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ロマ12章③ キリスト者の生き方 ⅰ

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木曜日のママと子供たちの集い、... 木曜日のママと子供たちの集い、ロバの子クラスにて。J くんはこんなにも大きくなりました。今、いやいや期真っ最中で、面白いです。。。 日曜日の礼拝後、お仕事のように... 日曜日の礼拝後、お仕事のように、礼拝メッセージ、ワーシップリードの練習をするちびっ子たち。よし、そのまま育って将来、ついでくれよ! (笑) 礼拝の後、車を走らせて20分、... 礼拝の後、車を走らせて20分、友人のおうちで、スーパーボール観戦。男性陣は、一階の大きなテレビで満喫。奥さんたちは、二階のダイニングでスナックを食べながらおしゃべり。えーーーー。ファルコンズいつの間に負けちゃったのー!! という結果に。。。。
2017年2月5日日曜日礼拝バイリンガルメッセージ



ロマ12:9-21

12:9愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善に親しみなさい。 12:10兄弟愛をもって心から互いに愛し合い、尊敬をもって互いに人を自分よりまさっていると思いなさい。 12:11勤勉で怠らず、霊に燃え、主に仕えなさい。 12:12望みを抱いて喜び、患難に耐え、絶えず祈りに励みなさい。 12:13聖徒の入用に協力し、旅人をもてなしなさい。

続けてロマ12章を読んでいますが。先週の真のコミュニティであるキリストの身体、キリストの共同体を受けて、今週は、その共同体のあり方、キリスト者の生き方について語られています。

パウロは、冒頭第一声、
12:9愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善に親しみなさい。Love must be without hypocrisy. Abhor what is evil, cling to what is good. と言っています。
今日の箇所全体のテーマが、「愛」となっています。「愛するということはどういうことだろうか。」ということを皆さんで考えてみたいと思います。どうぞ、黙想しながら一緒に聖書を開いてみましょう。

★ アガペーの愛 Love of Agape

12:9愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善に親しみなさい。. 9 Love must be without hypocrisy. Abhor what is evil, cling to what is goodパウロは、キリストの身体の第一は、アガペーの愛。すなわち、神の愛、一方通行の見返りを求めない愛。キリストの愛。となっています。キリストの身体の愛というのは、混じりけのない、偽善と偽りのない愛、であるのだというのです。そもそも、キリストがご自分の全身全霊をかけて十字架の死を経験されたから、救いがもたらされ教会ができたのです。私たちは、キリストの混じりけのない愛の産物であるからです。

★ 主を畏れる Fear of the Lord

続いて、悪を憎み、善に親しみなさい。キリスト者の基本の資質というのは、「主を畏れる」姿勢です。主を畏れる姿勢とは、神を信じる私たちが、神の愛していることをとことん愛し、神の憎まれることをとことん憎むことであります。その感覚を失うことは、塩が塩気を失うことであり、また、灯台が光を失うことであります。

★ フィレオーの愛 友愛 Love of Philadelphia

12:10兄弟愛をもって心から互いに愛し合い、尊敬をもって互いに人を自分よりまさっていると思いなさい。10 Be devoted to one another with mutual love, showing eagerness in honoring one another.

キリストの身体の中では、互いに愛し合う、兄弟愛を持ちなさい。そして、そのカギは、英語では、熱心に互いにオナーしなさいとあります。私たちがよくする、アフォーメーションです。互いにほめあい、良いところを見出すこと。この精神があれば、分裂や仲間割れなどすることがないのです。いつも、祈りの中ででも、あの人に良い言葉を上げるとしたら。。。という風に祈ることもおすすめです。すると、神様から超自然的にその人の好い所や、預言の言葉が与えられます。パウロは、熱心に周りの人をオナーしなさいと言っています。

★ 聖霊に満たされる Be filled with the Spirit

12:11勤勉で怠らず、霊に燃え、主に仕えなさい。Do not lag in zeal, be enthusiastic in spirit, serve the Lord.

熱心になることを後回しにせず、霊に燃えて、神に仕えなさいとあります。私たちは、以前も話しましたが、自分の思いだけで熱心になることはできます。しかし、神の霊に満たされてなければただの肉の働きとなり、空回りたり、物事が裏目に出たりするものです。第一に、聖霊に満たされることを求めましょう。聖霊様は、歓迎されるところにおいでになります。ご自分が歓迎されていないと思うと、すーーと静かに去られます。私たちの心が開いていないのに、聖霊に満たされることはできません。私たちの心が高慢でも満たされることはできません。聖霊に満たされることを求めて、私たちが失敗することはありません。満たされ続けるように、求めること。ここから主に使える原動力が来ます。
勤勉さ、また本当の熱心さというのは、聖霊様への従順からくるものです。聖霊様を求め続けましょう。

★ 希望 Hope

12:12望みを抱いて喜び、患難に耐え、絶えず祈りに励みなさい。Rejoice in hope, endure in suffering, persist in prayer.

希望というのは、患難と切り離せません。また喜びも患難と切り離すことができません。希望とは、やがて来る良きことに思いをはせることであり、自分の苦しみにしっかりと向き合わなければ、決して持つことができません。本当に自分を神が愛するように愛するのならば、苦しみ、あるいは、自分の弱さにも向き合います。自分を愛さないならば、ほかのことで忙しくて向き合うことをしません。その場合には、希望を持つことはないでしょう。

キリストは、ご自分前に置かれた喜びの故に十字架の苦しみをもろともしなかったと聖書にあります。喜びというのは、このように、苦しみがあるから、努力があるから、失敗があってこそ、与えられるものなのです。みなさん、創造のはじめ、エデンで、アダムは何をしたのでしょうか。何もせずに毎日ぶらぶらして、ただで木の実を食べて、だらだらしていたのでしょうか。違います。神様は、彼に、すべての被造物に名前を付けることを命じられました。これは、大変な仕事です。ある意味、神との共同創造でありました。一つ一つのものに、アイデンティティを与えて行ったのです。仕事が任されているから、生きがいがあり、喜びがありました。

あなたの神様からの目的は何でしょうか。召命は何でしょうか。ぜひ、神様に祈り、求め、聞いてみてください。あなたの喜びは、従うごとにうんと増し加わることでしょう。また神の召命に生きることは、神に私たちをますます近づけます。
「絶えず祈りに励みなさい」とあるように、祈らざるを得ないのです。アダムが神と共同創造人となったように、私たちも召命に生きるときに、神の同労者となるからです。

★ ホスピタリティ Hospitality

12:13聖徒の入用に協力し、旅人をもてなしなさい。Contribute to the needs of the saints, pursue hospitality.

キリスト教の特徴は、ホスピタリティにあるといえます。私たちの神は、良い人にも悪い人にも平等に雨を降らせる方。イエス様が浜辺で、弟子たちのために朝食を作って待ってたシーン。ヨハネ21章。また、イエス様は、貧しい人たちに施した人に対して、感謝を表し、「この最も小さいものにしたことは、私にしたのです」と言われました。それほどに、ホスピタプル、他人に気前よくもてなすことをイエス様は、神様の心として示しておられました。聖徒の入用に協力し、旅人をもてなす。私たちも金曜日にともに祈りましたが、私たちの周りにも、必要のある方々がおられます。もてなしの心を忘れずにしたいものです。


今日は、途中ですが、ここで区切りたいと思います。また続きは、さ来週。
#キリスト教 #クリスチャン #信仰 #教会 #礼拝 #聖書

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ロマ書12章 ②心の一新とキリストの体-- Vulnerability

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礼拝後の風景。。。子供たちは思... 礼拝後の風景。。。子供たちは思い思いに遊んでいます かわいいちゃんは、飛行機を作る... かわいいちゃんは、飛行機を作るのがお気に入りのようです。
Jan. 29, 2017
音声は、


