からの贈り物です。私たちが稼いでもらったものではない。けれども、私たちは、休むために働くという感覚がある。旅行に行くまでに、これだけのことを済ませておかないと。。。などなど。。。最もなことです。この私も、時間を作らないと休めないという現状があります。このへんもどうしたらいいのか、一緒に考えていましょう。
安息は、週日のためにあるのではなく、人のためにあります。イエス様も言いましたね。安息日は、人のためにあると。。。。
安息は、神の祝福が宿る時間。すなわち、神がともにいらっしゃる神の臨在なのです。
安息は、聖なるもの。世の中の雑踏から切り離すものです。
安息は、楽しむことです。安息の特徴は、楽しみです。神の創造を見て、素晴らしい、神様と一緒に楽しむことです。
安息は、振り返ることです。リフレクション。今までの歩みを振り返り感謝することです。また、時には、涙するかも知れません。
他の旧約聖書の箇所では、
★旧約聖書の記述 In the Old Testament
出エジプト20:8-11 ザカー 覚えておく
8 安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。9 六日間、働いて、あなたのすべての仕事をしなければならない。10 しかし七日目は、あなたの神、主の安息日である。あなたはどんな仕事もしてはならない。—あなたも、あなたの息子、娘、それにあなたの男奴隷や女奴隷、家畜、また、あなたの町囲みの中にいる在留異国人も—11 それは主が六日のうちに、天と地と海、またそれらの中にいるすべてのものを造り、七日目に休まれたからである。それゆえ、主は安息日を祝福し、これを聖なるものと宣言された。
出エジプトでは、覚えておくことが強調されています。神が世界を創造された創世記に思いをはせて、創造のすばらしさ、神が楽しまれたように。。。また、人という人は皆、安息に招かれています。奴隷も外国人たちさえも。ですから、安息は、何も神を信じている者たちだけのものではないのです。みな招かれているのです。安息は、信じている人たちと信じていない人たちを線引きする日でないのです。
レビ23:3 Leviticus23:3
六日間は仕事をしてもよい。しかし七日目は全き休みの安息、聖なる会合の日である。あなたがたは、いっさいの仕事をしてはならない。この日はあなたがたがどこに住んでいても主の安息日である。
安息は、交わりとコミュニティーのための日であります。また、みなでともに楽しむ日です。
申命記5:1 Deuteronomy5:1 シャマー オブザーブ
1 さて、モーセはイスラエル人をみな呼び寄せて彼らに言った。聞きなさい。イスラエルよ。きょう、私があなたがたの耳に語るおきてと定めとを。これを学び、守り行いなさい。
モーセの出エジプトから、四十年たって、シナイ山で与えられた十戒を強調し、生活のリズムとして守り行うように。。。神が、奴隷の状態から解放してくれたのだから、なおさら安息を大切にするべきだという意味が込められている。
〇安息日は、神の民の特徴であり、神の特徴であります。神への感謝であり、神とともにあり、神と過ごす日です。
今日は、献児式で、子供たちを祝福し神様の御手と守りの中におゆだねし、お祈りしました。神様、本当に子供たちが元気に育っていること、感謝です。。。
アイオワから里帰り中だったちえちゃん、明後日、ルーマニアに発ちます。皆さんで、祝福と守りを祈りました。で、あ、写真撮ろうと思いついた時には、もう皆さんが帰られていました。。。がーーん
2018年1月14日日曜日礼拝 献児式 音声は、
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マルコ10:13-16
さて、イエスにさわっていただこうとして、人々が子どもたちを、みもとに連れて来た。ところが、弟子たちは彼らをしかった。14 イエスはそれをご覧になり、憤って、彼らに言われた。「子どもたちを、わたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような者たちのものです。15 まことに、あなたがたに告げます。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、入ることはできません。」16 そしてイエスは子どもたちを抱き、彼らの上に手を置いて祝福された。
今日は献児式でしたね。いつもなつこさんが子供たちをつれて日曜学校に朝来てくれていること、とても感謝です。そのおかげで、子供たちも霊的にずいぶんと成長しました。今日は、今年初めての教会員だけの礼拝です。年の初めにもふさわしいお話だと思います。
さて、イエス様の時代にも、ママやパパたちが優しいイエス様に一目あって、子供たちに合わせたいと思いました。イエス様が街に来たら、子供たちの祝福を祈ってもらおうと、押し寄せてきたのです。私たちは、みなその気持ち、親だったら分かります。この子が、無事に、良い子に育ち、幸せになって欲しいと願うからです。
ところが、弟子たちが彼らを叱りつけ、止めたのです。なぜでしょうか。
弟子たちは、マタイの福音書によると、この時、イエス様に誰が一番偉いかというようなことを聞いていたとあります。弟子たちの頭の中には、ヒエラルキーと地位、ボりティックスのことで頭がいっぱいだったのです。
聖書に、宴会の上座の話が出てきますが、弟子たちの頭の中では、宴会の上座にすわるような人が、イエス様に会う特権を持つべきだなどと考えていたのでしょう。こんな、すごいイエス様に真っ先に会うような人は、地位があり、力があり、富がある立派な人でないといけない。。。というような、だから、子供たちがやってきたとに叱りつけたのです。
イエス様は、どうでしょうか。憤られ、弟子たちを叱って言いました、
「子どもたちを、わたしのところに来させなさい。止めてはいけません。“Let the little children come to Me, and do not forbid them;
子供たちがイエス様に来るのを止めてはいけない。。。と、おっしゃいました。そして、続いて、「神の国は、このような者たちのものです。15 まことに、あなたがたに告げます。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、入ることはできません。」; for of such is the kingdom of God. 15 Assuredly, I say to you, whoever does not receive the kingdom of God as a little child will by no means enter it.”
