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つれづれなるままに

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安息日と日曜日の考察❸

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第3回目〜聖書は何と教えているか

先回は新約聖書の記述から
初代教会では日曜日に礼拝をしていなかった例を見た。

ここからも教えられることは、
現在のそれぞれの地域教会には
礼拝のための日時を定める自由があり、
一律のものを聖書が定めてはいないということ。

日曜日午前中でももちろん構わないし、
金曜日の夜でも、
いつでも良い事になる。

米国のある有力・巨大なキリスト教団体は、以下のような声明を公表している。

「初代教会では、ユダヤ人も異邦人も、
安息日(土曜日)に代わって主の日(日曜日)に礼拝を行って来た確かな証拠がある。
ゆえにクリスチャンには、
旧約聖書の安息日規定を日曜日に位置変化させねばならない、
嗜好的、都合的、情緒的以上の正当な理由がある」

この声明文は、歴史的に見て誤りと言わざるを得ない。

4世紀までのユダヤ人信者たちは、
日曜日ではなく、
安息日が終わった土曜日の夜に集まって礼拝を行っていた確かな記録が
イスラエルにも、それ以外の地中海諸国のどこからでも見出されている。

異邦人クリスチャンは2世紀頃から日曜日に礼拝をしていたようだ。

初代教会のメンバーは当初、ほとんどがユダヤ人であった。

彼らは主イエスをメシアとして受け入れて以降もユダヤ性を捨てていない。

安息日にシナゴーグに集まり、
日没後のその日の土曜夜に
イエスを信じる者たちの群れに加わっていたのである。

また、神学的に見ても誤りである。

日曜日が「主の日」であると言及されている箇所は、聖書に一つも無いからである。

礼拝の日を変えたり、あるいはそれが特定されるための「確かな根拠」
は聖書のどこにも見い出されないのである。

最後にパウロの安息日に関する教えを紹介したい。


「9 ところが、今では神を知っているのに、
いや、むしろ神に知られているのに、
どうしてあの無力、無価値の幼稚な教えに逆戻りして、
再び新たにその奴隷になろうとするのですか。

10 あなたがたは、
各種の日と月と季節と年とを守っています。」
(ガラテヤ 4:9-10 )

ガラテヤ書全体の文脈からして、
議論の中心はモーセ律法であるのは明らかである。

2:16,19、3:2,5,10-29、4:4-5,21、5:3-4,14、6:13

「月」とは、新月の祝い

「季節」とは、イスラエルの7つの聖なる季節の祝い

「年」とは、安息年、特に50年目のこと

「日」とは、安息日のことである。

ここでパウロは明確にこれらの価値を否定している。

それらは救いのための方法でもないし、信者が守るべき生活習慣でもないのである。


(これまでの投稿は、「救済」タグをクリックしてください)
#救済

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安息日と日曜日の考察❷

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第2回目〜「主の日」について

先回はキリスト教会の主流が

「旧約聖書の安息日規定は、
新約時代の日曜日と入れ替わった」

と考えていることを紹介した。

それでは、歴史的にキリスト教会が産声を上げた初期の頃を概観してみよう。

2世紀には、キリスト教会が日曜日を礼拝の日としていたのは確かである。

また同時に、パウロが建てあげて行った1世紀のキリスト教会では、
「週の初めの日」に礼拝が行われていたのも確かである。

「7 週の初めの日に、私たちはパンを裂くために集まった。
そのときパウロは、翌日出発することにしていたので、
人々と語り合い、夜中まで語り続けた。

8 私たちが集まっていた屋上の間には、
ともしびがたくさんともしてあった。

9 ユテコというひとりの青年が窓のところに腰を掛けていたが、
ひどく眠けがさし、パウロの話が長く続くので、とうとう眠り込んでしまって、
三階から下に落ちた。抱き起こしてみると、もう死んでいた。

10 パウロは降りて来て、彼の上に身をかがめ、彼を抱きかかえて、
「心配することはない。まだいのちがあります」と言った。

11 そして、また上がって行き、パンを裂いて食べてから、
明け方まで長く話し合って、それから出発した。」

(使徒の働き20:7-11 )

