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イスラエルとキリスト教会10~その4「アブラハムの子孫」
ここで、「アブラハムの子孫」
という聖書で大切な概念が出て来たので解説しておこう。
聖書には4つの異なる意味で使われている。
⑴ アブラハムの肉体的な子孫
第一義的にアブラハムの肉体的な子孫といえばユダヤ人を意味するが、
アラブ人もそこに含まれるのである。
いやむしろ、人数の上からすればアラブ人の方が圧倒的に多いことになる。
しかし旧約聖書ではその語句はユダヤ人に限定されて用いられている。
ただ「アブラハムの子孫」はユダヤ人だけでないことを覚えておかねばならない。
⑵ メシア〜特別な個人としてのアブラハムの子孫である
「16 主は御使いたちを助けるのではなく、
確かに、アブラハムの子孫を助けてくださるのです。
17 そういうわけで、神のことについて、あわれみ深い、忠実な大祭司となるため、
主はすべての点で兄弟たちと同じようにならなければなりませんでした。
それは民の罪のために、なだめがなされるためなのです。 」
(ヘブル2:16〜17)
⑶ 今日の信者であり、教会がアブラハムの子孫である
「29 もしあなたがたがキリストのものであれば、
それによってアブラハムの子孫であり、約束による相続人なのです。 」
(ガラテヤ3:29)
この時の「子孫」には、アブラハムの肉体的な子孫であるユダヤ人と、
肉体的には子孫でなく信仰によって子孫と見なされた異邦人たちが含まれている。
ここで大切な質問がある。
アブラハムのこれら霊的な子孫(異邦人信者)はイスラエルであると、
聖書が一度でも呼んだことがあっただろうか?
答えはNOである。
霊的なアブラハムの子孫は、ユダヤ人の霊的な契約の共同相続人ではあるが、
契約の他の側面、肉体的、物質的、民族な面での相続人とはなり得ないのである。
⑷ 「イスラエルの残りの者たち」と同義語で用いられ、
霊的なユダヤ人として現される事もある
イザヤ書41:8、
「 8 しかし、わたしのしもべ、イスラエルよ。
わたしが選んだヤコブ、 わたしの友、アブラハムのすえよ。 」
(Isa 41:8)
ローマ9:6、
「6 しかし、神のみことばが無効になったわけではありません。
なぜなら、イスラエルから出る者がみな、イスラエルなのではなく、」
(Rom 9:6)
ヘブル2:16
「16 主は御使いたちを助けるのではなく、
確かに、アブラハムの子孫を助けてくださるのです。」
(Heb 2:16)
少数の霊的な子孫だけが本当のユダヤ人と呼ばれている。
彼らはユダヤ人信者のことであり、民族イスラエルの一分部であり、
ガラテヤ6:16においては、「神のイスラエル」と呼ばれる群れである。
しかし「霊的なアブラハムの子孫」が一まとめにイスラエルと見なされることは
聖書には決して無い事を覚えていなくてはならない。
全ての肉体的なアブラハムの子孫がユダヤ人なのでななく、
ヤコブの肉体的な子孫がユダヤ人である。
イスラエルという語句そのものも、
ヤコブの変名として彼自身にに起源を持つものであってアブラハムからではない。
もし「教会」が「ヤコブの子孫」であると教えている一つの聖句でも見付け出すことができるなら、
契約神学者達の抱いている中心となる神学を樹立させることができる。
ところが、それができないままにいる。
彼らがその神学体系構築のために頼りとしている聖句は「アブラハムの子孫」であるが、
それでは不十分なのである。
ホサナキリスト教会・聖書広場からの抜粋です
聖書本文とメッセージノートはこちらから:
http://wdx.hosannamin.org/whatsnew/view/1217-60
「証明されるメシア性」
マタイ21章18~ 27節
~マタイ福音書連続講解説教60~
信仰の本質とは何であろうか?
信仰に入るとは、信仰を持つとはどういうことであろうか?
信者となった者がさらに信仰を成長させたり、
この箇所にあるような「山をも動かすほど」の完全な信仰とはどういうもので、
どうしたらそこに至るのであろうか?
