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ご近所に、水曜日に新しいスタバができましたー。ここにスタバがあったなーーと思っていた調度そこにできました。
マーサーストリートにあります。
店内には、これでもか、とコンセントの数。椅子のないところにも。。。ここも、アマゾニアンで朝は、ごった返しています。
そのお向かいのビルですが、大きなガラス窓がびりびりに、、レースのように、細かくひびが入っています。光に反射して、とても美しいです。壊れたものなのに、こんなに美しいなんて、なんとなく、誌的だなーーと思って思わず写真をパチリ。。。ここは、お散歩コースです。こちらもマーサーストリートです。
2016年10月9日日曜日礼拝音声は、https://youtu.be/NQcxDlaaH4w
先週は、義をもたらす信仰について話しましたね。さて、信仰を持った私たちに、一体どのような変化が起こるのでしょうか。ということを五章を通して学んで行きましょう。
★シャロームの中に招き入れられた
V1,2 ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。2 またキリストによって、いま私たちの立っているこの恵みに信仰によって導き入れられた私たちは、神の栄光を望んで大いに喜んでいます。Therefore, having been justified by faith, we have peace with God through our Lord Jesus Christ, 2 through whom also we have access by faith into this grace in which we stand, and rejoice in hope of the glory of God.
パウロは、この恵みに入れてくださった神の栄光を大いに喜んでいると語ります。信仰によって義とされた私たちは、神の平安に招き入れられた。キリストによって平安が与えられたとあります。
平安というのは、旧約聖書の神の名でも同じみ、ジェホバ・シャロームに代表する、神のご性質でもあり、私たちにとって大きな意味のあることです。
シャロームとは、ただ何もない静けさ安らかさではなく、混沌とした状態から神によって回復された状態をさします。戦いの中でも与えられる平安。。。もちろん新約聖書では、ギリシャ語を使いますから、ここでは、エイレーネという言葉、同じく平安が使われていますが、これもまた似たような意味が込められています。エイレーネの語源は、つなぐ、加わるという言葉です。二つのものを一つにしたうえでの平安です。なかなか、奥が深いですね。
すなわち、罪の混沌、暗闇を通り抜け、今や、キリストによって、神の回復に加えられている。そして、キリストとの親しい交わりの中で安らぎを得ている、そんな場所に私たちは入れられているのですよ。ということです。
Shalom / Eirene Restored / to join to connect の語源…神との親しい交わりに加わっている
★患難の意味の変化
続く聖句が、
V3-5 3 そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、4 忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。5 この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。3 And not only that, but we also glory in tribulations, knowing that tribulation produces perseverance; 4 and perseverance, character; and character, hope. 5 Now hope does not disappoint, because the love of God has been poured out in our hearts by the Holy Spirit who was given to us.
なぜ、患難の話しがこの場面で出てくるのでしょう。やはり、当時迫害があったからでしょう。信仰ゆえの苦しみというのは、義、信仰、そしてキリストのことを話す時には切り離せなかったことがらだったのでしょう。
信仰によって義とされたキリスト者は、患難に対するものの見方が変化する。患難を喜ぶのはキリスト教の特徴でもある。(中国宣教の証し:音声でお聞きください)
自分自身が平安の中に入れられていることを軸にしているからです。すなわち、どういうとでしょうか。神のGOODNESS を軸にしているのです。そこに根差して生きているのがキリスト者なわけです。
キリストを信じる前は、患難、苦しみは、私にとっては、苦しむためだけのもの、それを通して強くなるとしても、ディフェンスメカニズムを作って、内面的に不健康な人になってしまいました。主を信じて通る患難とは、パウロは次のように語っています。
「患難さえも喜んでいます。」と。喜び…誇りに思うの意も含む
○忍耐が練られた品性をうみ
忍耐…hypomoneヒポモネーギリシャ語の言葉の意味は、「下に続く」前向きに継続的に待ち望むことです。すなわち、神の良さに信頼して、前向きに、従っていくことです。そして、それが練られた品性を産みだします。
品性とは、人格ですね。練られるというのは、試験されて、試されて、やっぱり本物であると、確認されることです。安全な車でも、ちゃんと試験を通って、この車は安全です、衝撃テストなどを受けて、ここまでは大丈夫ですと証明されます。それと同じように、この人の人格は間違いないと神様からお墨付きをもらうのです。
○希望に導く品性
品性は、もちろん一晩で出来上がったりしません。悩みながら神様に聞きながらできていきます。まるで、炉にいられて火で精錬される金のように、たくさんの金粕がでてくるでしょう。それらを取り除きながら、純粋なものになってくのです。
品性の作りの作業において、神様の関係は切り離せません。もちろん、忍耐とは、神様の素晴らしさに信頼しての忍耐ですから。自分を知り、神を知る機会となります。この過程の中で、希望が生まれます。また、逆に言えば、品性なくしては、希望はないといえます。
希望とは、将来の記憶。将来のこと、まだ実際に起きてないことが、良いことと信じること。
絶望をとおらなけば希望もない。本当に希望をはっきりと持っている人は、苦労していない人ではなく、実は、苦労している人であります。
キリストは、希望をもって、目の前の十字架をもろともせずに、従ったとへブル書に書いてあります。
へブル12:2 信仰の創始者であり、完成者でイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。looking unto Jesus, the author and finisher of our faith, who for the joy that was set before Him endured the cross, despising the shame, and has sat down at the right hand of the throne of God.