トロアス教会では、
「週の初めの日」にパウロの説教による礼拝を行っていたが、
通常解釈されて来たようにそれは日曜日ではない。

ユダヤ歴では、一日は日没とともに始まり、翌日の日没で終わる。

そこでは人々が安息日を終えた土曜の日没後に教会に集まり、
礼拝を行っていたのである。

聖書記述に採用されているユダヤ暦で、
「週の初めの日」、つまり日曜日となっているのは、
安息日明けの土曜の日没後のことで、
それは、ローマ暦(現在私たちの使用している暦)では土曜の夜に当たる。

この解釈はその集会でパウロが長い話をしたために、
真夜中を超えたという記録にも合致する。

その3階の部屋にランプが必要であったという記述も、
集会が夜であったことを示唆している。

翌日、パウロはそこから旅立つが、それは日曜の朝であった。

これまでの歴史的キリスト教会が主張している
礼拝の日時としての日曜日午前中には
彼らは礼拝の集会をしていなかった。

むしろパウロは旅行へ出掛けていたのである。


「信仰と生活の唯一の規範が聖書にある」
とする立場がプロテスタンティズムであり、
教会の伝統や人間の理性がそれに取って代わるものではないことを
再確認したい。

聖書信仰の立場は教会の長年の伝統と相容れない場合があるが、
(それゆえにカトリックからプロテスタントが誕生した)
人の理性や科学的論証性になんら矛盾するものではないが、
ここではこれ以上進めない。


長いキリスト教会の伝統の中で常識と考えられてきた
「日曜日=安息日」図式も
その正当性を論ずるにあったては
聖書から検証しなくてはならない。


さらに、日曜日は新約聖書で一度も
「安息日」と呼ばれている場所は見出されない。

いつも「週の初めの日」と呼ばれている点に注目。

また、「主の日」と日曜日が呼ばれている箇所も一度も無い。

初代教会の教父達は、
確かにその著作の中で日曜日を主の日と表現した所があるが、
新約聖書でその用例は無いのである。

新約聖書で「主の日」という用語は、
黙示録1:10に見出されるが、
それが日曜日であると推論できる証拠は文脈からは見出されない。

 10 私は、主の日に御霊に感じ、
私のうしろにラッパの音のような大きな声を聞いた。

11 その声はこう言った。
「あなたの見ることを巻き物にしるして、
七つの教会、すなわち、
エペソ、スミルナ、ペルガモ、テアテラ、サルデス、フィラデルフィヤ、ラオデキヤ
に送りなさい。」 (黙示録 1:10-11)

ここでの「主」にあたるギリシア語は
名詞ではなく、形容詞であることから、
Lordy Dayと直訳され得る言葉となる。

日本語に無理に意訳すれば、
「主に属する日」
とでもなろうか?

それが意味するのは、
安息日や日曜日などの特定の日ではなく、
ヨハネが聖なる恍惚感に聖霊によって捉えられ、
聖なる啓示を与えられた「特別な日」であるのを示した言葉である。

ヨハネにとって、その日は主に属する日、Lordy Dayとなったのだ。

(つづく〜「救済」タグをクリックしてください)

#救済

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クリスマスおめでとうございます

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クリスマスおめでとうございます クリスマスおめでとうございます

ホサナ教会のクリスマス祝会には
頬も蕩けるばかりのご馳走が並びました。

礼拝の時を持たせていただいたあとに
舌鼓を打ちながら

主がこの一年間にそれぞれに与えてくださった恵みを分かち合いました。
#救済

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サンマテオのクリスマス会

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サンマテオのクリスマス会 サンマテオのクリスマス会 サンマテオのクリスマス会 サンマテオのクリスマス会