ロマ書 12:1-8

そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。2 この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分(たち)を変えなさい。3 私は、自分に与えられた恵みによって、あなたがたひとりひとりに言います。だれでも、思うべき限度を越えて思い上がってはいけません。いや、むしろ、神がおのおのに分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなさい。4 一つのからだには多くの器官があって、すべての器官が同じ働きはしないのと同じように、5 大ぜいいる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、ひとりひとり互いに器官なのです。6 私たちは、与えられた恵みに従って、異なった賜物を持っているので、もしそれが預言であれば、その信仰に応じて預言しなさい。7 奉仕であれば奉仕し、教える人であれば教えなさい。8 勧めをする人であれば勧め、分け与える人は惜しまずに分け与え、指導する人は熱心に指導し、慈善を行う人は喜んでそれをしなさい。
先々週、心の一新について黙想しましょうということで終わりましたが、この二週間考えてくださったでしょうか。

★ 心の一新 私たちの考えが変わるとき

私たちの考えが変わる時とは、どのようなときでしょうか。失敗は最大の教師とも言いますが、私たちが自分のしでかした悪いことに気が付くとき、痛く反省し、もう二度とするまいと肝に命じる時ではないでしょうか。第一に悔い改めによって、私たちの考えが変わります。もちろん神の前に悔い改めるわけですから、悔い改めたのちの行動は、神のみこころに沿った、神に喜ばれるものであります。

★ あなた方の考えとギリシャ語では複数になっている。

このロマ書12:2 のrenewing your mind のユアは、ギリシャ語では、二人称のあなたではなく、あなた方すべての考えという風になっています。どういうことでしょうか。そして、その後、すぐに、一人ひとりはキリストの身体の一員であるということが書かれています。誰でもキリストを信じる者は、一つの身体であり、一つの共同体に属するものとなっているのです。さて、一人ひとりが存分にその賜物らしく発揮するには、まず、その考えが刷新されないといけない、そして謙遜さだというのです。

★ The first community 世界ではじめの共同体

私たちは、共同体の中で生きるようにデザインされています。私たちを造られた神も三位一体の神であり、共同体の神であります。神は、われわれを神の似姿に、女と男に造られました。男女で共同体として神のイメージです。 人間が堕落する前は、その神と人間のコミュニティに、親密さがあり、connectedness, openness, joy, no hidden message, everything was in the light. There is freedom, excitement. Creativity がありました。

創世記Gen 2:25 The man and his wife were both naked, but they were not ashamed. アダムとエバは裸であったが恥ずかしくなかった (no shame in nakedness, vulnerability) と書かれてあります。裸という最もボルナボルな状態でありなが、そこに恥がなかったのです。

★ We are made to be known 私たちは誰かに知られるために造られた

To know =love  知る=愛する

聖書は、アダムがイブを知ったと書いてありますが、これは、最も深いレベルで個人を知ったすなわち、性交渉をしたという意味です。
知ること、知られることが愛し愛されることであるというのは、実に聖書的であり、また脳科学的にも言えることであります。

人に知られることを拒むようになることは、人間として大変な問題です。自分の周りに壁を作ることであり、自分で自分を孤立させ、そして、共同体から分離するものです。

「知ろうとすることは、愛することです。」先学期、エピストモロジーというのを少しだけやりましたが、ミーク博士が言うには、「愛はすべての中心にある。」Love is core of everything. To know is to love.

もし、大切な友達とミスコミュニケーションがあったら、なんとか話をして解決しようとします。しかし、普段から嫌いな人には私たちは決してそうしないのです。本当はどう思ってるなんて、知るのが怖い。知りたくもない。のです。知ることは、愛することです。
私たちの脳も、誰かに知られるために造られています。自分が知るだけではなくです。また、何かを知るから自分を知るようにもできています。生まれたときから、母の脳と赤ちゃんの脳は見えない線でつながっています。絶えず、交信し、共鳴することによって、赤ちゃんの心拍数や体温が守られます。また、母親が、自分が泣いている時に、かわいそうにという泣き顔をして、笑っていると笑ってくれる、こういった感情と表情のやり取りからも子供たちは、相手を思いやる能力を育てます。こういった一連の当たり前の触れ合いがなかった子は、精神的な病気になってしまうか、身体的な障害さえもおってしまいます。

私たちの脳は、絶えず、愛と好奇心で接せられ、知られる=愛されるためにデザインされています。

Let’s go back to Genesis 3.

★ Shame destroys the community 恥が共同体を壊す

創世記3:7-13 the fall

罪が入り、恥が入った。二人は、裸であることに気が付き、身をイチジクの葉で隠した。隠れたくなった。
恥は、私たちを引きこもらせる。私たちの脳もそうする。 私たちの脳も、右と左が行き来しなくなり、あらゆる指令を出すはずが偏って出す、あるいは、ほかの情報とつなげる、またデータを探すなどということを一切しなくなるのです。脳というのは、恥によって、機能をシャットダウンされてしまうのです。

Shame = I am wrong.

恥が入ったアダムとエバは、神から身を隠した。知られたくなくなった。コミュニケーションを断った。またそれだけではなく、互いに対しても心を閉ざした。この人のせいだ。もう、一体、一つ心ではなくなった。恥は、私たちに孤立と断絶をもたらす。
「恥」がキリストの身体の中に一番の問題であるといえます。ロマ12:2 だからこそ、互いにへりくだって。ディフェンシブにならずに、とあるのです。

★ What we lost is vulnerability 共同体回復に必要なものは、vulnerability

イエス様は赤ちゃんになって生まれて来てくださった、その意味。たくさんのケアがいる。人の助けがなければ生きていけないような状態でこの世に来てくださった。また、イエス様は、死ぬ時も、真っ裸でたくさんのむち打ちの傷だらけのよれよれになってしまった裸を人前にさらしながら死なれました。本当なら、とても恥ずかしい。見られたくない。 ここに、私たちにとって深い意味があります。イエス様は、私たちにも、vulnerable であることは、Insecure であることではないとおっしゃっているようです。私たちにも招いておられるようです。

★ Renew Your mind…. Integration needed, getting rid of the shame
     心の一新のために恥を除く

私たちの脳が書き換えられことができます。恥によって、詰まっているところを直すことができます。ただし、一人ではできません。あなたの恥の話を誰かに心からの関心と共感をもって親身になって聞いてもらえた時に、あなたの脳の回路は変わっていくのです。そして、あなたの話し事態も変わり、もはや、自分を孤立させたり、心を閉ざしたりしなくてもよくなるのです。

今、さあ、恥について話しましょうとすすめているのではありません。
心を開く準備をしましょう。
あなたにとって、誰かを知るとは、誰かに知られるとはどういう意味でしょうか。
どうして、心を開くことが難しいのでしょうか。そこから始めましょう。



#キリスト教 #クリスチャン #信仰 #教会 #礼拝 #聖書

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ロマ12章①生きた供え物としてAs a living sacrifice

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英語の礼拝。。 I AM はシ... 英語の礼拝。。 I AM はシアトルの山々をイメージして塗り替えられました。今日の礼拝で、一人一人の冠をイエス様の足元に置きました。
2017年1月15日日曜日礼拝メッセージ


先週は、ロマ書11章から、神の憐れみということでお話ししました。ユダヤ人にしても、私たち異邦人にしても、神の計り知れない知恵と愛と憐れみによって、私たちは、救いに導かれている。神の備えられた召命に生かされているということを話しましたね。今週は、「そういうわけですから、だから」こういう風に生きてくださいね。とパウロは、キリスト者のあるべき姿について語っています。これは、この章にとどまらず、15章最後まで続きます。

★生きた供え物

ロマ12:1,2
そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。2 この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。I beseech you therefore, brethren, by the mercies of God, that you present your bodies a living sacrifice, holy, acceptable to God, which is your reasonable service. 2 And do not be conformed to this world, but be transformed by the renewing of your mind, that you may prove what is that good and acceptable and perfect will of God.

