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関先生ご夫妻とはじめ君(高校2年)
5時間を要して愛知県春日井市へ。
そこにあるCOG春日井市教会で翌日の礼拝に備えるためです。
関先生ご夫妻が極上のお料理を用意して待っていてくださった。
ご子息のはじめくんとは、彼が赤ん坊の時にお会いして以来の再開となる。
関先生とは十数年振りの水入らずの再開ともなって、
話すことが多岐に渡って尽きることがない。
スーパー銭湯へも連れて行ってもらいながら話し込んでいると
帰りは午前様となっていたようだった。
「ぶどう園のたとえ話」①
マタイ20章1~ 16節
~マタイ福音書連続講解説教53~
聖書本文とメッセージノートはこちらから:
http://wdx.hosannamin.org/whatsnew/view/011653
20章の分解を「天の御国」をキーワードに整理すると次のように分解できる。
1~16:ぶどう園のたとえ話 ~天の御国の賃金形態
17~19:主イエスの受難予告 ~天の御国のプログラム
20~28:ゼベダイの母の懇願 ~天の御国の地位
29~34:二人の盲人のいやし ~天の御国の恵み
今回は有名なぶどう園で働く労務者たちのたとえ話であるが、
ここのメッセージを汲み出すために、意外な話の展開点に着目する。
1 5時に雇われた者の喜び
能力別に雇用される5つの階層があった。
明け方6時、9時、12時、3時、そして夕刻の5時に主人から声をかけられて
ぶどう園へ派遣されて働く日雇い労務者の話である。
夕方5時まで仕事せずに市場をウロウロしているのは、
「誰も雇ってくれないから」(7節)という理由であった。
働きたくともあぶれてしまった者たちの悲しさ、悔しさはいかばかりであろうか。
現在も就活に苦労している若者たちが世界中に溢れている。
日没までわずか1時間しかないのに声をかけてくれたものがあった。
5時からの労務者を雇うなんて、今でも当時でも有り得なかった話の展開である。
「あたながたも、ぶどう園に行きなさい」~意外性①
彼はその1時間を賃金のために働かなかったはずである。
声をかけてくれた主人への感謝の気持溢れる労働となったはずであった。
ここに、自分の行い・実績や能力に頼る者(朝早くから雇われた者)と
主のあわれみだけに頼る者との違いが見られる。
2 早くから働いた者の不満
「一日中、労苦と焼けるような暑さを辛抱したのです」(12節)
行列の先頭で1時間しか働かなかったものが1デナリを得ているのを見て、
朝6時から10時間以上も働いた者はもっと多くの報酬があると期待するが、
報酬をもらう番になったとき得たのは同じ1デナリであった。
彼は不満いっぱいで主人に詰め寄って言ったのが冒頭の言葉である。
当時のぶどう棚は足元に広がっていた。
それで文字通り「焼けるような暑さ」の日射を全身に受けて重労働を耐えたのだ。
5時に雇われた者と比較したら、彼らは汗さえ流していない。
なぜ同じ報酬なのだ!~意外性②
しかしこの点にこそ、
「天の御国」がこの世にある原理とは異なるもので回転していると
教えるたとえ話のポイントがある。
「より大きな犠牲を払ったものが、より大きな報酬を得るのがフェアであり、
現実の労働世界は、実力・実績主義であるか、年功序列主義である」というのが、
この世の世界の価値観。
人間理性に実に納得しやすい。それは地に属する原理だからである。
ところが、天に属している原理はそうではない。
だから分かり難い。
それゆえ、聖書から啓示されている真理を学ぼうとしない限り
発見できない原理なのだ。
この世のどこにもないのだから。
3 気前の良い主人の言葉
「ただ私としては、この最後の人にも、あなたと同じだけ上げたいのです。
自分のものを自分の思うようにしてはいけないという法がありますか。
それとも、私が気前がいいので、あなたの目にはねたましく思われるのですか。」
(マタイ 20:14-15)~意外性③
「気前がいい」=「アガソス」(19:17)~19章にある青年との会話から、
永遠のいのちの報酬に関する教えの延長線上にこのたとえ話があるのが分かる。
このアガソスとは、神にのみ用いられる「尊い」、「美しい」
という意味の語句(19:17)である。
神の究極的な気前の良さは、
我等の救いために最も大切なひとり子を与えられたことの中にある。
この言葉は、天の御国での報酬の原理原則を教えるものとなった。
気前良く報酬を5時からのものに与えられた。
朝から働いたものにも不正はされていない。約束通りのものを与えたのである。
もしあなたが天国での報酬目当てに奉仕をしているとしたなら、
そして人の評価も得られる「先の者」であり、
朝早くから働いている能力も実績もある人なら、
おめでとうございます。
あなたはいままでのあなたの賜物と時間とを神の国のために投資して来ました。
そしてその間、主とともに有意義な時を過ごして来たのです。
やがての時、その投資に見合うリターンを主から受け取ることが出来ます。