○聖霊によって
神の霊は、ギャップを埋める。こないだ聞いたレクチャーのなかでの話です。脳の神経、シナプスとシナプスはくっついていない。間が空いている。そのあいだがあるにも関わらず、感情、記憶、ホルモンの分泌など、必要な情報が伝わっていく。その学者は言いました。神は、初めからおられた。神は、そのギャップを埋める方だと。
私たちは、神様の働き方について分からない。
頭でわからないこと。霊によって感じながら試練の中をすごす。神様は、私たちが見えていない、ギャップの中ですでに、いつも働いておられるのです。
証し; キリストを信じているからということで、難しい状況に直面することが多かった。どうしていいか、分からなかった。言い返すのも違うし。心の中で一呼吸して、神様を呼んだ。ただ、祈った。その時、腹の底に熱いものがこみあげてきた。「私は神に愛されている」という強い確信がこみあげた。そして、二年後にすべてが益にされた。詳細は、音声にてお聞きください。
★神を喜ぶ生活へ shalom の確認
信仰ゆえの患難についての話からまた、シャロームに戻ります。いかに、キリストが私たちのシャロームを作ってくださったか、また、私たちは、どれだけ、神を喜んで生きているのかということの確認になっています。
V6-11
6 私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。7 正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。8 しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。9 ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらです。10 もし敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させられたのなら、和解させられた私たちが、彼のいのちによって救いにあずかるのは、なおさらのことです。11 そればかりでなく、私たちのために今や和解を成り立たせてくださった私たちの主イエス・キリストによって、私たちは神を大いに喜んでいるのです。For when we were still without strength, in due time Christ died for the ungodly. 7 For scarcely for a righteous man will one die; yet perhaps for a good man someone would even dare to die. 8 But God demonstrates His own love toward us, in that while we were still sinners, Christ died for us. 9 Much more then, having now been justified by His blood, we shall be saved from wrath through Him. 10 For if when we were enemies we were reconciled to God through the death of His Son, much more, having been reconciled, we shall be saved by His life. 11 And not only that, but we also rejoice in God through our Lord Jesus Christ, through whom we have now received the reconciliation.
今日は、パウロが、平安と喜びに挟まれた、患難のお話しをしてくれたと思います。すでに平安、シャロームに入れられた私たちですから、私たちがどんな、試練に会おうとも、神様とともに、耐え抜くときに、そこにまた、回復をもたらす力が働き、私たちを喜びから喜びに導いてくださる。
神様は、今日私たちにそのように語っておられるのではないでしようか。
ぼ
私の学校の学生ラウンジ。ご飯を食べたり、本を読んだり。。。とてもピースフルです。。。。
何とか、忙しい中、ジムに行きました。あれ、サウスレイクユニオンに、ゾカコーヒーが来てるーー!!! 嬉しいーー。今まで、グリーンレイクに行ってたんですよねー。しかし、アマゾニアンですごい賑わいです。列が、長いです。。。。。
2016年10月2日日曜日礼拝メッセージ音声は、https://youtu.be/F_QsVKWrqSU
先週は、ローマ三章からユダヤ人の誇り律法と義について話しました。今日は、義をもたらす信仰について話したいと思います。ローマ書四章では、主にアブラハムの人生に重ねてパウロは信仰について説明しています。
★義に導く信仰
○自分の限界を知る
ロマ4:5
5 何の働きもない者が、不敬虔な者を義と認めてくださる方を信じるなら、その信仰が義とみなされるのです。5 But to him who does not work but believes on Him who justifies the ungodly, his faith is accounted for righteousness,
この箇所を読んだときに、これまで三章読んでみて、以前と違うように聞こえました。「自分が、何の良い働きもしていない、不敬けんな者であると認めることができるか? 」ということです。ユダヤ人たちは、自分たちを敬けんな人間だととらえ、律法に従って良い行いをしていると自分たち自身を信じていたのです。信仰への始まりは、自分の限界を知り、自分に絶望することです。
○儀式・形式によらない、信仰は心を変えるものである
ロマ4:10
10 どのようにして、その信仰が義とみなされたのでしょうか。割礼を受けてからでしょうか。まだ割礼を受けていないときにでしょうか。割礼を受けてからではなく、割礼を受けていないときにです。10 How then was it accounted? While he was circumcised, or uncircumcised? Not while circumcised, but while uncircumcised.