今や、動物の捧げ物もいらない、たった一度、私たちの救い主が私たちの罪のために自らを供え物となってくださったのですから。私たちの礼拝というのは、宮で動物を捧げることではなくなりました。そして、救い主を待ち続ける生活ではなく、救われた生活に変えられたのです。私たちの礼拝とはどうあるべきでしょうか。

◎ 神に受け入れられる、聖い、生きた供え物

旧約の時代には、しみもきずもない、完璧な動物を捧げなければなりませんでした。そして、それをほふって神に捧げました。今は、しみも傷もないイエス様がほふられたので、あなた、私は、このままで、聖く、完璧な捧げ物となりました。
私の体験談…

◎ 礼拝に含まれる意味とは
・伏し拝む。。。ひれ伏して拝むことです。
・Service =主に対する奉仕である。英語では、礼拝は、Service といいます。

礼拝とは、主を拝み、主に仕えることです。パウロは、生きた供え物として神に自分を捧げる生き方をしなさい、と言っています。つまり、24時間週7日すべて神様のものとして生きたままの自分を差し出しなさいというものです。そうです、もはや、自分の罪のためにいろいろとしなくても良くなったのです。自由に神に直接お仕えしたらいいのです!

礼拝は、「受ける」ものではなく、「捧げる」ものである。

◎ 霊的な礼拝

霊的な礼拝という言葉がありますが、英語ではyour reasonable service となっています。理にかなっている、ふさわしい礼拝というのです。また、当然の礼拝とも訳すことができます。

すなわち、旧約の時代には、細かいルールが詳しく決められていて、聖なる神に肉である私たちが礼拝するのに、非常に手間がかかりました。そして、少しでも間違って礼拝をおこなうことは許されていません。傷のある動物は、捧げられないし、祭司たちは、きちっと身を清めてからでないと奉仕はできないし、奥の聖所には、年に一度、選ばれた一人の祭司しか入ることはできないですし、神様に仕えるということは大事でした。理に適う、ということは、非常に労力のいることでした。また、理にかなっていなければ、神に受け入れられる礼拝とはなりませんでした。

また、これは、霊的な礼拝である。とパウロは語っています。私たちが新約の礼拝に移ったのは、霊的な変革があったからです。

イエス様の十字架に継ぎ合わされ、自分の罪がイエス様の十字架に一緒にかかり、罪赦され、そして、天国に行ける約束をもらい、そして、永遠の命を神からいただき、神の子として養子縁組されたのです。これらすべて、地上の書類の手続きではなく、目に見えない、霊的な世界で行われたのです。私たちは、滅びの子から神の子に霊的に変革したのです。

そして、霊的な礼拝というのは、生きながらにして、自らの存在、行動すべてを神の前に捧げるということである。というのです。

礼拝というのは、もはや、宮で罪ための贖いの捧げ物をすることでもなく、日曜日の数時間教会に行くことではないのです。あなたの存在自体が礼拝なのです。

自覚して生活したいですね。

続いて二節をもう一度見てみましょう。

ローマ12:2 この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。 2 And do not be conformed to this world, but be transformed by the renewing of your mind, that you may prove what is that good and acceptable and perfect will of God.
① 頭につながることの土台として
パウロは、三節以降からキリストの身体としてどうあるべきかと語りだしますが、キリストの身体であるまず第一の基盤として、この二節があるわけです。

◎ この世と調子を合わせてはいけません

この意味は、現代的な文化的なことをしてはいけないということではありません。テレビを持つなとも、車を持つなということでもないです。to conform one's self (i.e. one's mind and character) to another's pattern.
この世の考え方、性質、心の問題です、心の中が感化されないようにと注意をしています。

よく、この世のやり方を教会に持ち込もうとすることがありますが、よく吟味する必要があります。この世は、マモン、富を中心化に物事を考えています。教会は、愛です。世のやり方を持ち込んだことによって、世の考え方が教会に入り込むことがあります。

Ex) Seeker sensitive movement

具体的に。。。私たちが、世の影響を受けるのではなく、世に影響を与える。身近なところでは。。嘘をつかない、不正をしない。悪口を言わない。偶像礼拝をしない、などと言うことからも、職場や家族から一目置かれるはずです。聖書に従う、イエス様に従うならば、必ず、世の光、地の塩となるのです。

◎ 何が良いことで、神の御心か

興味深いことに、12:1,2 は、これまでのロマ書の集約のように感じますね。私たちは、以前6、7章で、神様をよろこばせるために、何をしたらいいか、良かれと思いすることがことごとく裏目にでるようなことがある。自己義というものが邪魔をしているという話をしましたね。
私たちの生まれながらの肉の人には、神様の御心は理解できないのです。
そこで、肉に従えば、世の方が理解しやすので、世に流され、世に心を売ってしまうようになるのです。ですから、パウロは、続いてこういっています。

◎ 心の一新によって自分を変えなさい

Renewing your mindと、英語では書かれています。自分の頭の、考えのフィルターが何に影響されているか知る必要があります。
私たちは、考えが変わったことがあるでしょうか? 皆さん、いろいろな経験があると思います。一番変わったのは、もちろん、イエス様に出会ったときでしょう。救われた時、ものの見方が変わり、世の中にあるものがすべてキラキラして見えたものでした。
一番私たちの考えを変える瞬間というのは、自分が間違っていたと気が付いた時ではないでしょうか。そして、大反省して、二度と同じ間違いはしない、と心に誓うようなとき。。。
そういうことがあれば、行動も違ってきますよね。
考えが一新したのです。
「悔い改め」が、私たちの考えを一新します。

私の体験) 最近のリサーチの経験

私は、体験を通して、み言葉が私の心に突き刺さり、イエス様の生き方が心に突き刺さりました。古い生き方、考え方を捨て、み言葉の真理、イエス様の真理に従うときに、私たちの考えは一新されるのです。

考えが一新されるなら、それは、神の御心に従っているのですから、何が神の御心であるのかと迷う必要はないのです。

ロマ書12章1節、2節は、今までのお話しの集約のようであり、そして、三節から15章の終わりまで、クリスチャンの生き方について語っています。12章は、「神のデザインの通りに仕える」、「偽りのない愛が奉仕の鍵となる」というお話しが続いて行きます。
キリストの身体、愛ということになりますが、頭であるキリストに繋がるためには、どうしても個々人の心の一新が必要なのです。




#キリスト教 #クリスチャン #信仰 #教会 #礼拝 #聖書

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ローマ11章 神の憐れみ

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小さくて見えにくいですが、空に... 小さくて見えにくいですが、空に、飛行機が12の旗を羽ばたかせていました。土曜日は、シーホークスの試合でしたー。もちろん! 勝ちましたーーー。がんばれーシーホークス!!! スーパーボール行こう! チェリーちゃん、英語の教会学校... チェリーちゃん、英語の教会学校で頑張ったので、景品をもらいました。手の形のくっつく、ぴよんびよんするやつです。二つの手が重なると、欠かさず「ないすちゅーみーちゅー」というのが、かわいくて。。。思わずパチリ。。。礼拝後の風景でしたーーー。

2017年1月8日日曜日礼拝

前回、ずいぶん前になりますが、ローマ10章では、「伝統から確信へ」という題で、イスラエル人がいかに伝統にこだわるのではなく、確信が無くては救われない。ということを話しました。今週も引き続き、パウロは、イスラエルの救いについて話しています。
この章を一言で言い表せば、ロマ11:29に集約されているといえます。

V29 神の賜物と召命とは変わることがありません。For the gifts and the calling of God are irrevocable.

これは、神様の道の不思議であります。みなさん、これは、この章ではイスラエルのことを話しているという文脈ですが、私たちの人生に置き換えてみてもそうなのです。

★イスラエルは神に拒絶されたのか?

パウロは、なかなかイエス様を受け入れないイスラエルに対して、神に拒絶されているのではない。と訴えています。

V1-2, すると、神はご自分の民を退けてしまわれたのですか。絶対にそんなことはありません。この私もイスラエル人で、アブラハムの子孫に属し、ベニヤミン族の出身です。2 神は、あらかじめ知っておられたご自分の民を退けてしまわれたのではありません。.