サンマテオにある日本人教会のクリスマス礼拝&祝会にゲスト参加。

「私が言うもの何ですが、ここの教会の愛さん会の料理は他にはないものばかりですよ」そのようにおっしゃる細見牧師。

過去にもここのは3回ほどおじゃましていてそれは充分に経験済み。

愛さん会前の礼拝時の細見先生のメッセージ、
それに英語部のLee先生のメッセージも料理以上に味わい深いものでした。

私を招待してくださった吉田ご夫妻は、
明日より3週間の日本一時帰国となる。

娘さんご一家と一緒に
東京、京都、広島、そして郷里の熊本を廻られるそうです。

子供達の冬休みを利用しての帰国は2週間取れる。。。

我が家の場合として検討して見よう。



#救済

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安息日と日曜日の考察❶

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第1回目〜新約聖書時代の日曜日が安息日なのか?


日曜日にキリスト教会が礼拝を始めるようになったのは、いつの頃からか。

321年、コンスタンティン法令による日曜休日が制定されて以降であると教えられることが多い。

ところが2世紀初頭には、キリスト教が広められて行った地中海沿岸の世界ではすでに広く日曜礼拝が一般化されていた記録がある。

しかも大切なことにこの初代教会時代、
日曜日は礼拝の日として見なされてはいたが、
安息日であるとは見なされいなかったことである。

その当時、日曜日が休みの日であるとは考えられていなかった。

時代が進むに連れて、
旧約聖書の安息日に関する規定が日曜日に適用されるようになり、
それが今日にまで至っている。

それで日曜日が
「クリスチャン用安息日」とか、
「日曜安息日」
とか呼ばれるようになった。

多くのディスペンセイションの学者達も次のように見解している。

「安息日が神の創造の業の休息を記念しているように、
週の最初の日(日曜)は、キリストの復活を記念している。
7日目は創造の完成を記念し、
最初の日は贖いの完成を記念しているのだ。
従って現在の恵みの時代では、
人間の7日の内の1日は、神に属する時間であり、
それが日曜日なのである。」

何と無く説得力を感じる理論であるが、
果たして聖書の教えに照らしてどうであろか?

(つづく〜「救済」タグをクリックしてください)
#救済

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人の目には斬新だが、神の目には想定内

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「受難予告~天の御国のプログラム」
マタイ20章17~ 19節
~マタイ福音書連続講解説教55~

聖書本文とメッセージノートはこちらから:
http://wdx.hosannamin.org/whatsnew/view/011654

主はご自身の死とその後の復活を預言されます。
今回で3回目の受難予告です。

弟子たちをはじめユダヤの群集は、
主イエスがエルサレムにてメシア王国を樹立されるのを期待していました。

旧約聖書が数百年かけて預言してきた
神の約束をメシアが今や成就してくれるものと考えていました。

彼らの想定外のことが起こったのです。

神であられるメシアが十字架で死ななくてはならなかったとは?!