アブラハムは、割礼を受けたので義と認められたのではありません。彼は、心で神様を信じたときに、義と認められました。私たちは、心の中のコンディションと外の形式をやったらないを混同してはなりません。心が変わらなければ、義とはならないのです。
私たちの場合で言えば、あなたが、もし宗教行事に定期的に参加していても、心が変わらなかったならば、意味がないのです。それは、人のせいにはできません
神様と自分との関係の中で吟味しなければなりません。よく受身的に、自分は恵まれないとか、もう教えられることはないとかいう方に出会いますが、真の霊の人は、どんな状況からでも学ぶことができる人です。母教会の牧師から教えられたことの一つ。。。高慢は、耳を閉ざすが一番の妨げ。
○信仰は私たちに約束を与える
ロマ4:13-14
13 というのは、世界の相続人となるという約束が、アブラハムに、あるいはまた、その子孫に与えられたのは、律法によってではなく、信仰の義によったからです。
14 もし律法による者が相続人であるとするなら、信仰はむなしくなり、約束は無効になってしまいます。13 For the promise that he would be the heir of the world was not to Abraham or to his seed through the law, but through the righteousness of faith. 14 For if those who are of the law are heirs, faith is made void and the promise made of no effect, 15 because the law brings about wrath; for where there is no law there is no transgression.
「大切なのは信仰・希望・愛だ」とⅠコリント13章にありますが、私たちが信じるとき、必ず受け取るものがあります。それは、希望です。希望とは、自分の将来・まだ見ないことをを信じることです。それは、神に対する信頼、初めて、心で「神様、あなたを心で信じます。私は、不敬けんなものです、律法も守れません。けれども、救いをもたらす神様を信じます。信頼して生きていきます。」というときに、必ず、将来へ約束である希望がもたらされます。アブラハムは、信じたので、世界の相続人となる約束が与えられました。まだ、子供がいない時にです。
○祝福の継承の約束
ロマ4:16
16 そのようなわけで、世界の相続人となることは、信仰によるのです。それは、恵みによるためであり、こうして約束がすべての子孫に、すなわち、律法を持って いる人々にだけでなく、アブラハムの信仰にならう人々にも保証されるためなのです。「わたしは、あなたをあらゆる国の人々の父とした」と書いてあるとおり に、アブラハムは私たちすべての者の父なのです。16 Therefore it is of faith that it might be according to grace, so that the promise might be sure to all the seed, not only to those who are of the law, but also to those who are of the faith of Abraham, who is the father of us all.
約束は、アブラハムの信仰に習っている人たちに及びます。アブラハムの信仰が彼だけの人生にとどまっていないところに注目しましょう。あなたの信仰は、周りを祝福するためにもあるのです。また、あなたの生き方を見て、信仰の道についてくる人が必ず起きるということです。
○外面的要因・人間の常識に左右されない
ロマ4:18-19
18 彼は望みえないときに望みを抱いて信じました。それは、「あなたの子孫はこのようになる」といわれていたとおりに、彼があらゆる国の人々の父となるためでした。19 アブラハムは、およそ百歳になって、自分のからだが死んだも同然であることと、サラの胎の死んでいることとを認めても、その信仰は弱まりませんでした。18 who, contrary to hope, in hope believed, so that he became the father of many nations, according to what was spoken, “So shall your descendants be.”19 And not being weak in faith, he did not consider his own body, already dead (since he was about a hundred years old), and the deadness of Sarah’s womb.
アブラハムもサラも年老いていました。常識では、赤ちゃんは生まれません。聖書は、「それでもかられの信仰は弱りませんでした。」とあります。信仰とは、外面的なコンディションによって左右されず、私たちの常識におさまらないことを覚えましょう。今、状況が悪くて、とても信じる気になれない人がいるなら、どうぞアブラハムに励まされてください。彼は、百歳でも子供が与えられると信じたのです。そして、それは、現実になりました!
○”それでも”信じるという信頼
ロマ4:21-24a
21 神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じました。22 だからこそ、それが彼の義とみなされたのです。23 しかし、「彼の義とみなされた」と書いてあるのは、ただ彼のためだけでなく、24 また私たちのためです。21 and being fully convinced that what He had promised He was also able to perform. 22 And therefore “it was accounted to him for righteousness.” 23 Now it was not written for his sake alone that it was imputed to him, 24 but also for us.