V7-8, では、どうなるのでしょう。イスラエルは追い求めていたものを獲得できませんでした。選ばれた者は獲得しましたが、他の者は、かたくなにされたのです。8 こう書かれているとおりです。「神は、彼らに鈍い心と見えない目と聞こえない耳を与えられた。今日に至るまで。」 

○私たちも、なかなか祈りが聞かれない時に、自分の思いがかなわない時に、神に拒絶されているのではないか。。。と結論付けるところがあります。それは、自分の歩みの歴史を無視して世の霊に惑わされているのです。アブラハム、イサク、ヤコブ、神の選びの中でどんな時も神がともにいて導かれてきたこのイスラエル人が、今救われていないからと言って拒絶されているのではない。

心がかたくなにされている者もいる。でも、そのかたくなさをも、全世界の救いのために、神は、用いているのだ。と続きます。。。。

★イスラエルの役割

V11-12 では、尋ねましょう。彼らがつまずいたのは倒れるためなのでしょうか。絶対にそんなことはありません。かえって、彼らの違反によって、救いが異邦人に及んだのです。それは、イスラエルにねたみを起こさせるためです。12 もし彼らの違反が世界の富となり、彼らの失敗が異邦人の富となるのなら、彼らの完成は、それ以上の、どんなにかすばらしいものを、もたらすことでしょう。

イスラエルは、以前にも言いましたが、神に背を向けても、落ちぶれても、神の裁きを受けても、順風満帆の時でも、どんな時でも、神の民として、全世界に神を指し示しながら生きているもの。イスラエルの失敗でさえ、神は、異邦人のために用いられている。

★接ぎ木の例え

V17-25
パウロは、オリーブの木の接ぎ木の例えで、一つの霊的なイスラエル(神を信じる人たち)について話している。ユダヤ人は台木であり、異邦人は、野生のオリーブの木だ。

① 根が聖ければ、枝も聖いv16 if the root is holy, so are the branches
アブラハムはじめ、信仰の父たち、偉人たちの故に、ユダヤ人は神様に愛されている。目をかけられている。私たちも、たとえ家族にクリスチャンが一人であったとしても、あなたのキリストにある聖さは、家系、世代にわたる祝福であることを覚えていてください。呪いは四代、祝福は千代です!

② 根が枝を支えているのだから、誇ってはならないv18 if you do boast, remember that you do not support the root, but the root supports you.
この初めの信仰の偉人たちが信仰を届けたからこその、今のキリスト者たちなのだから、信じないユダヤ人を見て、自分を誇ってはいけない。それでも、なお、私たちは継れたものであり、土台は、起源はユダヤ人たちだからです。

③ 神は台木の枝を惜しんだ。イスラエルについて心を痛めている。V21 For if God did not spare the natural branches, He may not spare you either.
神は、イスラエルについて心を痛めている。

④ 不信仰が無ければ、枝はもう一度容易に継がれる v23 if they do not continue in unbelief, will be grafted in, for God is able to graft them in again.
信仰さえあれば、心の確信さえあれば、イスラエル、ユダヤ人たちは、容易に接ぎ木される、元の木に戻ることができる。

⑤ 野生種を栽培種に接ぎ木するのは本来は難しいが、神にはおできになること。V24 how much more will these, who are natural branches, be grafted into their own olive tree?

★神の憐れみと不思議

ロマ11:33-36
ああ、神の知恵と知識との富は、何と底知れず深いことでしょう。そのさばきは、何と知り尽くしがたく、その道は、何と測り知りがたいことでしょう。34 なぜなら、だれが主のみこころを知ったのですか。また、だれが主のご計画にあずかったのですか。35 また、だれが、まず主に与えて報いを受けるのですか。36 というのは、すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです。どうか、この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。

すぐに、神に拒絶されているなどと、結論付ける私たちですが、神には、私たちに計り知れない知恵と知識をもって私たちと私たちの周りの人たちを導いておられるのです。ネガティブなことを想うときに、少し立ち止まりましょう。静まり、神に信頼しましょう。

★私の体験

私は、思い出します。もう、ミニストリーができないほどに疲れ、もうやめよう、向いてない。と思った時がありました。鬱になり、自暴自棄になり、自殺願望さえありました。もう、こんな汚れた自分が神の働きをすることができるはずがないと思いました。そうなると、ますます自暴自棄となりました。
ちょうどその時、アメリカへ導かれたので、もうアメリカに行って、ミニストリーはやめようと思いました。もう、私の名前を働き人のリストから取り除いてくださいと、主任牧師に頼んだところ、彼は、「神様からの賜物と召命は変わらないから、人間の私がそうすることはできない」と言うのです。まあ、アメリカに来たら、自然消滅できるかな、野垂れ死にするかもしれないし。。。とも思ってアメリカに疲れた精神できました。すると、初め一、二か月で、日本人留学生が私のドームの部屋で救われたのです。また、人が集まりだし、一年後、聖書の学びのグループが始まりました。すべて自然発生的でした。私は、神様を畏れました。”私”ではない。私は、神様にこのように用いられるように造られているのだ、と確信したのです。
皆さんの、人生の上にも神様がこのように働いているのです。皆さん方は、特別な神様の器です。私が、神様の計画をむちゃくちゃにできないのです。自分に与えられた召命を壊すことすらできないのです。神様は、試練の時も、苦しみの時も、罪の中で自暴自棄の時にもともにいらっしゃるのです。


#キリスト教 #クリスチャン #信仰 #教会 #礼拝 #聖書

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ローマ九章  神の選びの不思議

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私のメンターのキャリー牧師の礼... 私のメンターのキャリー牧師の礼拝している姿。麗しいです。先週は、入院されて、とても心配しました。いつまでもお元気でいてほしいです。。。。
2016年11月26日日曜日礼拝音声は、下をクリックしてくださいー


前回は、八章で、御霊に生きるという素晴らしい、何にも勝利できる道があるのだということをパウロは話しました。今週は、九章で、それにあずかっていない、同胞イスラエル人について、パウロは語っています。

★ パウロの心の苦しみ

ローマ9:1-3
私はキリストにあって真実を言い、偽りを言いません。次のことは、私の良心も、聖霊によってあかししています。2 私には大きな悲しみがあり、私の心には絶えず痛みがあります。3 もしできることなら、私の同胞、肉による同国人のために、この私がキリストから引き離されて、のろわれた者となることさえ願いたいのです。I tell the truth in Christ, I am not lying, my conscience also bearing me witness in the Holy Spirit, 2 that I have great sorrow and continual grief in my heart. 3 For I could wish that I myself were accursed from Christ for my brethren, my countrymen according to the flesh,

○エンパシー共感について

sympathy = syn (共に) + pathos (苦しみ) [感情共鳴]
empathy = en (内部へ)+ pathos (苦しみ) [感情移入]

sympathy はその人と一緒に悲しむことですが、empathy は、その人の心の内部へ入って、その人の苦しみを自分の苦しみとして悲しむことです。

ちょうど、イエス様が「この小さい一人にしたことは、わたしにしたのです。」と例え話中でされてますが、(マタイ25)イエス様は、私たちの日ごろの状態を自分のこととして、飢え渇き、憂い、とりなして祈っていてくださる方なのです。
パウロもまた、自分の同胞に対して、大きな悲しみ、絶えない痛みがある。自分が代わりに地獄に行ってもいいほどに、その同胞の救いのための願いと祈りが溢れています。

私たちが、共に感じる、伝道したい相手の痛みと一体化するところに、何かブレイクスルーがあるように感じてなりません。それが、イエス様のしてくださったことだからです。私たちは、日ごろ祈っている人のことに対して、どれほどその人と一体化しているでしょうか。この章のはじめに、パウロが大きなチャレンジをくれたと思います。

v4,5 栄光も、律法も、礼拝も約束も彼らのものです。先祖たちも、キリストさえイスラエルから出てるのに、それなのに、なぜ、イスラエル人がみな救われないのか。。。。。

★ イスラエルとは

ロマ9:6-7
しかし、神のみことばが無効になったわけではありません。なぜなら、イスラエルから出る者がみな、イスラエルなのではなく、7 アブラハムから出たからといって、すべてが子どもなのではなく、「イサクから出る者があなたの子孫と呼ばれる」のだからです。
But it is not that the word of God has taken no effect. For they are not all Israel who are of Israel, 7 nor are they all children because they are the seed of Abraham; but, “In Isaac your seed shall be called.”