なぜなら、この幼子のように天の御国を受け入れなければ、そこに入れないからです。むしろ、子供たちこそが、一番天の御国にふさわしいと宣言されたのです。
弟子たちの考えの真逆でした。
幼子とはどんなものたちのことでしょうか。
1、 素直に受け入れる者。プレゼントを受け取るのの天才! -- 恵みについて理解している
恵みとは、自分で稼いだものでないもの、自分にふさわしくない贈り物を受けること。恵みが分からな人には、休みがない。いつも物事を自分で解決しようと、疲れ果てる。
2、 親に頼らなければ生きていけない存在。 Dependent
幼子は、自分でイエス様のところに行けない存在です。誰かが連れて行かなければ。。。しかし、そんな人こそ、御国にふさわしいというのです。みなさん、四人の友達が連れてきた寝たきりの人、彼も、人にイエス様のところに連れてきてもらわなければ、イエス様に出会えなかったのです。そんな存在が、御国にふさわしいというのです。
3、 疑いがない = 恐れがない
子供たちには、疑いがありません。すなわち、怖れ知らずです。みてみて、こんな高いところから飛び降りれるよーなんてこともしょっちゅういいますよね。疑い恐れがないということは、信仰を持ちやすいということです。ママがいつも、キャッチしてくれる、パパが助けてくれると知っているから飛び込んでいけるんです。健康な証拠です。
4、 遊び上手、夢 喜びへ引き付けられる
遊び心、神様のうちにあることを皆さん、ご存知ですか。遊びの中に想像力があり、笑いがあり、休みがあり、喜びがあります。遊びについてのリサーチによると、職場で何時間かおきに休憩をとり、みんなで遊ぶと、会社全体の生産性が上がり、創造性があがり、また互いを裁いたり批判することがなくなりチームワークが良くなったというデータがあります。大人になると遊ぶことを忘れるのです。子供のころは、遊ぶのが仕事だった。。。私たちも遊ぶことを子供たちから習わないといけませんね。私たちの神様も遊び上手、創造力のある方です。。。
5、 地位や富のことなんて考えていない、むしろ気前がよい。
先ほどの弟子たちとは、正反対ですね。地位も富もないですが、そんなことも気にしていません。むしろ、子供たちというものは、気前のよいものです。先日、さくらちやんが、自分のポイントを使って、貴子先生が欲しかったものを、下の教会学校のご褒美のお店で買ってきてくれました!!! 涙が出るほど感動しました。。。子供たちは、とても気前がいいのです。自分の信頼する人好きな人に自分の宝物を簡単に全部あげたりする。
6、 知識がない
子供たちは、これから経験や知識をつんでいく存在。学問もしらない。字も読めない。よく、聖書をよく理解してから、神様のことを学んでから洗礼を受けると思う人がいますが、そうでないんですね。知識は、必要ないのです。救われるために必要なのは、信じることだけです。
神の国に入るには、子供のように受け入れるものが入れるのです。
今日おすすめしたいことが、あります。それは、幼子のように神様を求めること。それから、幼子を私のところに来させない、止めてはいけません、と言われるイエス様のように、私たちが教会に連れて来なければ、私たちが誘わなければ、決して教会に来ない人たちを誘うこと。
私たちが誘わないことで、幼子たちを止めないようにしましょう。
今一緒に祈りましょう。
ぼ
我が家はすぐそばに、皆さんがわいわい集まるシアトルセンターがあります。すごく寒かったので、外に出ずに、家の中から花火を眺めました。しかし、今年は音がすごい! ビルがもっと増えたせいなのか、花火の数が増えたのか。。。景気のいいことです。あけましておめでとうございます。
2017 年12月31日今年最後の主日礼拝音声はこちらから、
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ルカ17:11-19
11 そのころイエスはエルサレムに上られる途中、サマリヤとガリラヤの境を通られた。
12 ある村に入ると、十人のツァラアトに冒された人がイエスに出会った。彼らは遠く離れた所に立って、
13 声を張り上げて、「イエスさま、先生。どうぞあわれんでください」と言った。
14 イエスはこれを見て言われた。「行きなさい。そして自分を祭司に見せなさい。」彼らは行く途中できよめられた。
15 そのうちのひとりは、自分のいやされたことがわかると、大声で神をほめたたえながら引き返して来て、
16 イエスの足もとにひれ伏して感謝した。彼はサマリヤ人であった。
17 そこでイエスは言われた。「十人きよめられたのではないか。九人はどこにいるのか。
18 神をあがめるために戻って来た者は、この外国人のほかには、だれもいないのか。」
19 それからその人に言われた。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰が、あなたを直したのです。」