もしあなたが箸にも棒にも引っかからなかった「後の者」であり、
夕方5時になるまで仕事にあぶれていて
最後の段階になって主から声をかけられたのなら、
あなたの視線は報酬ではなく、主人にあるはずです。
そして感恩の情に溢れて奉仕をしていることでしょう。
おめでとうございます。
あなたはご自身の無用さを充分に認識しながら、
奉仕も人生もただ主の恵みゆえであるのを知っています。
やがての時、与えられる報酬の大きさに驚かれることでしょう。
私たちの主は、私たちの想像を超えて遥かに気前のよい方でございます。
「私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、
どうして、御子といっしょにすべてのものを、
私たちに恵んでくださらないことがありましょう。」
(ローマ8:32)
❻罪を明らかとする役割
「 さて、私たちは、律法の言うことはみな、
律法の下にある人々に対して言われていることを知っています。
それは、すべての口がふさがれて、全世界が神のさばきに服するためです。
なぜなら、律法を行うことによっては、
だれひとり神の前に義と認められないからです。
律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです。」
(ローマ 3:19-20)
「律法によって誰も義に至ることはない」ということは、
律法は罪の知識を人に提供するものであり、
罪とは一体何であるかを示す役割を持つものなのである。
さらに、違反行為を明らかとする役割を担うこととなった。
「律法が入って来たのは、
違反が増し加わるためです。
(ローマ 5:20)
律法は何が許される行為であり、
何が許されない行為であるかの詳細を教えているので、
人はその境界線を踏み越えた時に罪を認識できる。
その境界線として、律法の613が明確としてあるのである。
❼人がさらに罪を犯す機会を与える役割
「律法が入って来たのは、
違反が増し加わるためです。
しかし、罪の増し加わるところには、
恵みも満ちあふれました。 」
(ローマ 5:20)
「肉の性質」つまりは罪の性質とは橋頭堡を必要としている。
さらには罪の性質は、律法を橋頭堡として利用してしまうのである。
「律法のないところには違反もない」とパウロが教えた時、
それは律法が与えらる以前には罪がなかったと言っているのではない。
「違反」と訳されている言葉は、罪のある具体的な側面を現すものである。
律法が与えられる以前から人は罪人であったが、律法の違反者ではなかった。
違反であると測定させる基準がないのだから。
ところが律法がやってきた途端、
罪の性質は橋頭堡を得たこととなり、
人はこれらの違反を犯し、さらなる罪を犯すものとなった。
❽神の義に到達できないことを示す役割
「14 私たちは、律法が霊的なものであることを知っています。
しかし、私は罪ある人間であり、売られて罪の下にある者です。
15 私には、自分のしていることがわかりません。
私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、
自分が憎むことを行っているからです。
16 もし自分のしたくないことをしているとすれば、
律法は良いものであることを認めているわけです。
17 ですから、それを行っているのは、もはや私ではなく
、私のうちに住みついている罪なのです。
18 私は、私のうち、すなわち、
私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています。
私には善をしたいという願いがいつもあるのに、
それを実行することがないからです。
19 私は、自分でしたいと思う善を行わないで、
かえって、したくない悪を行っています。
20 もし私が自分でしたくないことをしているのであれば、
それを行っているのは、もはや私ではなくて、私のうちに住む罪です。
21 そういうわけで、私は、善をしたいと願っているのですが、
その私に悪が宿っているという原理を見いだすのです。
22 すなわち、私は、内なる人としては、神の律法を喜んでいるのに、
23 私のからだの中には異なった律法があって、
それが私の心の律法に対して戦いをいどみ、
私を、からだの中にある罪の律法のとりこにしているのを見いだすのです。
24 私は、ほんとうにみじめな人間です。
だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。
25 私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。
ですから、この私は、心では神の律法に仕え、
肉では罪の律法に仕えているのです。」
(ローマ 7:14-25)
自分だけで人は神を喜ばすことはできないことや
律法を完全に守ることができないことを明らかとするのがモーセ律法である。
❾これらの役割が人をメシアへの信仰へと導く
「こうして、律法は私たちをキリストへ導くための私たちの養育係となりました。