アブラハムは、自分の今の年齢や状況、いつまで待っても開かれないという事実よりも、神様にはそれでも成就する力があると、「堅く」信じました。私たちの信仰のチャレンジは、レイヤーになっています。初めは、自分が何の働きも無い者で不敬けんなものだと気づくところからです。信仰を持ち続けてもいろいろなチャレンジが人生の中にはあります。しかし、大変な状況の中でも、それでも、なお私は神様に信頼する! という強い姿勢が私たちには必要です。それこそ、本当の信仰だといえましょう。
自由意志/愛vs ご利益信仰
○イエス様を通して
ロマ4:24b-25
すなわち、私たちの主イエスを死者の中からよみがえらせた方を信じる私たちも、その信仰を義とみなされるのです。25 主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。It shall be imputed to us who believe in Him who raised up Jesus our Lord from the dead, 25 who was delivered up because of our offenses, and was raised because of our justification.
アブラハムは、キリストのいない時代にここまで信仰を貫きました。私たちには、キリストが与えられ、明らかにされています。考えてみると、アブラハムの時代に比べると、大きな恵みです。キリストに根差し、キリストと生き、キリストとともに死ぬ。キリストと共に生きる、そこに必要な助け励ましが聖霊様から来る。こんな、至れりつくせりなことはないでしょう。私たちは、キリストについて行く限り、義とされてるのです。
ぼ
日曜日の教会学校のボードです。子供たちが、聖書の言葉を覚えたり、お祈りしていることが、家庭にも反映しているようで、とても嬉しく思っています。教会学校に来たら、シールをご褒美で集めます。そして、教会学校の子供のお店で、お買い物ができます! 頑張れ、子供たち!
木曜日のロバの子スラスの一幕。。。J ちゃん。これでも、怒ったときの意思表示。口をとんがらがせます。。。しかし、怒っていること、あまり伝わらない。。。可愛すぎて。笑
2016年9月11日日曜日礼拝音声は、https://youtu.be/EZu1QSyXCNg
シリーズロマ書ですが。先週、一章では、ロマ書のメインテーマと、福音、義、そして、異邦人の罪について話しました。今日は、その続きです。続いて、人を裁く罪、ユダヤ人の罪と罪のお話しが続きます。義=正しさについて話すには、罪について話さないわけにはいられないからです。私たちは、みな正しくありたいという願望を心に持ちながら生きています。そして、それゆえに罪悪感に苦しんだりするわけです。人間の大きくの問題は、義に関することと言っても過言ではありません。
★ 人を裁く罪 ユダヤ人の罪The sins that judge others --- sins of Jew
ローマ2:1
ですから、すべて他人をさばく人よ。あなたに弁解の余地はありません。あなたは、他人をさばくことによって、自分自身を罪に定めています。さばくあなたが、それと同じことを行っているからです。
一章の終わりで、様々な罪のリストがありました。そして、続いて、人を裁く人よ。あなたに弁明の余地はありません。。。。と続きます。人を裁く人は、誰でも、自分を罪に定めているというのです。
◎ 裁きについて
私たちは、裁きについて甘く考えていることが多い。良いか悪いかを決める。審判する。また、人を罪に定めることであるが。聖書は、誰をも裁いてはいけませんと書いてあります。裁かれないためだ。。。とルカ七章。人にレッテルを貼ることも裁きです。『あの人は、ああいう人だから。。。』というのも裁きです。あなたが、人を審判することが裁きです。
二つの側面。
① The plank from your own eye, and you will see clearly the speck from your brother’s eye. Matt. 7:5 自分の目の梁、他人の目のちり マタイ7:5
人は、人のしている悪には気が付くけど、自分の悪には気が付かない鈍さをもっている。それは、高慢さから出ているとも言える。
② Sawing and reaping Gal. 6:7 種まきと刈り取りの法則ガラテヤ6:7
人は、種まきと刈り取りの法則ガラテヤ6:7の通りに、人を裁く通りに、自分も裁かれるようになる。(自分が裁きを下した人と同じことをして裁かれるようになる)
この法則も、神の知恵です。それは、裁かれることによって、自分を知り、悔い改めに導かれるからです。
ローマ2: 4, 5
4 それとも、神の慈愛があなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と忍耐と寛容とを軽んじているのですか。
5 ところが、あなたは、かたくなさと悔い改めのない心のゆえに、御怒りの日、すなわち、神の正しいさばきの現われる日の御怒りを自分のために積み上げているのです。
◎ Self-righteousness (自己義)
人の罪の中で、いくつか大きいもの、取り除きにくいもの。悪魔が大好きなものがあります。それは、赦さない罪と、自己義。です。分かりやすい、悪人のする罪、盗みや暴力と比べて、目に見えにくいものです。かえって上品に見えている人の方が、大きな罪を持っているのかもしれません。