ここのマタイ21:21-22の聖句もまた多くの場合、誤解されて解釈されて来た。
イエスは答えて言われた。
「まことに、あなたがたに告げます。
もし、あなたがたが、信仰を持ち、疑うことがなければ、
いちじくの木になされたようなことができるだけでなく、
たとい、この山に向かって、『動いて、海に入れ』と言っても、
そのとおりになります。
あなたがたが信じて祈り求めるものなら、何でも与えられます。
(マタイ21:21-22)
この聖句だけを豆カードに抜き出して、
5回でも唱えてみたらどうなるか。
本来の聖書が教えんとしている所から大きくはみ出して
偽りの教理が完成する可能性が高い。
それは貴方の人生経験という文脈で読み解こうとしているからだ。
聖書は「聖書の文脈」で読まねばならない理由がここにある。
その聖句だけを取り上げて判断するのでなく、
その主の言葉に至った経緯を考慮しなくては正しい解釈ができないのである。
1.それは自力本願ではない
熱心さ、気合、あるいは傾倒や犠牲で「信じ込む」こととは違う。
東洋の宗教に頻繁に見られるような悟りや修行。
それに慣れている我々の思考パターンから
この聖句を紐解こうとする時に陥りやすい錯覚である。
精神統一を遂げてある種のイデオロギーだけに傾倒し、
それ以外の思考や可能性を拒否せよと教えている聖句ではないのだ。
「疑うことがなければ」とは、聖書に疑問を抱くことを禁止するものではない。
我々の知性をフル回転させて理性をもって神の言葉に取り組み、
その統一性や無謬性に畏怖の念を禁じ得ないことが私にはこれまでに何度もあった。
「信じて祈り求めるなら、何でも与えられる」
これも、打ち出の小槌を保障しているものではない。
2.文脈から聖書を読み解く
この聖句はいちじくの木が枯れたという視聴覚教育の一環の中で
主が話をされている箇所である。
枯れたいちじくの木が象徴しているのは、イスラエルの崩壊と滅亡である。
当時のイスラエルは大した国であった。
荘厳華麗な神殿を誇り、
世界中からユダヤ人を回帰させる過越祭という盛大な式典、
それにローマ法よりも厳格・細微に人々の生活を束縛している
口伝律法とパリサイ主義
〜世界一の宗教民族であったのだ。
そのユダヤ人とその首都機能が壊滅するとは
当時の人々に到底考えられないことである。
世界帝国樹立目前との人々の期待値が高まる中で
その王たるべきメシアが十字架での死を遂げるとは、
彼らの理解や想像をはるかに超越するものであった。
「山」とは、ここでは理解困難な聖書箇所であったり神のお心のことである。
「山が動いて海に入る」とは、
それが理解され解決されることを示しているユダヤ的な格言である。
人間歴史には、神の力と意思とが働いている。
当時の弟子たちが主の預言も十字架も到底理解できなかったように、
私たちもまたそれを認知出来ないでいる。
世界を動かしているのは経済力や軍事力であると多くの人たちは見聞している。
やがて主の再臨があって、
千年間の神の国がイエスによって樹立されるとの神の歴史プログラム
をどれほどの人が信じているのだろう。
もしそれを信じることが出来るとしたら、山を動かすほどの快挙となる。
3.信仰の本質について
「信仰を持ち、疑うことがない」とは、
自らの願望を主張・反映させることではない。
自分の願望の強さや犠牲の大きさが祈願を成就させるとは
異教の教えであってキリスト教ではない。
バアル預言者達の自傷行為や日本に見られた御百度参りを見よ。
それらの成就如何は、祈願者の行為次第によると教えるものである。
では、何であろうか?