私たちが信仰によって義と認められるためなのです。
しかし、信仰が現れた以上、私たちはもはや養育係の下にはいません。」
(ガラテヤ 3:24-25)
❻〜❽は必然的に人を律法の持っている最後の役割へと導く。
それは自力救済に失望した者を救いの信仰、メシア信仰へと導くのである。
❺イスラエルと異邦人とを分け隔てる中垣の壁となった
「 11 ですから、思い出してください。あなたがたは、以前は肉において異邦人でした。すなわち、肉において人の手による、いわゆる割礼を持つ人々からは、無割礼の人々と呼ばれる者であって、
12 そのころのあなたがたは、キリストから離れ、イスラエルの国から除外され、約束の契約については他国人であり、この世にあって望みもなく、神もない人たちでした。
13 しかし、以前は遠く離れていたあなたがたも、今ではキリスト・イエスの中にあることにより、キリストの血によって近い者とされたのです。
14 キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、
15 ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。敵意とは、さまざまの規定から成り立っている戒めの律法なのです。このことは、二つのものをご自身において新しいひとりの人に造り上げて、平和を実現するためであり、
16 また、両者を一つのからだとして、十字架によって神と和解させるためなのです。敵意は十字架によって葬り去られました。」
(エペソ 2:11-16 )
モーセ律法はイスラエルを異邦人から隔てる壁の役割を果たした。
それゆえ異邦人は、
神の物質的なものでも霊的なものでもあらゆる祝福を受け取れなかったのである。
その祝福とは
イスラエルに対して与えられた4つの無条件契約を通じて流れ出てくるものであるが、
その流れを異邦人へいたるにストップさせる中垣となったのが
モーセ律法なのである。
12節にある「約束の契約」とは複数形であり、
その4つの無条件契約を意味している。
この無条件契約に一つ加算されたのが条件付きの契約のモーセ契約である。
モーセ契約にはモーセ律法が含まれていて、
15節ではそれが「さまざまな規定」「戒めの律法」であると紹介されてある。
それで律法の目的として、
異邦人が異邦人のままではユダヤ人に与えられている霊的な祝福を享受できない隔ての中垣となったことが示されてある。
この目的ゆえに異邦人は
「イスラエルの国から除外されて」
「約束の契約については他国人」
となった。
律法時代に、
異邦人がユダヤ人の霊的な祝福を楽しむための方法はたった一つしかなかった。
すなわちそれは、
律法のすべての義務を自分自身に課し、
割礼を受けて、
ユダヤ人の祭りや習慣のあらゆる特異な生活習慣に
倣わねばならなかったのだ。
主イエスが
「ご自分の肉において、敵意を廃棄」
(十字架による肉体の死)
されるまでは、
異邦人は異邦人として霊的な祝福を受けることができず、
ユダヤ教に改宗せねばならなかったのである。
❷旧約聖書時代の聖徒の行動規範となった
「人が義と認められるのは、
律法の行いによるのではなく、
信仰によるというのが、
私たちの考えです。 」
(ローマ 3:28)
この聖句が教えているのは、
律法を守ることによって誰一人神の義に到達できないことであり、
救いの手段として律法があるのではないこと。
律法の役割は他にあった。
それは生活の指針を与えるためであった。
旧約聖書時代の信者にとって律法は信仰生活の中心であり、
魂の喜びでもあったのである。
詩篇119:77,97,159.
❸個人的にも、民族的にも礼拝の場を備えるものとなった
レビ23章には、7つのイスラエルが守るべき聖なる祭りについて記されてある。
❹ユダヤ人を特異な民族とするため
食物規定や衣服規定などに見られるように、
律法には多くの部分でユダヤ人を他の民族とは異なる生活様式に
導く役割があった。
ユダヤ人の特異さは、
礼拝様式(レビ1ー7章)、
食事様式(レビ11:1-47)、
性生活(レビ12章)、
衣服様式(レビ19:19)、
そしてヒゲの切り方にまで(レビ19:27)
現されていた。
❶神のきよさを明示する。
人と関係を保つために要する神の義の基準を明示する目的がある。
1 ついで主はモーセに告げて仰せられた。
2 「イスラエル人の全会衆に告げて言え。
あなたがたの神、主であるわたしが聖であるから、
あなたがたも聖なる者とならなければならない。
(レビ19:1-2)
15 あなたがたを召してくださった聖なる方にならって、
あなたがた自身も、あらゆる行いにおいて聖なるものとされなさい。
16 それは、「わたしが聖であるから、あなたがたも、聖でなければならない」
と書いてあるからです。
(Ⅰペテロ1:15-16)
律法はきよく、正しく、良いものなので
そのような機能を本来具備していることになる。
ですから、律法は聖なるものであり、戒めも聖であり、
正しく、また良いものなのです。 (ローマ7:12)