自己義、という言葉があります。これは、自分がいろいろと神様の御用をやっているし、罪を犯していないから自分は正しい、義だと思っていることです。これは、大きな間違いです。義は、一章でちらりと話しましたが、信仰によります。自分からは出てこないのです。自分で自分を正しく保てるのなら、神様はいらないのです。
パウロは、言っています。「神の慈愛が私たちを悔い改めに導くことをあなたがたは知らないのですか」
私の証し;
神学校行きたてのころ、私は、自己義満載の人でした。献身者たるもの、こうあるべきだ、みたいな考えでいました。そして、クラスメイトを裁いていました。「この人は召されていない。自分の力でここにいる。召しでなく、自分で何かになろうとしている。事実、あれもしない、これもしないじゃないか。」といつも裁いていた。一学期中自分がしんどかった。その人を見ると辛いし、自分がイライラする。あるとき、朝、聖書を読んでいる時、1ヨハネ4:8 「愛のないものに神は分かりません。なぜなら神は愛だからです。」という言葉に出会いました。とても、ショックを受けました。自分の持っていると思っているもの、自己義について強く示されました。私たちは、自分の測りで他人を測り裁いていますが、神の測りは、どこまでも愛であり、その愛の測りのないものは、神を知ってはいないのだ。。。と語られたのです。私は、泣き崩れ、悔い改めました。私の、愛のなさ。愛のアプローチの無さに気が付いて、自分がされたらどんなに傷つくかということも思い知らされました。そして、悔い改めました。私は、自分の自己義の大きさにはっきり直面することとなりました。
◎裁く人たちへの解放の鍵
神様の慈愛に気付くこと。愛の測りを知ること。そして、悔い改めること。この二つは、私たちの盲目な霊の目を開かせます。開かせて、まず自分自身が見えるようになるのです。
★律法を知っているひとたちへPeople who know the law of God.
律法というのは、聖書のことでもあります。アブラハムが信仰を持ち、そして、神の人となり、その子孫たちがユダヤ人となりました。ユダヤ人にモーセを通して十戒が与えられ。また、モーセが神の書物を書きました。ユダヤ人たちは、律法を持つている=神の民 ということで、自分たちのことをとても誇りに思っていたのです。そして、自分たちは、その律法という「測り」を持って、周りを測り続けていました。
しかし、パウロは、そこをついて、
ローマ2:13
13 それは、律法を聞く者が神の前に正しいのではなく、律法を行う者が正しいと認められるからです。13 (for not the hearers of the law are just in the sight of God, but the doers of the law will be justified;
ローマ2:16
16 私の福音によれば、神のさばきは、神がキリスト・イエスによって人々の隠されたことをさばかれる日に、行われるのです。16 in the day when God will judge the secrets of men by Jesus Christ, according to my gospel.
「律法を聞いている人が正しいのではなくて、行っている人が正しいんですよ。」と主張します。そして、「自己義も、裁きの日に、人の目には隠れていたとしても、神様に裁かれるのですよ。」と。
★心の割礼circumcision is that of the heart
ローマ2:26-29
26 もし割礼を受けていない人が律法の規定を守るなら、割礼を受けていなくても、割礼を受けている者とみなされないでしょうか。27 また、からだに割礼を受けていないで律法を守る者が、律法の文字と割礼がありながら律法にそむいているあなたを、さばくことにならないでしょうか。28 外見上のユダヤ人がユダヤ人なのではなく、外見上のからだの割礼が割礼なのではありません。29 かえって人目に隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、文字ではなく、御霊による、心の割礼こそ割礼です。その誉れは、人からではなく、神から来るものです。
ユダヤ人と異邦人との大きな違いは、律法を持つか持たないかもそうですが、割礼もまた一つの違いです。割礼とは、神様との契約関係にあることを示し、男性の性器の一部を切り取るという儀式です。
しかし、割礼を受けていても、律法を行っていないなら、自分を裁くことになっていないか? というのです。ユダヤ人は、そもそも、人種でなく、アブラハムから始まった信仰を引き継ぎ、神様と関係のある人がユダヤ人なのですから、外見上のユダヤ人、人目に隠れたユダヤ人という言い方をしています。
文字ではなく、御霊による心の割礼こそ、割礼である。すなわち、神様に示され、心から悔い改めること、そこに聖霊様が働く、それこそ、本当の割礼であり、それは、人の業ではなく、神の業であり、神の栄光である。というのです。
二章、いかがでしたか? 今日は、自己義を取るか、神の愛の測りを取るか? ということだけ覚えていただけたらと思います。今週も神の愛にとどまりましょう。
ぼ
今週は、たくさんのホライズンファミリーがシアトルに里帰りしました。不思議です。まるでみどりさんのメモリアルに合わせるかのようにしてみなさんシアトル入り。礼拝では、ちえちゃんと、みわちゃんが証しをしてくれました。神様の愛に感動。感動。とてもパワフルな祈りの時にもなりました。こうしてシアトルの教会に帰ってきてくれること、私たちにとって大きな祝福です!!