それは神の約束と世界への経綸が100%完全に成就するとの確信である。
そのために必要なことは、
冷静な思考力を働かせながらこれまでのアブラハム以来4千年間、
どれほど確実に聖書預言が一字一句成就して来たかを知り、理解し、納得することである。
つまり聖書に対する知識と理解の深まりが必要なのであり、
至って自然科学的なアプローチなのである。
その時、聖書預言成就の芸術的とも言える正確性は、
今後の世界の行く末に関する主の預言も
確実であるのを認めないわけにはいかないのである。
私たちに主の言葉への絶対的な信頼を惹起させるのである。
それはまた、神の御心に肉薄することに他ならない。
「祈り求めるもの」が神の御心に添ったものであるとき、
貴方のその祈りは成就するほかないことになる。
②ガラテヤ3:29
「29 もしあなたがたがキリストのものであれば、
それによってアブラハムの子孫であり、約束による相続人なのです。」
(ガラテヤ 3:29)
ガラテヤの信者は「アブラハムの子孫」とされたのであるなら、
それは霊的なユダヤ人とされたことに他ならないのではないか、
という議論がこの聖句から起こっている。
これも先程と同じ理由で答えはNOである。
ユダヤ人でなくとも、肉体的にアブラハムの子孫である人達はたくさんいるのである。
そのまま霊的な領域にも同様のことが言える。
この聖句を理解するために最も役立つのは
エペソ2:11-13、3:6と比較することである。
「11 この方にあって私たちは御国を受け継ぐ者ともなりました。
みこころによりご計画のままをみな行う方の目的に従って、
私たちはあらかじめこのように定められていたのです。
12 それは、前からキリストに望みを置いていた私たちが、
神の栄光をほめたたえるためです。
13 この方にあってあなたがたもまた、真理のことば、
あなたがたの救いの福音を聞き、またそれを信じたことにより、
約束の聖霊をもって証印を押されました。
(Eph 1:11-13 )
「6 その奥義とは、福音により、キリスト・イエスにあって、
異邦人もまた共同の相続者となり、ともに一つのからだに連なり、
ともに約束にあずかる者となるということです。」
(Eph 3:6 )
これらエペソの聖句は、
約束の相続者となる事について教えているガラテヤの聖句が
意味しているところのものを明確にしている。
ガラテヤ人が神秘的な方法でユダヤ人となるのではなく、
ユダヤ人に与えられた契約の一部である
霊的な祝福に
共同に預かるものとされることを教えている。
その特権は信仰によって得られるものであるという。
この事は、彼らをして霊的なユダヤ人とはせずに、霊的な異邦人とするはずである。
契約の共同相続者としてさえも、
異邦人はそのユダヤ人の特権のすべてを相続できるのではない。
祝福に関わる契約の条項だけに異邦人は預かれるのである。
土地の約束や割礼など、
その他にも多くのユダヤ人だけに関わる契約条項があるが、
それらは異邦人には関係せず、ユダヤ人だけのものである。
ゴラン高原
Ⅱ 聖書の用法からの検証
多くの人々はこれらは単なる意味論の範疇のことに過ぎず、
聖書のある箇所を取り上げては
霊的な変貌により(新生)、異邦人が新しいユダヤ人になったのは確かだ、
と主張する。
その論拠としている聖句を取り上げて検証してみよう。
①ガラテヤ 3:6-9
「6 アブラハムは神を信じ、それが彼の義とみなされました。それと同じことです。
7 ですから、信仰による人々こそアブラハムの子孫だと知りなさい。
8 聖書は、神が異邦人をその信仰によって義と認めてくださることを、前から知っていたので、アブラハムに対し、「あなたによってすべての国民が祝福される」と前もって福音を告げたのです。
9 そういうわけで、信仰による人々が、信仰の人アブラハムとともに、祝福を受けるのです。 (ガラテヤ 3:6-9 )」
もし異邦人が信仰によってアブラハムの子供になったんだとしたら、
それは霊的なユダヤ人になったことではないのか、という反論である。
答えはNOである。
身体的な範疇を考えてみても、
すべてのアブラハムの子供たちがユダヤ人ではない。