パウロは、しかし、同胞イスラエル人が救われていないからと言って、神の言葉が無効になったのでも、意味がなかったのでもない。。。と主張しています。
信仰によってそもそもイスラエル人となるのであって、血統ではない。肉の子供ではなく約束の子供でなければならない。自動的にはなれない。というのです。

○約束の子と肉の働きの子

アブラハムの例では、アブラハムは、神様から子孫の約束を受けたけれども、待ちきれなくて、セラとの間ではなくと他の人との間に子供をもうけました。しかし、それは、肉の働き、自分の働きであって、神の約束の子ではありませんでした。私たちは、自分の肉の力によって、神の計画を実現しようとしていまう、肉の強い働きを宿して生きています。

また、その態度がイスラエル自身の態度でもあります。一生懸命、自分で義を達成していこうとする、律法を肉の行いで満たそうと必死になってる。そこには救いがないのです。

約束を待ち望み、約束のものに気が付き、それを受け取らなければならないのです。

★ 事は憐れんでくださる神による

では、約束ってなんなの? ということになります。みんながみんな受け取れる約束ではないのか? という質問が出てきました。

ロマ9:16-17
したがって、事は人間の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神によるのです。17 聖書はパロに、「わたしがあなたを立てたのは、あなたにおいてわたしの力を示し、わたしの名を全世界に告げ知らせるためである。」と言っています。So then it is not of him who wills, nor of him who runs, but of God who shows mercy. 17 For the Scripture says to the Pharaoh, “For this very purpose I have raised you up, that I may show My power in you, and that My name may be declared in all the earth.”

神は、私たちの知恵を越えた知恵で、選びをもっていらっしゃる。ちょうど、陶器師が器をいろいろな用途のために作り分けるようだという。そんなのフェアじゃない。とあなたが言おうが、造られたものが造り主にたいして偉そうに言えることではない。。。とあります。(v19-22)

「親分は、イエス様」という本や、映画が日本にはありますが、本当のお話しで、やくざがイエス様に出会って変えられてく。という話しです。また、クリスチャンの家に生まれていても、イエス様に出会わない人もいます。また、ユダも、もしかして、死ぬときにはイエス様に悔い改めて救われていたかもれませんが、彼もイエス様に選ばれておきながら裏切りました。そして、彼がいたからこそ、イエス様は十字架にかかりました。エジプトの王パロも神様がその心をかたくなにしたので、10の奇跡合戦をモーセとし、その神の名が高らかに世界中に証しされました。

すべて造り主のためです。たとえそこに、悪い器と見えるものがあっても、それを忍耐を持つての神様がゆるしておられるのです。

★ あなたも憐れみの器として召されている

ロマ9:24  
神は、このあわれみの器として、私たちを、ユダヤ人の中からだけでなく、異邦人の中からも召してくださったのです。
23 and that He might make known the riches of His glory on the vessels of mercy, which He had prepared beforehand for glory, 24 even us whom He called, not of the Jews only, but also of the Gentiles?
神様は、選びの民イスラエルを差し置いて、律法も礼拝も知らないような、今や、私たちのような遠い国の民族に届いてくださって。こんな私を憐れみの器として召してくださったのです。

不思議なことです。

あなたに、神の栄光を示し、そして、神の御名を世に知らしめるためにあなたは、召されているに他ならないことを覚えておきましょう。当たり前のように、また、何か自分が達成したかのように思わないようにしましょう。

事は、人間の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神によるのです。So then it is not of him who wills, nor of him who runs, but of God who shows mercy.

ですから、選挙のことでも、心を騒がせないようにしましょう。どちらになっても、神の御心がすでにはたらいているのです。

★ イスラエルの躓きの石

ロマ 9:31-33 
しかし、イスラエルは、義の律法を追い求めながら、その律法に到達しませんでした。32 なぜでしょうか。信仰によって追い求めることをしないで、行いによるかのように追い求めたからです。彼らは、つまずきの石につまずいたのです。33 それは、こう書かれているとおりです。「見よ。わたしは、シオンに、つまずきの石、妨げの岩を置く。彼に信頼する者は、失望させられることがない。」but Israel, pursuing the law of righteousness, has not attained to the law of righteousness. 32 Why? Because they did not seek it by faith, but as it were, by the works of the law. For they stumbled at that stumbling stone. 33 As it is written: “Behold, I lay in Zion a stumbling stone and rock of offense, And whoever believes on Him will not be put to shame.”

   イスラエルは、イエス様が分かりませんでした。約束を待ち望んでいましたが、約束を見出せませんでした。それは、「行い」すなわち、律法、肉の働きに、とらわれていたからです。イエス様という恵みによって、行いからも解放する、救い主がかえって彼らの躓きの石となってしまったのです。ケニーさんが先週話したように、イスラエル人は、イエス様にすっかり気を悪くしてしまったのです。。

今日三つのこと、覚えてください。
① パウロやイエス様のような、エンパシー共感を持つこと。
② あなたは、神のあわれみの器として選ばれていること。
③ 「行い」にとらわれるのでなくて、約束を信じる信仰に生きること。

来週は、エリックがメッセージですが、その次は、神の選びに対して、私たちの側の選択についてお話ししたいと思います。


#キリスト教 #クリスチャン #信仰 #教会 #礼拝 #聖書

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かわいい一コマ

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礼拝中、ワーシップをしていたら... 礼拝中、ワーシップをしていたら、子供たちが前に自然に集合。しずかに一緒にワーシップリードをしました。笑。。。。
子供は、大人の真似をしながら育つんですね。。。
神様の臨在も肌で感じてきたかなー?
礼拝後、今週から、クリスマス会... 礼拝後、今週から、クリスマス会の歌の練習をしています。
みんな上手に振り付けできました。
小さいちゃんは、さすがにすぐうろうろして、写真からいなくなってます。まだ二歳にもなってないですからねーーー。クリスマスが楽しみですーー

今週は、ケニーさんがメッセージをしたので、ノートがありません。

#ブログ #子供 #教会 #日曜日 #礼拝

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ロマ八章 いのちの御霊の原理

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先週は洗礼式がありました。中国... 先週は洗礼式がありました。中国人の方が二名。。中国では、キリスト教信者が急激に増えていて、すでに求めている人が多いです。不思議に教会に引き寄せられてきたこのお二人は、お友達やお母さんもクリスチャンだったそうです。 トレーダージョーズはすでにクリ... トレーダージョーズはすでにクリスマスモード。おいしそうなトリートがたくさん並んでいます。もうすぐ感謝祭。もうすぐクリスマスです。アメリカはホリデーシーズンです!
2016年11月13日日曜日礼拝メッセージ音声は、下

先週は、クリスチャンに対してのパウロのメッセージ律法に対しても死ななければならないことを話しました。今日は、続きで、それよりも素晴らしい道、生き方を神様が用意してくだった。御霊によって生きることをお話ししたいと思います。

ロマ8章

★罪と死の原理から御霊の原理へ

ロマ8:1-2
1 こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。2 なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。There is therefore now no condemnation to those who are in Christ Jesus, who do not walk according to the flesh, but according to the Spirit. 2 For the law of the Spirit of life in Christ Jesus has made me free from the law of sin and death.

先週からの言葉を受けて、私たちは、キリストによって罪に定められることが決してないこと。また、いのちの御霊の原理が私たちを解放したとあります。
どんなにがんばっても、神を喜ばし、律法を全うできない。良い人間に自分の力でなれないこと。。先週見ていきました。

★御霊の中にいる

ロマ8:8-9
8 肉にある者は神を喜ばせることができません。9 けれども、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中にいるのです。キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません。So then, those who are in the flesh cannot please God. 9 But you are not in the flesh but in the Spirit, if indeed the Spirit of God dwells in you. Now if anyone does not have the Spirit of Christ, he is not His.