2016年8月14日日曜日礼拝音声は、https://youtu.be/5J4-1lZ-V5Q
昨日は、私たちの愛するみどりさんのメモリアルサービスでした。昨日のメッセージを準備している中で思い浮かんだ言葉は、なんと、三年前のみどりさんの快気祝い証し会の時のみ言葉と全く同じでした。神様に、とらえられて、持ち運ばれたみどりさんの人生がみ言葉を指ししめしていたことを改めて覚えました。今日は、そのみ言葉の一つ詩篇23篇をご一緒にメディテイトしていきたいと思います。
詩篇23篇
主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。The Lord is my shepherd; I shall not want.
2 主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。He makes me to lie down in green pastures; He leads me beside the still waters.
3 主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。He restores my soul; He leads me in the paths of righteousness For His name’s sake.
4 たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。Yea, though I walk through the valley of the shadow of death, I will fear no evil; For You are with me;Your rod and Your staff, they comfort me.
5 私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。私の杯は、あふれています。You prepare a table before me in the presence of my enemies; You anoint my head with oil; My cup runs over.
6 まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。Surely goodness and mercy shall follow me All the days of my life; And I will dwell in the house of the Lord Forever.
この詩篇は、イエスキリストの十字架を示す詩篇22篇と、再び来られるイエス様を指し示す、詩篇24篇に挟まれています。詩篇23篇は実に、今ある私たちのためのイエス様と私たちの生き方を指示しています。
羊について;
羊はよく聖書の中で人間に例えられています。羊は、人間と同じように野生の羊というのはいません。みな、世話されないと生きてけません。一匹オオカミならぬ、一匹羊というのは、存在せず、群れをなして生活します。羊は、視力が非常に弱く、あまり見えていません。近いくしかみえないのだそうです。だから、導き手が必要なのです。そして、非常に臆病です。また、牙もなく、強いところはないので、簡単に外敵に食べられてしまいます。だから、羊飼いに守られる必要があります。犬などは、よく捨てられても、家に数日したら帰ってきたり、ということがありますが、羊は、そういう方向感覚とか、来た道を帰るなどということが出来ず、迷いやすいものです。
羊飼いというのは、そんな羊を大切にし、羊の気持ちになって導いているのだそうです。羊飼いは、夜寝るときには、自分が門となって眠ります。
V1 主は私の羊飼い。私は乏しいことがありません。
羊の説明からも、羊には、羊飼いがいなければ、えらいことになるということがわかりましたね。詩篇23のはじめに、「主は、私の羊飼い。」とあります。「私の」羊飼いとあるとおりに、羊飼いとの個人的な出会いが私たちには、必要です。私たちは、迷いやすく、また弱いので、守ってくれる羊飼いが必要なのです。でも、誰が私の羊飼いか、知らなければ、さらに迷ってしまいます。
あなたの羊飼いは、誰でしょうか? あなたは、私の羊飼いと言える方にもう出会いましたか?
V2 主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。He makes me to lie down in green pastures; He leads me beside the still waters.
人にはみな名前があります。そして、私は、個人的にそれらの名前は、神様から来ていると信じています。みどりさんの名前は、いつも、この場所から取られたのだと思っています。神様は、目が見えず、方向音痴で、どこに私たちを生かす食べ物かわからない私たちをちゃーーんと、導いて、そして、豊かなみどりの牧場で十分食べさせてくださるかたなのです。肉体的にも、霊的にも養ってくださいます。
V3 主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。He restores my soul; He leads me in the paths of righteousness For His name’s sake.
病は、気からという言葉がありますが、私たちの心に元気がないと、体まで病気になってしまいます。また、いくら体が元気でも、心が元気でないなら、私たちは、何をしてもうまく行きません。みどりさんは、最後の三か月、大変解放されました。癒しを経験し、解放を経験しました。それも、神様の御名のために、イエス様がそう導かれたのです。義の道というのは、神にあって正しい道。イエス様の道です。神との和解、人との和解、自分自身との和解の道です。その道は、赦しの道であり、赦された喜びの道であり、心の問題の清算の道です。私には、負いきれない心の問題だ。しこりだと思うことがあるかもしれません。しかし、御名のために、それがなされます。あなたにかかっているのではなく、神の上にその責任がかかっているのです。神はまた、あなたをそうして義の道に導き自由にしたいと思っておられるのです。
4 たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。Yea, though I walk through the valley of the shadow of death, I will fear no evil; For You are with me;Your rod and Your staff, they comfort me.