これからしばらくモーセ律法の現代的な意義について考察して見ようと思う。
これまでモーセ律法がメシアの死と同時に破棄され、現在ではどんな個人
(ユダヤ人・異邦人を問わず)の上にも従うべき権威としては機能していない事を
7つの聖書記事を考察しながら証明して来た。
(それらの記事は本稿の「救済」タグをクリックしてもらうと抽出出来る)
「それでは、もはや旧約聖書は無用の長物ということか?」
「聖書は「永遠の神のことば」ではなかったのか?」
想定されるそのような疑問にお答えしていこうと思う。
モーセ律法の遵守すべき権威は無効となっても、
モーセ律法の目的は廃れてなく、現在も有効である。
それゆえ旧約聖書も依然として私たちが学ぶべき永遠の神の言葉である。
そのモーセ律法の目的として9つを上げることができる。
その9つを4つのカテゴリーに整理しながら解説して行きます。
①神との関係から
②イスラエルとの関係から
③異邦人との関係から
④罪との関係から
「永遠の命を得るには②~神の賜物である」
マタイ19章23~ 30節
~マタイ福音書連続講解説教52~
聖書本文とメッセージノートはこちらから:
http://wdx.hosannamin.org/whatsnew/view/9233052
ペレヤ伝道においては、「神の国」に関する主の教えが多くなります。
上京後のエルサレムで主イエスがメシア王国を樹立するはずだ、
という人々の期待値がウナギ登りだからです。
ペテロはメシア王国での自分たち12使徒の地位が気になり、
率直に主に尋ねました。
そのとき、ペテロはイエスに答えて言った。
「ご覧ください。私たちは、何もかも捨てて、あなたに従ってまいりました。
私たちは何がいただけるでしょうか。」
(マタイ19:27 )
主もまた、やがて到来しようとしているメシア王国での様相を
ペテロに率直に話して聞かせました。
「世が改まって人の子がその栄光の座に着く時、
わたしに従って来たあなたがたも十二の座に着いて、
イスラエルの十二の部族をさばくのです 。」( 19:28 )
❶千年王国(メシア王国)の始まり
それは、メシアなるイエスがエルサレムで王座に着座する時に始まる 。
詩篇2:6~8、ルカ1:30~33
ダビデ契約がイエスが全世界の王となることを約束している。
Ⅱサムエル7:12~16
メシアによる統治は、民主形態ではなく専制君主制による統治である。
詩篇24:7~10
その統治の特徴として次の事を挙げることができる(詩篇72:1~19)。
•公正と正義であり、罪のないものは義とされ、罪びとは裁きを受ける(1~7)
•王の統治は普遍的で、イスラエルを越えて全世界に及ぶ(8~11)
•王は「鉄の杖」で統治して不義を正される(12~15)
•豊かな生産の約束(16)
•王による祝福と、人々の王への賛美(17~19)
❷異邦人部門の統治
メシアとともに世界を統治する聖徒たちのグループがいる(黙示20:4~6)
「また私は、多くの座を見た。彼らはその上にすわった。
そしてさばきを行う権威が彼らに与えられた。①
また私は、イエスのあかしと神のことばとのゆえに
首をはねられた人たちのたましいと、②
獣やその像を拝まず、その額や手に獣の刻印を押されなかった人たちを見た。③
彼らは生き返って、キリストとともに、千年の間王となった。
そのほかの死者は、千年の終わるまでは、生き返らなかった。
これが第一の復活である。」 (黙示20:4-5)
そのグループを3つに分けることができる。
①携挙された教会時代の聖徒たち(4前半)
〜これら教会時代の聖徒たちは大艱難時代前の携挙で復活する。Ⅰテサ4:16
ここでの「裁き」とは、メシアの御座での裁きであり、
それは聖徒たちのおこなった業の評価であり、
これで御国での地位が決まる
②大艱難時代前半に殉教の死を遂げた聖徒たち(4半ば)
第5の封印箇所にも彼らへの言及がある(黙示6:9~11)
③大艱難時代後半に殉教の死を遂げた聖徒たち(4後半)
復活の時期について
•教会時代の聖徒たちは大艱難時代前の携挙で復活する。Ⅰテサ4:16
•旧約時代の聖徒(イザ26:19、ダニ12:2)と大艱難時代の聖徒は、
千年王国の直前に復活する。
•それは75日間の千年王国に至る中間期・移行期である(ダニエル12:11~12)
❸ユダヤ人部門の統治
王として、主イエスの下にダビデがいる。 エレ30:9、エゼ37:24~25
12部族を統治する12使徒
•メシアがダビデの王座に着く時、12の王座が立てられて12使徒が着座する
•12使徒たちはメシアの食卓に着き、王座からそれぞれ特定の部族を統治
ルカ22:28~30
イスラエルは異邦人諸国の上に立ち、イスラエルの僕となる。
諸国はイスラエルを約束の国に導く働きをする。イザヤ14:1~2
統治系統としては、
メシア→ダビデ→12使徒→首長やさばきつかさたち(イザ32:1、イザヤ1:26)
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