今日は、最後の礼拝です。神様に心からの礼拝を皆さんと一緒に捧げたいと思いました。毎年、感謝祭のころや、イースターのころに、I-5にかかっている陸橋から、Jesus Loves You. という看板を掲げている人たちをみます。トラフィックに手を振っています。Jesus Loves You 。こないだのクリスマスの時には、さすがに風吹で、いなかったな。。。などと考えていました。
イエス様は、私たちを愛しておられます。信じますか。
人間というものは、本当に愚かなもので、心を鈍らせ易いものです。おいしいものでも、毎日食べると飽きてきたりします。初めて感動した味が薄れ、心が麻痺します。ある人に親切にされて、初めはとても感動しても、親切にされ続けるとそれを疎ましく感じたりします。
私の主人はいつも優しいのですが、それが当たり前になっていることがあるな。とつい昨日、思いました。しかし、私の主人は、毎日何回も私に感謝を表してくれます。とても気分がいいです。当たり前になって、私は、感謝を忘れてしまいます。そのようなことが夫婦、友人の間でもあるのではないでしょうか。。。。どんなに親が私たちを愛しているか、小さいときから当たり前に受けていた愛ですから、疎ましく思うことは、若い人たちに良くあります。
このJesus Loves You の看板がまさにそうです。今年は、見なかったので、寂しかったです。。。
私たちにとっては、今となっては、その言葉は、当たり前のことで、クリスチャン生活の日常にあふれていることです。しかし、人生に迷ったとき、この言葉にしがみついて、救われたのです。この言葉で、私は、世界の見方がかわり、人生が180度変わり、家族みんなの人生が変えられました。そして、落ち込んだとき、失敗したとき、この言葉が私を立て直したのです。
今年は、この礼拝をもって一年が終わりますが、私たちには、感謝をささげるべきお方がいます。そして、感謝をし続けるライフスタイルの中に私たちはすでに入れられているのです。
ルカの17章11-19節を読みましょう。この箇所からいろいろなメッセージが語られますが、今日は一点のみ。10人らい病の人たちがいて、普段は、町を歩くときに、「私は、汚れている」と叫びながら歩かなければならなかった人たちが、イエス様をみつけるなり、「主よ、憐れんでください」と叫びにかわりました。彼らはJesus Loves You の真理、いけるみ言葉にいわばしがみついたのです。
イエス様は、10人とも癒された。当時祭司にみてもらうというのは、病気だった人がもう病気でないと祭司に認めてもらって宣言してもらうため。すなわち、もう癒されたよとイエス様は言っている。
10人は、嬉しかっただろう、何年も隔離されていたから、会いたい家族、子ども、恋人、友達がいただろう、その人たちに早く癒された自分を見せたかったろう。誰もが、急いで走っていた。しかし、一人だけ、ユーターンした人がいた。
15 そのうちのひとりは、自分のいやされたことがわかると、大声で神をほめたたえながら引き返して来て、
16 イエスの足もとにひれ伏して感謝した。
サマリヤ人だけがイエス様のところに戻って、感謝を表した。
サマリヤ人が感謝をして、いやされたことを神の栄光に帰した。私たちが、イエス様とのであいによって、受けた恵みをどこまでも神の栄光として、表すところに世の宗教との違い、ご利益宗教との違いがある。ご利益宗教とは、自分にとってよい見返りがくることのみに集中していて、私たちが信じていること、や対象はあまり問題でない。自分に良いことが来ればいいだけ。
しかし、イエスを信じるものは、イエス様に全ての栄光を返すべきである。これがキリスト教信仰であり、これが礼拝である。
そして、この礼拝の心を持っている人は、強い。どんな試練の中でもゆるがされない。倒されない。それは、この素晴らしい神様がいつも私とともにいると信じているから。
そして、そのサマリヤ人に、イエス様は、聞いた。17 そこでイエスは言われた。「十人きよめられたのではないか。九人はどこにいるのか。18 神をあがめるために戻って来た者は、この外国人のほかには、だれもいないのか。」
イエス様は、他に感謝するべき人たちがいないのか? と聞かれた。
そして、19 それからその人に言われた。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰が、あなたを直したのです。」
イエス様は、サマリヤ人に信仰があると認められた。イエス様は、残りの9人のユダヤ人たちにも信仰を見たかった。認めたかったであろう。その信仰とは、自分が良くなることだけに集中するのではなく、神様というお方に焦点をあてるということ。実際に、ユーターンして、イエス様の足元にひれ伏し、感謝をし、関係を結ぶ。こと。
私たちは、あまり個人的に良く知らない人からプレゼントをもらって、そのままにしておくと、関係は結ばれませんが、その人にお礼を言って電話をしたり合いに行くと関係が結ばれます。ワールドビジョンの里親制度でも、クリスマスになると、いつも子供たちの写真と手紙が送られて来ましたし、そのことによってさらに絆が深まるりました。