肉の働きは、神を喜ばせることができません。肉が生きている限り、何も良いものが出てこないのです。

御霊の原理は、このように説明できます。人間のどんな優れた肉体の能力を使っても走って飛んで、2m45 が最高記録。それだけ飛べたら金メダル。世界一の身体能力の飛び能力。これが、肉の働きの限界。しかし、生まれたばかりの赤ちゃんでも、飛行機に乗るなら、7620m の高度を肉体の努力なしで飛べます。
あなたの能力、手腕、頑張りはいらないのです。赤ちゃんでも飛行機に乗ったら飛べるんです。あなただって、御霊の中にいれば、高く飛べるのです。どうやって乗るのですか? How? Why? という質問が心にわいたら、いつもこの答えです。信じることです。信仰によってその飛行機に乗るのです。自分で何とか乗ろうとすればするほど乗れません。

★御霊の人の祝福と希望

この章を読んでいるとたくさん希望の言葉が出てきます。とても励まされます。

○神の子とする

ロマ8:14-16
神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。15 あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父」と呼びます。16 私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます。 For as many as are led by the Spirit of God, these are sons of God. 15 For you did not receive the spirit of bondage again to fear, but you received the Spirit of adoption by whom we cry out, “Abba, Father.” 16 The Spirit Himself bears witness with our spirit that we are children of God,

今までは、罪の奴隷であり、律法の奴隷であり、自分のしたいことができない状態でした。しかし、御霊の人は、神の子だというのです。そして、御霊ご自身が証ししてくださるというのです! 自分で頑張ってそれを証明しなくてもいいのです。先週の話しではありませんが、クリスチャンらしく、聖霊の九つの実を結ぼう結ぼうとしても結べるものではないのです。むしろ、あきらめて肉が死んだ方がいいのです。

○被造物も待ち望んでいる

ロマ8:18-19
18 今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。19 被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現れを待ち望んでいるのです。 For I consider that the sufferings of this present time are not worthy to be compared with the glory which shall be revealed in us. 19 For the earnest expectation of the creation eagerly waits for the revealing of the sons of God.

私たちのこの天地は、やがてその時が来るとき、神様によって新たにされます。完全な回復がこの地にやってきます。これも、すべて、神の子たちの現れにかかっているのです。御霊の人が満ちることを被造物も待ち望んでいるのです。待ち望むというのは、希望を持っていると訳してもいいでしょう。希望は、将来の夢を描いてそこに日々向かうことであります。私たちは、希望のトラックを今走っているのです。苦しみについてパウロは言及していますが、人生世の中苦しみはつきものであるし、キリスト者として苦しみも未信者の時よりも多いのは事実です。しかし、苦しみと希望がいつも背中合わせであることをパウロは指示しているのではないでしょうか。

○御霊のとりなし

ロマ8:26-27
御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。27 人間の心を探り窮める方は、御霊の思いが何かをよく知っておられます。なぜなら、御霊は、神のみこころに従って、聖徒のためにとりなしをしてくださるからです。Likewise the Spirit also helps in our weaknesses. For we do not know what we should pray for as we ought, but the Spirit Himself makes intercession for us[b] with groanings which cannot be uttered. 27 Now He who searches the hearts knows what the mind of the Spirit is, because He makes intercession for the saints according to the will of God.

私たちは、苦しみの中で、もう自分の力も限界だ。力も根気も尽きた。祈って神様にすがる気力さえないという時があります。そんな時であっても、内にいらっしゃる御霊が私たちのいいようのない祈りをよく知り、とりなしてくれているというのです。しかも、みこころに従ってとあります。なんということでしょうか。

○すべてが益とされる

ですから、例えあなたが祈る気力さえ失っても、御霊様は必ずあなたの苦しみをも益に変えてくださるというのです。

ロマ8:28
神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを私たちは知っています。And we know that all things work together for good to those who love God, to those who are the called according to His purpose

また、誰も御霊の中にあるならば、誰も私たちに敵対できるものはいないとあります。

○誰も敵対できない

ロマ8:31
では、これらのことからどう言えるでしょう。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。What then shall we say to these things? If God is for us, who can be against us?

また、すべて私たちに必要なことは与えられると書いてあります。御霊の中にあると信じられるなら、私たちは、7000メートル以上上空を飛べると信じれますよね。それなら、続くみ言葉もしっかりと心に受け止められるでしょう。

○すべての恵みがある

ロマ8: 32
私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。He who did not spare His own Son, but delivered Him up for us all, how shall He not with Him also freely give us all things?

○神の愛から離すものは何もない

ロマ8:37-39 しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。38 私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、39 高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から私たちを引き離すことはできません。37 Yet in all these things we are more than conquerors through Him who loved us. 38 For I am persuaded that neither death nor life, nor angels nor principalities nor powers, nor things present nor things to come, 39 nor height nor depth, nor any other created thing, shall be able to separate us from the love of God which is in Christ Jesus our Lord.

何とかして神を喜ばせなければという肉の思いから、もうすでに神にとらえられ。愛の中に守られているという飛行機に私たちは、乗らなければなりません。ジャンプして到達しようという肉に死ななければなりません。いつも聖書の答えは一つです。How? Why? と心に浮かぶときは? 何ですか? 信じることです。今日、イエス様を信じて、この素晴らしい御霊の中に入りましょう。


#キリスト教 #クリスチャン #信仰 #教会 #礼拝 #聖書

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ロマ書六章 キリストに継ぎ合わされて

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今日は、かわいいちゃんのおじい... 今日は、かわいいちゃんのおじいちゃんが日本から訪問されていて、教会にも来てくれましたーー。しかし、お若い!!
今日は、子供たちは、帰国中や風邪で、かわいいちゃん姉妹たちだけでした。。。寂しそうでしたーー。また、早くみんな元気になって教会で会いたいね!
2016年10月30日日曜日礼拝音声は、https://youtu.be/Kf4IqxH_bP0

聖書箇所 ロマ6:1-14, 23

五章では、信仰によってもたらされる義、そして、義がもたらす平和、喜び、栄光について話しました。今日は、続いて六章を見ていきましょう。

★ 恵みのためにもっと罪を犯すべき?

V1-2  1それでは、どういうことになりますか。恵みが増し加わるために、私たちは罪の中にとどまるべきでしょうか。2 絶対にそんなことはありません。罪に対して死んだ私たちが、どうして、なおもその中に生きていられるでしょう。What shall we say then? Shall we continue in sin that grace may abound? 2 Certainly not! How shall we who died to sin live any longer in it?

五章の終わりの方に、罪が増し加わるところに、恵みも増し加わるのなら、もっと罪を犯しましょうという人たちがいるのに対して、そんなことは絶対にありえない。とパウロが言っています。

この章後でパウロが、罪の奴隷と神の奴隷という表現を使っていますが、どちらかに属する道しか私たちにはないのです。ですから、恵みのために罪を犯そうという論理は存在しないのです。なぜなら、そもそも、キリストを信じることとはどういうことでしょうか。またどんな変化をもたらせたのでしょうか。

★ バプテスマ・洗礼とは?