それとともに、
異邦人にも福音が伝えられていく「世界宣教」の時代が始まります。

旧約聖書にはなかった奥義としての「教会時代」が始まります。

主イエスが
エルサレムにて王として全世界を統治されるのは将来に「延期」されて、

教会と言うものが歴史に「挿入」してきたのです。

これらは人の目にはことごとく斬新的に見えます。

当時の弟子たちも理解するのには困難を極めました。

3回も主ご自身の受難を聞いていながら、
彼らには理解できていなかったと、聖書は記録しています。

人の目には斬新的に見えても、神のご計画に何一つ狂いはありません。
神の目から見たならば、これらすべてはすでに想定されていたことなのです。

これらが預言されている箇所として、
イザヤ49:1~13を注意深く学んで見ましょう。


49:1「 島々よ。私に聞け。 遠い国々の民よ。耳を傾けよ。
主は、生まれる前から私を召し、 母の胎内にいる時から私の名を呼ばれた。

*イザヤがあたかもメシア自身の言葉として、
預言的に語っているところである。

ここには人間の父の言及なく、
母のみが言及されているのは処女降誕の預言も想起される。


2 主は私の口を鋭い剣のようにし、
御手の陰に私を隠し、 私をとぎすました矢として、 矢筒の中に私を隠した。

*メシアは神から委ねられている任務のために訓練され、準備される。

*主イエスの公生涯に立たれる30歳までの預言である。


3 そして、私に仰せられた。
「あなたはわたしのしもべ、イスラエル。
わたしはあなたのうちに、 わたしの栄光を現す。」

*メシアが真の意味でのしもべ、真のイスラエルと呼ばれているのは、
モーセ律法の要求を完全に満たした唯一のユダヤ人であるからである。

*主イエスの生涯で神から声がかかった場面(ゴットバル)が3回あるが、
何れも神の栄光が現れ出た瞬間であった。
  • 洗礼の時:マタイ3:17 ~ミニストリーの開始期に
  • 変貌山 にて:マタイ17:5~ミニストリーが弟子たちに受け入れられない時に
  • 受難の直前:ヨハネ12:28 ~ミニストリーの完成間近に


4 しかし、私は言った。
「私はむだな骨折りをして、 いたずらに、むなしく、私の力を使い果たした。
それでも、私の正しい訴えは、主とともにあり、 私の報酬は、私の神とともにある。」

*この節からメシアの落胆色が濃くなる。
3年余りの公生涯は、そしてその結果は
同胞ユダヤ人からの拒絶、排斥に彩られている。


5 今、主は仰せられる。
--主はヤコブをご自分のもとに帰らせ、
イスラエルをご自分のもとに集めるために、
私が母の胎内にいる時、 私をご自分のしもべとして造られた。
私は主に尊ばれ、 私の神は私の力となられた。--

*だがその拒絶にもかかわらず、メシアを通じてイスラエルの復興が約束される。
それは世界離散のユダヤ人が、約束の国に集合されることと関連している復興であるのが分かる。


6 主は仰せられる。
「ただ、あなたがわたしのしもべとなって、 ヤコブの諸部族を立たせ、
イスラエルのとどめられている者たちを 帰らせるだけではない。
わたしはあなたを諸国の民の光とし、
地の果てにまでわたしの救いを もたらす者とする。」

*約束の国への集合は、
イスラエルの物理的な復興、繁栄を伴うものである。
さらにそればかりでなく、
メシア拒絶に結果する第3の目的があると告げている。
それは異邦人に救いが届けられることである。

*この異邦人の救いはこの旧約預言に見られるように、
当初からの神の計画であった。
上記の二つの目的(ユダヤ人の集合と復興)を脇に置いて、
時が満ちるまで続けられる。
世界宣教のときが終わったとき、これら二つが成就するときである。


7 イスラエルを贖う、その聖なる方、主は、
人にさげすまれている者、 民に忌みきらわれている者、
支配者たちの奴隷に向かってこう仰せられる。
「王たちは見て立ち上がり、首長たちもひれ伏す。
主が真実であり、 イスラエルの聖なる方が あなたを選んだからである。」

*「人にさげすまれている者、 民に忌みきらわれている者、 支配者たちの奴隷」
とはメシアの初臨の際の拒絶を預言したものである。

*その拒絶は一時的なものであり、
やがてメシアはユダヤ人ばかりでなく、すべての異邦人に崇められ、
受け入れられるときが来る。


8 主はこう仰せられる。
「恵みの時に、わたしはあなたに答え、 救いの日にあなたを助けた。
わたしはあなたを見守り、 あなたを民の契約とし、
国を興し、荒れ果てたゆずりの地を継がせよう。

*「あなた」とはメシア。イスラエルとの契約の締結者として
その復興をメシアゆえに実現するとの預言。
それは、異邦人に対するメシアの働きが完成するときである。


9 わたしは捕らわれ人には『出よ』と言い、
やみの中にいる者には『姿を現せ』と言う。
彼らは道すがら羊を飼い、
裸の丘の至る所が、彼らの牧場となる。


10 彼らは飢えず、渇かず、 熱も太陽も彼らを打たない。
彼らをあわれむ者が彼らを導き、 水のわく所に連れて行くからだ。


11 わたしは、わたしの山々をすべて道とし、 わたしの大路を高くする。


12 見よ。ある者は遠くから来る。
また、ある者は北から西から、 また、ある者はシニムの地から来る。」


13 天よ。喜び歌え。地よ。楽しめ。 山々よ。喜びの歌声をあげよ。
主がご自分の民を慰め、 その悩める者をあわれまれるからだ。」


*世界に離散し、
苦労の中に置かれているユダヤ人が
約束の国に集合され復興されることが繰り返し預言されている。

*「シニム」とは現代へブル語では中国を指すが、
イザヤ時代のヘブル語がどこを指していたかは不明である。
アジアのどこかの箇所が、
ユダヤ人復帰活動のセンターとして用いられるのであろう。