例えばアラブ人たちはユダヤ人たちと同じほどにアブラハムの子孫であると言えるのであるが、
彼らはユダヤ人と言うカテゴリに入りようがない。
身体的なことでの真理は霊的な事柄においてもまた真理である。
つまり信仰によるアブラハムの子孫というだけでは、
ユダヤ人になるわけではないのである。
それでは、この聖書箇所は何を伝えようとしているのか。
これに答えるためには文脈を検証しなくてはならない。
ここで問われていのは、
救いが人の行いによるのか信仰による恵によって与えられるものであるのか
という議論である。
ヘブル語の「子供」とか「子孫」とかいう言葉には「従者」という概念がある。
重要なのは、
アブラハムは行ないにはよらず信仰に基づいて義と認められたという点である。
同様に救いを得るためには行いではなく信仰による、
信仰によってのみ義とされた人たちこそが真のアブラハムの従者となるのである。
異邦人のガラテヤ人たちは、アブラハムの子孫であると言われているのであって、
決してユダヤ人になったと言われているのではない。
アブラハムの子孫になることが、ユダヤ人になることではない。
ユダヤ人として認定されるためには、ヤコブの子孫でなくてなならないのだ。
旧約聖書において、神がユダヤ人と交わした契約をアピールするときには
「アブラハム・イサク・ヤコブの神」としてご自身を啓示されて来た。
「アブラハムの神」はユダヤ人ばかりではなく、
イスラム教徒のアラブ人の神でもあるのである。
「アブラハム・イサク・ヤコブの神」がユダヤ人の神である。
イスラエルとキリスト教会10〜その1
ユダヤ人信者に関する2つの誤り
2つの誤った見解が、今でも多くのクリスチャンたちの間に席巻している。
1つは異邦人達がキリストを信じた時点で、
彼らは霊的なユダヤ人になったと言う見解。
もう一つが、異邦人でもユダヤ人でもキリストを信じた時に
両者の垣根は取り払われて、1つのものにされたというものである。
新約時代には、もはやユダヤ人の特殊性と言うものはなく、
異邦人と言う言葉すら相応しくないとする考え方である。
信者はキリストにあって1つの家族となったのであり、
特定の民族や選民思想、ユダヤ人の特権性というものは消滅してしまったのだ
と言うのである。
果たして本当にそうだろうか。
そのような考え方は、契約神学の人々に決まって共通していることである。
また現在のイスラエルに対する乏しい思索ゆえに
一部のディスペンスセイショナリストたちも抱いている考え方である。
①異邦人の信者が霊的ユダヤ人なのか?
しばしばそのような言い方がされてきたのだが、
この考え方に賛同している聖書箇所は存在しない。
聖書が「霊的」という言葉を使用する際には3つのことが包含されていると
Dr. Charles Ryrieは指摘する。
それは、「新生」と「聖霊と「時間」である。
信者が霊性と関わりを持つことは、
聖霊によることであり
神との関係が創始せられる新しい誕生であり
そしてそれ以後に続く成熟と言う観点を考慮すると時間にも関わることであろう。
ドクターが指摘しているように
聖霊との関わりの成長・成熟が「霊的」Spiritualityと言う言葉の意味である。
要するに霊的な人物とは、聖霊のコントロール下にある人のことである。
もし異邦人がキリストを信じて聖霊のコントロールに自らをゆだねるなら、
彼は霊的な異邦人と呼ばれる。
同様にユダヤ人が信者となって聖霊のコントロール下にあるなら、
彼は霊的なユダヤ人と呼ばれるのである。
しかし、これから両者の民族性が交差されることはない。
ユダヤ人信者はユダヤ人のままであり、異邦人信者は異邦人のままにとどまり、
それぞれの霊性とは、それぞれが聖霊様との関係の上に築く属性の事である。
テルアビブの夜明け
イスラエルとキリスト教会❾その2
ガラテヤ6:16
「どうか、この基準に従って進む人々、
すなわち神のイスラエルの上に、
平安とあわれみがありますように 」
この聖句にある二つの組織体・グループとは
異邦人信者とユダヤ人信者の二者であり
二つのグループに祝福を述べたものであると解釈できる
大きな理由は次の通りである。
①解釈学の原則から
新改訳聖書のようにギリシャ語Kaiを「すなわち」と訳すのは