V3- 6 3 それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。4 私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。
5 もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。
6 私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています
バプテスマ、洗礼式を見たことがありますか? バプテスマとは、浸されること。実際に水の中に全身を浸します。イエス・キリストを信じて生きていきますという、人の前にも神の前にも宣言する式。入学式であり、お葬式でもある。4節にあるように、バプテスマは、水の中に完全に入っている時を死とみなし、水から上がるときを復活、新しい命で生きることを表しています。

キリストの死と葬りと復活を水を通して体験し、信仰を公にします。
ここで大切なのは、5節にあるように、キリストに継ぎ合わされることです。継ぎ合わされるとは、どういうことでしょうか。
○ 継ぎ合わされる, planted together; スンフートスsoom'-foo-tos (ギ) …born together with, of joint origin, connate

一つとされることです。接ぎ木をされているようなものですね。根っこが同じ。同じものとされることです。

キリストの死と継ぎ合わされ、キリストの復活と継ぎ合わされることで、新しく生きられるというのです。

○ V6 罪の奴隷でなくなるため。

奴隷とは、鎖につながれて、自分の自由がありません。自分の意思に関わらず、働かなければなりません。罪人というのは、調度そのようです。頭では、してはいけないことと分かっているのにも関わらず、やってしまうのが罪ではないでしょうか。まるで奴隷のようです。

★ 死ななきゃ治らない?   
   鍵は信仰 信じること。人は信じていることしか行動に移せない

V7-10 7 死んでしまった者は、罪から解放されているのです。
8 もし私たちがキリストとともに死んだのであれば、キリストとともに生きることにもなる、と信じます。
9 キリストは死者の中からよみがえって、もはや死ぬことはなく、死はもはやキリストを支配しないことを、私たちは知っています。
10 なぜなら、キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、キリストが生きておられるのは、神に対して生きておられるのだからです。

「馬鹿は死ななきゃ治らない」ということわざが日本にありますが。英語では、the only cure for a fool is death; once a fool, always a food と言えますが。罪を犯す性質というのは、人間が生きている限り無くなることはないのです。それこそ、死ななきゃ治らないものであります。

罪をやめるということは、人間をやめるしか道がないのです。神様の標準を満たす清さというのは、人間では到達できないのです。先日その暴言が取り上げられた尼さんがいましたが、どんなに修行しても死ななきゃ治らない性質っていうものがあるのです。

私たちは、死ななきゃいけないのです。しかし、私たちがしなくてもいいように、キリストが私の身代わりに十字架で死んでくださったのです。私は、どうやって死んだらいいのでしょうか。それは、自分の罪がキリストの十字架で一緒に死んだことを信じることです。

古い人…生きている自我・キリストとともに死んでない内なる人  これが私たちに葛藤を与え、他人に不快を与えます。

信仰による死がもたらす利益

○ 復活がある … みなさん、死ななければ、復活がないのです。あなたの自我、決断、判断、ジャッジをするところが、生きていては、復活がないのです。あなたは、自分に死んでいますか?

○ 感じなくなる … 生きている人は、痛みがあります、いらいらします。いろいろと思い悩みます。しかし、死んだ人には、そんなことがありません。何も感じなくなるのです。例えば、あなたをいらいらさせる人がいるとします。あなたは、相手のここが悪いあそこが悪いと、自我を用いて相手を裁き、余計にイライラします。死んでいないのです。死ぬことは、自分の自我がキリストの十字架の上にあることを認めることです。
そんな、馬鹿な。。。どうやって。このイライラがなくなるの? と思うかもしれません。
聖書のHow? は、いつでも、信仰です。信じることです。
あなたの古い罪の性質が十字架で死んだことを信じることです。

人は、自分の信じている通りにしか行動しません。あなたが、自分が生きていると信じているのに、キリストとともに生きることはできないのです。
死が無ければ復活がないからです。

★ 律法の下ではなく、恵みの下に! 鍵は信仰

V11-14 11 このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい。
12 ですから、あなたがたの死ぬべきからだを罪の支配にゆだねて、その情欲に従ってはいけません。
13 また、あなたがたの手足を不義の器として罪にささげてはいけません。むしろ、死者の中から生かされた者として、あなたがた自身とその手足を義の器として神にささげなさい。
14 というのは、罪はあなたがたを支配することがないからです。なぜなら、あなたがたは律法の下にはなく、恵みの下にあるからです。.

キリストの十字架の死と葬りと復活と継ぎ合わされた人は、自分から好んで罪を犯そうという発想がなくなります。罪を犯す、古い人・生きている自我に対して気が付いていて、罪に対しても死んでいるのです。また、罪を自ら犯すことを信じてないからです。そして、今までは、罪の支配の中にいて、律法の支配の下にいたのが、恵みの下に移されていると14節にあります。

律法の下というのは、あなたがすることなすこと、律法に照らし合わされて、裁かれる世界です。これもできてない、あれもできてない、できるようにならなければと私たちを急き立てるものです。しかし、恵みの支配とはなんでしょうか。

恵みとは、私たちに必要な力を与えて、神のために生き、神の御心に沿って生きることができるすべての能力が与えられることです。超自然的な力が与えられることです。罪の奴隷から解放された人は、恵の支配が約束されています。

今日、どれくらいの人が、この恵みをあてにして生きているでしょうか。ここに期待して、かけて生きているでしょうか。
もう一度いいます、死んでいる人でないと、恵みの支配下にいないのです。両方に足を突っ込んで生きる道は存在しないのです。

★ 神の下さる賜物

V23 罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。 For the wages of sin is death, but the gift of God is eternal life in Christ Jesus our Lord.

続いて、罪の支配の至る道は、死であり、キリストに継ぎ合わされた人の道は、永遠のいのちに至ると続きます。

ここに、「神の下さる賜物」は、とあります。いのちに至る道の生き方は、神様からのプレゼント、贈り物であって、あなたが労苦して稼ぐものではありません。このプレゼントは、信じることから始まります。そして、死ぬことを通して、復活の命にあふれさせます。死ぬことを通して恵みに満ち溢れさせます。

あなたの自我は、今日どこにありますか? 悩み、もがきがありますか。キリストの死と復活に継ぎ合わされましょう。恵みの支配に入りましょう。


#キリスト教 #クリスチャン #信仰 #教会 #礼拝 #聖書

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Speaking in Tongues 異言の祈りについて

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日曜日は、ゆきくんの18才の御... 日曜日は、ゆきくんの18才の御誕生日をお祝いしました。
教会にきだしたころは、8歳か、9歳くらいだったかなぁ。。。。可愛かったことを覚えていますが、こんなに立派な大人になりました。ハレルヤ。神様感謝します! 教会のみなさんで祝福のお祈りができました。これからも、素敵な男性に育っていきますように。。。。
この日曜日は、初めて、エリックがメッセージをしました。

23 Oct 2016日曜日礼拝メッセージ

Eric’s Story of Speaking in Tongues. エリックの体験談
Holy Spirit gives us the ability to speak in other tongues: 
聖霊様が私たちに異言で話す能力を下さる

Acts使徒 2:1-4
“And when the day of Pentecost was fully come, they were all with one accord in one place. 2 And suddenly there came a sound from heaven as of a rushing mighty wind, and it filled all the house where they were sittng. 3 And there appeared to them cloven tongues like as of fire, and it sat upon each of them. 4 And they were all filled with the Holy Ghost, and began to speak with other tongues, as the Spirit gave them utterance.” 五旬節の日になって、みなが一つの所に集まっていた。2 すると突然、天から、激しい風が吹いて来るゆな響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。3 また、炎のような分かれた舌が現れて、ひとりひとりの上にとどまった。4 すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。

① Unity 一致について

I also love the encouraging words of the Apostle Paul on the subject.パウロはまた言いました

1 Cor.コリント 14:18
“I thank my God, I speak with tongues more than ye all.” 私は、あなたがたのだれよりも多くの異言を話すことを神に感謝していますが、

② Don’t strive 自分の努力によらない

Ps. 詩編46:10 “Be still, and know that I am God…” 
“let go and let God” あきらめて、神様にしてもらうこと


③ Edifying yourself 自分の徳を高める

1 Cor. コリント14:4 “He that speaketh in an unknown tongue edifieth himself…” 異言を話す者は自分の徳を高めますが、預言する者は教会の徳を高めます。

④ Intercession とりなし

Rom.ロマ8:26
“Likewise the Spirit also helpeth our infirmities: for we know not what we should pray for as we ought: for the Spirit itself maketh intercession for us with groaning which cannot be uttered.”  御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。

It is a supernatural solution to natural problems. 自然界の問題に対する超自然的な解決が与えられる。

⑤ Mind doesn’t bear fruit; 知性は実を結ばない

1 Cor.コリント14:2
“For he that speaketh in an unknown tongue speaketh not unto men, but unto God: for no man understandeth him; howbeit in the spirit he speaketh mysteries.”もし私が異言で祈るなら、私の霊は祈るが、私の知性は実を結ばないのです。

“Could you not spare one Hour?” 一時間もできないのか?
という、ムーブメントが昔ありましたが、
異言の祈りなら、いつでもどこでも、いくらでも祈ることができます。