#救済

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安息って良いものですね

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ホサナキリスト教会・聖書広場から

「ぶどう園のたとえ話」②

マタイ20章1~ 16節
~マタイ福音書連続講解説教54~
聖書本文とメッセージノートはこちらから:
http://wdx.hosannamin.org/whatsnew/view/011654

聖書学の大原則

「聖書とは、一体何か。
それをどのように読んで、解釈・理解し、
さらにその上で自らに適用・実践すれば良いのか」

という視点からの体系化された学問を「聖書学」と言う。

意識してないかもしれないが、全て聖書を専門的に学んだ者たちは皆、
聖書学を実践しているはずである。

ここでその聖書学の原則について確認して見たい。


❶聖書を文学作品として読む

つまり書かれている通り、字義通りに読む。
あなたの国語で読解力を総動員して理性的に読む。
その点で他の文学書や雑誌を読む時と別段変わらない。

ただし、ユダヤ的な背景を理解し、文脈や文学的手法にも留意する。
聖書は2千年前にユダヤの地で、ユダヤ人によって書かれたものであるから、
その時間的・民族的な壁があることを前提としなくてはならない。

日本文化 の掛かったフィルターで、
貴方の常識や認識方法を前提として解釈するなら
本来意図されているメッセージを失うことになりかねない。

聖書時代の読者が、どういう意味として受け取ったかを探索して行くのが解釈学の王道である。
今日の聖書広場では、
「たとえ話には何が書かれているのか」
を解説してあるポイントⅠがこれに当たる。