イエス様は、私たちを喜んで癒したいと願っています。そして、それ以上に、関係が結ばれ、関係が始まることを願っておられます。
信仰は、主に栄光を返してこそ完成します。主に近づくものは、信じるものに報いてくださることを信じなければならない。とありますから、報いられたら、ますます主に近づくものなのです。
信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。 (ヘブル11:6)But without faith it is impossible to please Him, for he who comes to God must believe that He is, and that He is a rewarder of those who diligently seek Him. (Hebrews 11:6)
今、主に近づき感謝を捧げましょう!
土曜日は、教会のファミリークリスマスでした。皆さん、楽しくわきあいあい。ゲームやクッキー飾りを楽しみました。
教会員有志による、特別賛美
2017年12月17日日曜日礼拝メッセージ音声は、
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クリスマスのお話し https://www.youtube.com/watch?v=JyVXIvdTF20
クリスマスのお話しをご存じない方は、こちらをご参照ください。
クリスマスのために、イエス様のお誕生のために用いられた人たちは誰でしょう。マリヤ、ヨセフ、羊飼い、エリザベツなどなど、いろいろといますが、皆さん共通の特徴があります。それは、神様を受け入れる態度です。マリヤのお話しを見てみましょう。
ルカ一章26-38
ところで、その六か月目に、御使いガブリエルが、神から遣わされてガリラヤのナザレという町のひとりの処女のところに来た。27 この処女は、ダビデの家系のヨセフという人のいいなずけで、名をマリヤといった。28 御使いは、入って来ると、マリヤに言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます。」29 しかし、マリヤはこのことばに、ひどくとまどって、これはいったい何のあいさつかと考え込んだ。30 すると御使いが言った。「こわがることはない。マリヤ。あなたは神から恵みを受けたのです。31 ご覧なさい。あなたはみごもって、男の子を産みます。名をイエスとつけなさい。32 その子はすぐれた者となり、いと高き方の子と呼ばれます。また、神である主は彼にその父ダビデの王位をお与えになります。33 彼はとこしえにヤコブの家を治め、その国は終わることがありません。」34 そこで、マリヤは御使いに言った。「どうしてそのようなことになりえましょう。私はまだ男の人を知りませんのに。」35 御使いは答えて言った。「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる者は、聖なる者、神の子と呼ばれます。36 ご覧なさい。あなたの親類のエリサベツも、あの年になって男の子を宿しています。不妊の女といわれていた人なのに、今はもう六か月です。37 神にとって不可能なことは一つもありません。」38 マリヤは言った。「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」こうして御使いは彼女から去って行った。
★ 神の道と人の道は違う God’s ways are not human’s ways.
待ちに待った救い主の訪れは、こっそり、ある人たちに伝えられました。しかも、有名な人でもなく、権力を持つ人でもなく、普通の人たちのところに来ました。王様や、宗教学者のところに行ったらいっぺんで広まるけれど、神様のやり方は違ったのです。
人は、外見を見るけれども、神様は心を見られるとⅠサムエルにもある通りです。皆さん、よく覚えておきましょう。神の道と私たちの道は違うのです。
「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの道は、あなたがたの道と異なるからだ。 ・・主の御告げ。・・ 天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。」 旧約聖書 イザヤ書55章8~9節
“For My thoughts are not your thoughts, Nor are your ways My ways,” says the Lord. 9 “For as the heavens are higher than the earth, So are My ways higher than your ways, And My thoughts than your thoughts.