みどりさんは文字通り死の陰の谷を肉体的にも精神的にも通られた方でした。しかし、そんな中で、ともにいて下さるイエス様を見つけられました。がんの治療をしている時から、私はもうすべて神様にお任せしているの。。。とおっしゃっていました。
あなたのむちとあなたの杖。。。。羊は、物覚えも悪いので、あらぬ方向に行ったりしてしまいます。そんなとき、目の見えない羊に、羊飼いは、ピシッとむちをやります。そっちじゃないよ、こっちですよ。と。また、アンルーリーな羊には、ぐいっと杖で首根っこを引っ張り引き寄せます。どうしょうもないおてんば、暴れん坊には、仕方なく、足を折って、肩に担いで旅を続けたりします。崖から落っこちたり、群れから外れてオオカミに食べられるよりは、けがをさせても、羊飼いの肩に担がれて運ばれている方が安全だからです。
近視眼の私たちは、痛みを嫌がったりしますが、ダビデは、主の矯正は、慰めである。とさえ言っています。
5 私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。私の杯は、あふれています。You prepare a table before me in the presence of my enemies; You anoint my head with oil; My cup runs over.
自分に敵がいる時ほど、心が落ち着くことはありません。食欲だってありません。戦いの時は、いつも腰を落ち着かすこともできません。しかし、この個所は、当時のミドルイーストの客のもてなし方だそうです。私たちの羊飼いイエス様は、戦いの最中にあっても、私たちのために、食事を用意し、仕え、そして、私たちを歓迎いて、客人のもてなしの一つである、頭に油を注いでくださるのです。そして、私たちの人生は、私たち主導の、いつも戦いの中で、切るか切られるかの、striving なものではなく、主にあっては、主がすべてを握っておられて、また祝いのパーティの席の様だというのです。
あなたは、何に対して、がんばって戦っていますか? これは、主の戦いであって、主がすべてをカバーしてくださってることを知りましょう。
6 まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。Surely goodness and mercy shall follow me All the days of my life; And I will dwell in the house of the Lord Forever.
羊飼いは、先頭をきって普段は羊を導いているようですが、私たちの羊飼いは、後ろからも追いかけてくる羊飼いです。私たちは、神様の声を無視して、神様から離れて忙しくしてしまうことがありますが、神様は、いつもいつくしみと恵みをもって私たちの後ろを追いかけてまでくれる方です。どこまでも、神様主導の祝福の道なのです。
みどりさんも、天の永遠の家に帰りました。永遠にいつまでも、主の家に入られました。私たちもこの恵みの家に住まいましょう。
もう一度いいます。誰があなたの羊飼いでしょうか?
主はわたしの羊飼い。私は乏しいことがありません。 主との個人的な出会いをまず求めましょう。また、日々求めていきましょう。
ぼ
土曜日は、エリックのお父さんの誕生日を祝いにギッグハーバーまで行きました。88歳です!!!! 相変わらず、ジョークばっかり言っていました。本当に、ユーモアの塊のような人です。
いつも私たちのカードを声を出して読み上げます。今年は、天眼鏡を持ち出して読みました。。。
健康に気をつけているので、ミニカップケーキにろうそくを立てて、エリックが歌いました。甘いものに目がなく、ぺろりと一口! 今年も元気でよかったー。。。120歳まで生きてね、なんて話しながら、レストランでハンバーガーをぺろりとこれもまた食べました。さすが!
2016年4月24日日曜日礼拝音声は、https://youtu.be/Eld7MNzCVvE
使途1:3-11
イエスは苦しみを受けた後、四十日の間、彼らに現れて、神の国のことを語り、数多くの確かな証拠をもって、ご自分が生きていることを使徒たちに示された。4 彼らといっしょにいるとき、イエスは彼らにこう命じられた。「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。」5 ヨハネは水でバプテスマを授けたが、もう間もなく、あなたがたは聖霊のバプテスマを受けるからです。」6 そこで、彼らは、いっしょに集まったとき、イエスにこう尋ねた。「主よ。今こそ、イスラエルのために国を再興してくださるのですか。」7 イエスは言われた。「いつとか、どんなときとかいうことは、あなたがたは知らなくてもよいのです。それは、父がご自分の権威をもってお定めになっています。8 しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」9 こう言ってから、イエスは彼らが見ている間に上げられ、雲に包まれて、見えなくなられた。10 イエスが上って行かれるとき、弟子たちは天を見つめていた。すると、見よ、白い衣を着た人がふたり、彼らのそばに立っていた。11 そして、こう言った。「ガリラヤの人たち。なぜ天を見上げて立っているのですか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たときと同じ有様で、またおいでになります。」
先週は、復活のイエス様が再びペテロを召しだすところを読みましたが、今週は、復活のイエス様がみんなの見ている前で、天に帰ってかれる様子から学んで行きたいと思います。
私たちクリスチャンは、イエス・キリストの十字架の苦しみと死と葬りと蘇りを信じています。そして、バプテスマを受けます。水の中が死とし、水からでることで蘇りの新しい命を得たものと象徴します。そのことで、自分の信仰を明らかにし、そして、キリストと一つにされたことを宣言します。
しかし、一つ強調することを忘れている重要な点があります。それは、イエス様の昇天についてです。
私たちは、キリストとともに十字架につけられ、死に、葬られ、そして、復活しました。ガラテヤ2:2もはや私が生きているのではなく、キリストを信じる信仰によって生きているのです。そしてまた、信じるものは、キリストの昇天とも一つにされているのです。Co-crucified, co-buried, co-resurrected and co-ascended!