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イエス様からの招き デレック・ブラウン

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すっかり秋のシアトルです。お友... すっかり秋のシアトルです。お友達が朝とった写真です。
美しいシアトル。。。。
先週来週は、ずっと雨ですが、これもシアトルらしい。
木の葉もすっかり紅葉して、雨と風で道は絨毯のようになっています。。。
ヨハネ21章1-14節

1 この後、イエスはテベリヤの湖畔で、もう一度ご自分を弟子たちに現された。その現された次第はこうであった。
2 シモン・ペテロ、デドモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナのナタナエル、ゼベダイの子たち、ほかにふたりの弟子がいっしょにいた。
3 シモン・ペテロが彼らに言った。「私は漁に行く。」彼らは言った。「私たちもいっしょに行きましょう。」彼らは出かけて、小舟に乗り込んだ。しかし、その夜は何もとれなかった。
4 夜が明けそめたとき、イエスは岸べに立たれた。けれども弟子たちには、それがイエスであることがわからなかった。
5 イエスは彼らに言われた。「子どもたちよ。食べる物がありませんね。」彼らは答えた。「はい。ありません。」
6 イエスは彼らに言われた。「舟の右側に網をおろしなさい。そうすれば、とれます。」そこで、彼らは網をおろした。すると、おびただしい魚のために、網を引き上げることができなかった。
7 そこで、イエスの愛されたあの弟子がペテロに言った。「主です。」すると、シモン・ペテロは、主であると聞いて、裸だったので、上着をまとって、湖に飛び込んだ。
8 しかし、ほかの弟子たちは、魚の満ちたその網を引いて、小舟でやって来た。陸地から遠くなく、百メートル足らずの距離だったからである。
9 こうして彼らが陸地に上がったとき、そこに炭火とその上に載せた魚と、パンがあるのを見た。
10 イエスは彼らに言われた。「あなたがたの今とった魚を幾匹か持って来なさい。」
11 シモン・ペテロは舟に上がって、網を陸地に引き上げた、それは百五十三匹の大きな魚でいっぱいであった。それほど多かったけれども、網は破れなかった。
12 イエスは彼らに言われた。「さあ来て、朝の食事をしなさい。」弟子たちは主であることを知っていたので、だれも「あなたはどなたですか」とあえて尋ねる者はいなかった。
13 イエスは来て、パンを取り、彼らにお与えになった。また、魚も同じようにされた。
14 イエスが、死人の中からよみがえってから、弟子たちにご自分を現されたのは、すでにこれで三度目である。

今日は、イギリスから、デレック・ブラウン先生をお迎えしての合同礼拝でした。ですから、今日は、日本人教会はありませんでした。ブラウン先生のメッセージは、次の通り

I am.

旧約聖書で神様がご自分の名前を、「わたしは、ある」と紹介されましたが、神様は、I am. であると今朝協調しておられる。

イエス様は、昨日も今日も明日も同じ。しかし、昨日の油注ぎは、昨日のものであり、今日は今日でI am. と言うお方がともにおられるのです。

今朝、ここにイエス様が来られたらどんなだろう。。。。本来イエス様中心の教会であるはずなのに、教会は宗教的になりすぎて、I am. であるお方を見逃している。

ヨハネ21章の一節に、英語では、the morning comes there stood Jesus. その後、朝が来て、イエスがそこに立っておられた。とある。

今日皆さん、朝ここに来られて、どんな気持ちでここに来たかしりませんが、いろんなことがあり、いろんな思いを引きずりながら来たことでしょう。しかし、それでも、朝がくる。そして、聖書は、そこにイエスがおられたと書いてあるのです。

聖書は、「夜に涙を流しても、朝には喜びがある」とあります。また、「神の恵みは朝毎に新しい。」とあります。ヨハネ21章も、いろいろなことの後に、この朝が来ました。キリストの癒し、みわざ、弟子たちの召し、ペテロの裏切り、イエス様の十字架の死、イエス様は、自分が生きていることを四十日間人々に現され、示されました。復活を信じない人たちに現れました。

ルカの15章で、何もかも捨ててきたという弟子たちに、これからは人をとる漁師になると約束されました。

あなたも、そうだ、そんな約束もあったものだ。あんな夢ももったものだと思うことがあるかもしれない。。。

ペテロは、どうしていいかわらなかったので、昔なじみの漁に出ることにした。そして、他の友たちもついてきた。

皆さん、いいですか、この朝、イエス様はご自分を表されたのです。すべては、イエス・キリストなのです。
いいワーシップでも、教会でも、いいメッセージを聞くことでもないのです、イエス・キリストです。キリストに関することであります。

ペテロは、漁にでました。彼は、自分の召命に対して、迂回をするようにして漁にでました。そこには、絶望と、自分に対する失望があったからです。
そして、漁に出てても、昔からなじんだ仕事であっても、何もとれなかったのです。一匹もです。
私たちも、よくなれている仕事があるでしょう、癒しのミニストリーでも、預言でも、牧会でも慣れ親しんできた仕事でも、うまくいかない、一匹もとれないようなことがある。

イエス・キリストの臨在こそが、魚を引き寄せる一番の要因であるのです。

イエスがそこにおられるかどうか、が重要なのです。

学校に行こうが、何をしようが、そこにイエスがいるかどうかで、全ては違ってくるのです。

There stood Jesus
イエスはそこに立っておられた。

しかし、弟子たちは、イエスが分からなかったのです。

「こどもたちよ、魚がとれましたか?」 ときかれても、分からなかった。イエス様は、あなた方に今、この季節、「イエスがいる」ことを知ってほしいのです。イエス・キリストがすべてであることを。

「右に網をおろしてみなさい」と言われました。そう言われてもイエスと気が付かなかったでしたち。
右側というのは、なぜ右側なのか。ここには、深遠な意味がある。

右は、権威という意味がある。弟子たちが、権威をそこに招いたときに、大量の魚がとれた。いくら働いても、キリストの権威なしに働いても何もとれないのです。

また、有名な放蕩息子の絵画を見たことがあるだろうか。放蕩息子を抱く父の手であるが、右は、女性の手をしており、左は男の手をしている。右は、母のやさしさを表す。母のやさしさは、我々は、ただ受け入れるということであるが、我々は、しばしば、それをしようとはしない。

また、この朝に、岸辺からイエスの声がするとはだれが想像しただろう。キリストは、私たちが今まで予想したことのないところから語り掛けるというしるしである。

イエス・キリストが我々の中心である。

ヨハネは、言った。「主です!」

いくら熱心に主の仕事をしていようと、どんな立派な仕事をしようが、キリストと関係を持っていなければ、分からない。ヨハネは、キリストとの親しい関係にあって、それが主であると分かったのです。

ペテロは、それと聞いて、裸であったが、そこにある、漁師の服をまとってから水に飛び込んだ。何を示しているのだろう。一度、キリストから、人を取る漁師にしてあげようと召された。

その召命の象徴として服をまとい、思い切って水に飛び込んでイエス様のもとに急いだのであった。再献身の始まりであった。

今日一日のためイエスを求めよう。今日一日のみことばを求めよう。あなたの召命の服を着て水に飛び込もう。あなたには、フレッシュな信仰が必要です。今日、再献身して、召しに生きるためには、新しく神を信頼する必要があります。今日一日の信仰でいいのです。

イエスは、パンと魚を用意して待っていた。キリストご自身は、いのちのパンと言われるおかたである。これは、キリストからの個人的なあなたへの招きであります。

朝食は、英語で、Breakfast といいます。つまり、Break the fast 断食をやめる。食べない、不足していることを破ることです。
あなたの過去の失敗、成功しない道、なかなか取れない漁、家族の問題、何も開かれないそういう 不足の気持ちを破ることです。
イエスがともにいて、食事をさせてくださり、そして、その断食を破らせてくださいます。

イエスは、来なさいと招いています。これは、新しい献身の第一歩であり、始まりです。昨日のことは、終わりました。今日から、あなたは新たにまた力を得るのです。


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