★恐れるな Do not be afraid.
けれども、その神様の良い知らせのために選ばれた普通の人たちは、戸惑いました。
神に選ばれた者たちに、等しく天使が言った言葉がある。それは、「恐れるな」です。
天使が言っていることは、信じがたいことであった。それは、自分の人生を大いに揺るがすことであったし、自分の力ではどうしても何も解決できるような種類のものでもなかった。
しかし、神は、「恐れるな」と天使に言わせた。
恐れの反対は? そう、信仰ですよね。恐れと信仰の間に距離がありました。それは、信仰をとれば、自分の人生を大きく変えるからです。
マリヤは、シングルマザーにならなければならなかったかもしれませんし、また、人に見つかれば、石打ちの刑で死んでいたかも知れません。信仰には、代価が伴うのです。
しかし、天使は、念押しの言葉を言っていますね。「神には、不可能なことはない。」と。
信仰には、自分の側のコスト、代価と、神の後押しの力が必要です。神には不可能なことはないと信じることが、信仰の本質であり、神はその信仰には必ず報いて下さいます。
★信仰はリスクを伴う Faith requires risk
〇アブラハムのお話Abraham’s case。。。。賜物セミナーでも出てきたお話しですね。
アブラハムは、やっと与えられた一人子を神にささげるように言われ、朝早く、その子イサクを連れて山に登りました。アブラハムはすでに神様と深い信頼関係がありました。二つ返事でした。あなたなら、どうしたでしょうか。大切な一人子を神にささげることができるでしょうか。子供を手放したり、誰かにあげたりすることなど、考えられるでしょうか。まして、この場合は、ほふって捧げるという意味だったのです。アブラハムは、神にはどんなことでもできる、ここだけは、分かっていました。神の約束、イサクから出てくる祝福の約束だって堅く信じていたのです。アブラハムは、自己の葛藤よりも、神の言葉を選びました。
神に言われたことをそのまま、受け入れることは、神を受け入れることでもある。
神をそのままで受け入れたのです。
彼が、子供を殺そうと手をかけようとした瞬間に、神がもうよい、分かった。と声をかけました。
そこには、捧げるのに完璧な動物が神によって備えらていました。神は、私たちの心を見ていらっしゃる。私たちが本来捧げるべきコストさえ、いけにえさえ、贖われるのです。
マリアも、ヨセフもその局面に立ちました。そして、神を取りました。
信仰を取るというときには、必ずしも、やさしいことばかりではありません、難しいことだってあります。しかし、いつも神は、喜んで神を心にお迎えする人の見方であります。
神は、子供のように素直な心で神を迎える人を探していらっしゃいます。あなたも、選ばれている者です。あなたは、神とともに生きる人生を恐れますか。それとも、何があっても、なんでもおできになる神を信頼しますか。神の言葉を受けとりますか。
★神の言葉を受け入れる姿勢 The posture that accept God’s word
「お言葉どおりに、この身になりますように」38 Then Mary said, “Behold the maidservant of the Lord! Let it be to me according to your word.” And the angel departed from her.とマリヤのように受け取りますか。
神は、子供のように、素直に、神をお迎えるする人を探しています。
★ぼくのところに来てください Please come to my place, Jesus!
次のお話は、私が若い時に、クリスチャン新聞か何かに乗っていて、ひどく感動したお話しです。クリスマスのお話しです。教会の降誕劇で、障害をもつ男の子が宿屋の役をもらいました。何度も練習して、セリフを覚えました。「すみませんねー、うちもいっぱんなんですよー。よそに行ってください。」本番が来ました。
イエス様がどんどん断られる。。。
最後の宿屋さん、断る、そして、馬小屋に。。が普通のお話だけど、。。。「いやーうちにもないのです。。。他に行ってください」と、マリアとヨセフが通り過ぎようとしたとき。。。
「イエス様、行かないで、ぼくのお家に泊まってください。」と泣き出した。
劇は、台無しになったどころか、みんなが神様を心にむかえる温かいクリスマスになりました。
〇選ばれたものとなるには、神を受け入れなければなれません。
イエス様は、王だけど、お生まれになる日に泊まるところがなかった。けれども、あなたを選んで、心に住み、あなたと一緒に神様の働きをしようと思っています。「ぼくのところに来てください。」の心で、神様の選びを受け取りませんか。
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