エペソ2:6
キリスト・イエスにあって、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。and raised us up together, and made us sit together in the heavenly places in Christ Jesus,
キリスト者の権威の回復のために、キリスト者が弱々しく生きるのでなく、強く雄々しく生き、主の働きをするには、この昇天の意味をしっかりと知っておく必要があります。
★ キリストは王となられた
イエス様は、四十日間、神の国について語られました。弟子たちは、イスラエルの国の再建のことが頭にありました。。。
V5-7 「主よ。今こそ、イスラエルのために国を再興してくださるのですか。」7 イエスは言われた。「いつとか、どんなときとかいうことは、あなたがたは知らなくてもよいのです。それは、父がご自分の権威をもってお定めになっています。, “Lord, will You at this time restore the kingdom to Israel?” 7 And He said to them, “It is not for you to know times or seasons which the Father has put in His own authority.
しかし、イエス様は、天で御座に着き王となりました。神の国の王です。
エペソ1:20,21
神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました。」which He worked in Christ when He raised Him from the dead and seated Him at His right hand in the heavenly places, 21 far above all principality and power and might and dominion, and every name that is named, not only in this age but also in that which is to come.
★ 私たちは、その国民となった
ピリピ3:20
私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます」For our citizenship is in heaven, from which we also eagerly wait for the Savior, the Lord Jesus Christ,
私たちは、キリストの王国の市民です。
ルカ17:20-21
さて、神の国はいつくるのか、とパリサイ人たちに尋ねられたとき、イエスは答えて言われた。「神の国は、人の目で認められるようにして来るものではありません。21 『そら、ここにある』とか、『あそこにある』とか言えるようなものではありません。いいですか。神の国は、あなたがたのただ中にあるのです。」Now when He was asked by the Pharisees when the kingdom of God would come, He answered them and said, “The kingdom of God does not come with observation; 21 nor will they say, ‘See here!’ or ‘See there!’ For indeed, the kingdom of God is within you.”
★ 神の国民としてのしるし
御使いは、言いました。あなた方が見たように、イエス様は再び来られると。。。
This same Jesus, who was taken up from you into heaven, will so come in like manner as you saw Him go into heaven.
私たち、信じるものたちは、イエス様の昇天から再臨まで、どうしたらいいのでしょうか。
天に上がられる、イエス様を夢中になってみていた弟子たちは、今回ばかりは、イエス様が去られたことで、消沈せず、イエス様の言われたことに希望を持って待ち望んだようです。。。
私たちの役割は、違う箇所で、上への召しとも、高い召しともいわれていますが、神の国をひろげていくことです。神の国とは、住所、場所とは関係ありません。それは、あなたの只中にあります。あなたから始まるのです。
◎父の約束
水のバプテスマと聖霊のバプテスマ
イエス様は、言われました。父の約束が来るとどうなるのか。。。七節から、国の再建を考えてるが、本当の国とは、神の国であり、それは、聖霊が神の国民のしるしである。
V8 しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」But you shall receive power when the Holy Spirit has come upon you; and you shall be witnesses to Me in Jerusalem, and in all Judea and Samaria, and to the end of the earth.”
私たちには、二つのバプテスマがあります。水と、聖霊。水は、入信を公にし、神と人の前に証しします。そして、キリストの死と葬りと復活と一つにされます。
また、聖霊のバプテスマは、聖霊が望まれると、力を受けると書かれています。文字通り、まず恐れがなくなり、そして、神の霊に満たされ、喜びがあふれだし、とめることのできない喜びが流れ出します。また、神様の心が分かるようになり、罪に対して敏感にとぎすまされます。また、預言を初めとした、聖霊の九つの賜物が求めに応じて与えられます。聖霊様、すなわち、イエスの霊とともに、王と心を一つにして、御国のために働くのです。こうして、地の果てはてまでに福音が到達し、神の国が広がっていくのです。
それは、目に見える国ではなく、あなたの只中、人々の中に確立されていきます。
◎イエスの御名
イエス様は、御座につかれ、天にも地にも一切の権威があります。私たちは、イエスの御名が与えられました。この一番高い御名で祈り、そして、ミニストリーをするのです。イエスの権威は、今や私の権威となったのです。
私たちも、ペテロのように、金銀はわたしにはない、しかし、私にあるものをあげよう。イエスの御名によって! と大胆にミニストリーができるのです! ハレルヤ!
ぼ
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