メッセージ・ノートを参照。


❷聖書のメッセージ(神と聖書記者の意図するもの)は、一つである

聖書は神の霊感によって書かれ、
その66巻が調和と一つの意図を持った完結した書である。

一つの聖句が伝えようとしているメッセージは一つしかない。
二つの聖句が互いに異なって矛盾してしまうかのような解釈は
あり得ない(正しいものでない)。

その一つの箇所の解釈のためには、
その前後の文脈やその書全体、引いては聖書全巻からの裏付けが必要となる。

ゆえに聖書全巻の知識と合わせて、
これをどのように読み取るべきかの
聖書全巻の体系への理解が欠かせないものとなる。

今日の聖書広場では、
「たとえ話からどんなメッセージが引き出せるのか」
を解説してあるポイントⅡがこれに当たる。

メッセージ・ノートを参照。

かいつまんで言うと、そこでは、

①憐れみによって召された者の幸い

②自らの行いや実績に頼る者の不満

③神の与える報いは報酬(給料)ではなくて賜物(ギフト)であり、
   気前の良いものである

とういうメッセージが引き出せる。


❸聖書の適用はいく通りもあり得る

その内容を正しく把握して解釈し、そこからメッセージを引き出した後に、
その教えの実践のために自らに適用しなくてなならない。

その適用は、状況や時代によりまちまちとなる。
そこに説教者の資質やセンスというものが反映される。

適用のためには❶と❷とに習熟してなくてはならない。

今日の聖書広場では、
「私たちへの適応」を解説してあるポイントⅢ がこれに当たる。

メッセージ・ノートを参照。

結論 : 
奉仕は「気前のよい」(アガソス)お方に対してのものであり、
他者の評価や自己満足のためのものではない

私たちは多くの場合、この世の(特に儒教的)価値観に慣れ親しんでいる。

そこで教えられてきたことといえば、

「もっと頑張れ」

「もっと働け」

「成果を挙げよ」

という成功志向型の哲学ではないだろうか。

救いは、恵みによってただで与えられたと信じてはいても、
信仰を維持したり、また信仰を評価されるには
働き如何によると考えているのが多くの教会人の現実ではないか。

本来私たちは与えられた賜物で奉仕するよう勧められていて、
頑張りではない。

知識や知恵の言葉、奉仕や癒し、哀れみや献金の賜物、教えや助ける賜物、、、
これらは霊的な賜物でありそれぞれが神から与えられたものだ。

故に、神が貴方に備えられた能力を使い、
教会の中でバランスよく用いることによって教会は建て上がって行く。

もし貴方が頑張りで奉仕するなら、御霊の働きを妨げることになりかねない

頑張りは人を疲れさせ、愚痴や不満が出てくる元になる。

安息日とは、主イエスによって成就された平和・平安・調和
のひな型となるものである。  

  「信じた私たちは安息に入るのです。
『わたしは、怒りをもって誓ったように、
決して彼らをわたしの安息に入らせない。』
と神が言われたとおりです。
みわざは創世の初めから、もう終わっているのです。」
(ヘブル 4:3 )

「休みなさい」、「神に仕えるとはすなわち休むことである」
というのが新約的な安息日理解である。

さあ、リラックスして信仰生活を楽しませていただこうではないか。
#救済

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ミュージカルの打ち上げ

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ミュージカルの打ち上げ ミュージカルの打ち上げ

長女が出演した教会ミュージカル「屋根の上のバイオリン引き」。

毎年この時期にNewport Covenant Churchではミュージカルを上演して
地域の大勢の方々に喜んでいただいている。

あいにく私は日本行きと重なったため
4回ある公演日のうちで一度も観賞できる機会に恵まれなかった。

この日はそのスタッフやキャストたちが
ポトラック・ディナーを持ち寄っての慰労感謝会となった。

長女は御苦労なことに
ここでもチェロによるBGMを請け負っていた。

#救済

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良い行いを積めば天国へ行けるのか?

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長崎の平和記念公園から浦上天主... 長崎の平和記念公園から浦上天主堂を望む
先日、春日井栄光教会の日曜礼拝でお話させていただいた要旨です。


説教題:「永遠のいのちは得られるか」

聖書箇所: マタイ19:16-26

 16 すると、ひとりの人がイエスのもとに来て言った。
「先生。永遠のいのちを得るためには、どんな良いことをしたらよいのでしょうか。」

17 イエスは彼に言われた。
「なぜ、良いことについて、わたしに尋ねるのですか。
良い方は、ひとりだけです。
もし、いのちに入りたいと思うなら、戒めを守りなさい。」

18 彼は「どの戒めですか」と言った。
そこで、イエスは言われた。
「殺してはならない。姦淫してはならない。
盗んではならない。偽証をしてはならない。

19 父と母を敬え。あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」

20 この青年はイエスに言った。
「そのようなことはみな、守っております。何がまだ欠けているのでしょうか。」

21 イエスは彼に言われた。
「もし、あなたが完全になりたいなら、
帰って、あなたの持ち物を売り払って貧しい人たちに与えなさい。
そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。
そのうえで、わたしについて来なさい。」

22 ところが、青年はこのことばを聞くと、
悲しんで去って行った。この人は多くの財産を持っていたからである。

23 それから、イエスは弟子たちに言われた。
「まことに、あなたがたに告げます。
金持ちが天の御国に入るのはむずかしいことです。

24 まことに、あなたがたにもう一度、告げます。
金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい。」

25 弟子たちは、これを聞くと、たいへん驚いて言った。
「それでは、だれが救われることができるのでしょう。」

26 イエスは彼らをじっと見て言われた。
「それは人にはできないことです。
しかし、神にはどんなことでもできます。」



永遠のいのち(16)=天国に入る(23節)
…それは人の功績によるのか、神の一方的な恵みによるのか?

この箇所は歴史的に教会が「捧げ物や犠牲によって人はその救いを獲得できる」との教理のために利用されて来た。
17節後半、21節、そして23節だけを切り取って何遍もそれだけを読むなら、
そのように解釈してしまうのも無理はない。
聖書は文脈に留意して解釈しなくては、正しく理解したことにならない。

❶永遠のいのちを得たい青年

「永遠のいのちを得るためには、どんな良いことをしたら良いか」
との青年の問いには彼の立脚しているパリサイ神学、
つまり律法をより詳細に遵守して神に認められようとする
律法主義が露見している。

それに対して主は
「なぜ良いこと(アガソス)についてわたしに尋ねるのか。
良い方(アガソス)は一人だけだ」とお答えになられた。

<ユダヤ的な文脈に注意せよ>
「アガソス」がユダヤ文化圏で使われた場合、
それは神に関する絶対的な尊さ、善良さ、美しさに
関してのみに用いられてきた。
並行記事で青年は、
「アガソス先生」と主に呼び掛けて質問している。

ここで主は「あなたはわたしを神であると告白するのか」
と問いかけておられのだ。
世辞でしかなかった青年の一言を取り上げて、
彼をメシア信仰へとチャレンジされておられる。

❷永遠のいのちを得る方法

「完全になりたいなら、持ち物を売り払って貧しい人達に与えよ」(21節)
との主のお言葉は、
功績による救いへの達成を教えたものではない。

「小さな時から皆、守っている」と青年が自信ありげに答えたモーセの律法を、メシア(律法の起草者であり付与者)として解釈したものである。
「隣人をあなた自身の様に愛せよ」との律法を実践するとは具体的にどういうことかを明らかとしたのである。

<聖書全巻の文脈に照らし合わせよ>
旧約でも新約でも聖書は一貫して人は信仰と恵みによって救われるのであり、
行いによらないと明確に教えている。
本日の箇所の直前、子供達が主の所にやって来た時、
「天の御国はこのような者たちの国である」と教えておられる。
子供達には功績の実績がなかったはずである。
また直後の箇所では
「先の者が後とされ、後の者が先とされる」との教えが、
たとえ話で解説されてある。
ここで「先の者」とは、自他ともにエリートとされた富める青年に他ならない。先の者は神の前では評価されていないのだ。

❸永遠のいのちを与える方

自己流でないメシアの律法解釈の前に、
誰が自己義を確立できよう。
律法は救いを与えるものでなく、
メシアへと導く養育係りの役割に過ぎない。ガラテヤ3:24

<ストーリー展開の文脈に留意>
ポイント❶にある17節前半の主の質問に再注目して欲しい。
両者の会話の流れが17節の前半と後半では途切れている。
質問に答えられない青年の沈黙が数秒間続いたのだ。
彼は主をメシアと告白できなかった。チャレンジを拒否したのである。

そこで主は、
「もし、いのちに入りたいと思うなら、戒めを守りなさい」(17節後半)
と言葉を続けられた。
繰り返すが、ここから行いによる救いの教理を打ち立ててはならない。
主の真意は真逆にある。
信仰のない彼のパリサイ神学の土俵に降りて勝負しようとされているのである。戒め=律法をメシアが本来の解釈をして人に適応するなら、
誰一人律法を守れる者はいないことを知らせるためである。

「それ(救い)は、人に出来るものではない。
しかし神にはどんなことでも出来る」(26節)
#救済

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今年最初のMerry Christmas

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今年最初のMerry Chri... 今年最初のMerry Chri... 今年最初のMerry Chri... 今年最初のMerry Chri...
シアトル圏で日本語ミニストリーに携わっている
牧師・リーダー達とのクリスマス会が開かれました。

例年の通り、バプテスト教会がホスト役を引き受けてくださっています。

祈りと交友のために3カ月毎にこのグループで定例会も継続しています。

そしてこの日は牧師だけでなく、その家族も一同に会して楽しい時を持つことになりました。

この日が今年の最初のクリスマス会となりました。

家内が持ち寄った肉ジャガはこの時も好評で、
皆に完食していただけたのは彼女にとってとびきりうれしかったようです。

#救済

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