文法上誤りではないが、それは圧倒的に稀なケースである。
ほとんどの場合は、ANDと訳されるのである。
「釈義や神学上の明らかな矛盾がない場合で、
通常訳出される語句が意味をなすものならば、
より稀な語句を訳語として採用してはならない」
この解釈学の原則に立つなら、ANDと訳出されるのがふさわしいことになる。
もし契約神学者が言うように、
「神のイスラエル」が「基準に従って進む人々」と等しいとするなら
パウロは、Kaiをここで記さなかったはずである。
その方が文法にかなっている。
だが、事実は明記されているのである。
②用法と文脈に照らしての釈義から
先ず、用法について検討してみよう。
聖書記述の中で先回確認したように、
「イスラエル」が「教会」の意味として使われたことはない。
「異邦人」は、ノンクリスチャンを指して使われた言葉でなく、
ユダヤ人以外の人々を指したものとして聖書の中では一貫して使われている。
「使徒の働き」書の中では「教会」と「イスラエル」とが調和をもって扱われている。
誕生したばかりの教会は、
歴史的イスラエル のすぐ隣に存在していたのであり、
両者は明確に区別されていた。
契約神学者の一部は、
ローマ9:6をもって霊的なイスラエルがクリスチャンのことである
と主張するのであるが、
注意深くここを読むならば、
信者であるユダヤ人と
信者ではないただの民族的ユダヤ人とが
「霊的」と言う語によって区別されたものである事が分かる。
「6 しかし、神のみことばが無効になったわけではありません。
なぜなら、イスラエルから出る者がみな、イスラエルなのではなく、
7 アブラハムから出たからといって、すべてが子どもなのではなく、
「イサクから出る者があなたの子孫と呼ばれる」のだからです。」
(Rom 9:6-7)
次に文脈を再度確認して見よう。
パウロはユダヤ主義者によって誤った福音が導入されたガラテヤの教会を
矯正するためにこの書簡を書いているのである。
彼らはモーセ律法に従い、
割礼を受けなければ救われず、
救いの維持もないと教えて、
大きな混乱を与えていた。
パウロはその点を論ずるに当たって、
当時のイスラエルと異邦人という
明確に区別されていた民族グループを
意識しないでおくことはできなかったのだ。
恵みの選びによって教会内にレムナントと呼ばれるユダヤ人信者があった。
パウロは、ユダヤ人とギリシャ人、
女性と男性、
自由人と奴隷、
こうした区別を教会内で認めているし、識別している。
パウロが言っている「キリストにあって一つとなる」というのは、
性別や社会的相違を同化する事でなく、霊的な事柄であったはずである。
同様に、異邦人とイスラエルの民族的相違は歴然と教会時代も存続するのである。
③神学的理由から
イスラエルが教会と同一と見なされた記録は
どこを探してもAD160以前には
一つも発見されていない歴史的な事実がある。
パウロ時代から1世紀も経ているのに、
それらが同じものと考えられていた形跡が無かったことになる。
「神のイスラエル」との表現はおそらく
「肉によるイスラエル」(1コリント10:18)
と対照となっている語であると言えるのではないか。
つまり信仰のイスラエルと
不信仰のイスラエルが対比であり、
ローマ9:6でパウロが論じている二つのイスラエルである。
両者は共に民族としてのイスラエルではあるが。
この見方は文法上の理由から支持される。
Kaiは通常順接接続詞として「〜と」と訳されるべきものであり、
その一般的な用法を無視しなくてはならない理由はここにないのである。
さらに釈義からも支持される見方である。
「イスラエル」の語は、
パウロにとって常に自己を包含している民族的な概念である。
ここでパウロが攻撃型の激しい論調調子の書簡を締めくくるにあたり、
その結論もまた、鋭くユダヤ主義者たちを意識したものとなっている。
彼の通常の書簡の締めくくりには出現する感謝の言葉が
ここで忘れ去られているほどである。
同時にパウロは
忠実な信仰のイスラエル人への祝福の言葉をも忘れることはなかった。
彼らは、
人の功績が何ら役に立たず、
ただ神の恵みのみが贖いを完成させると理解していて、
巧妙なユダヤ主義者に追従し負けることの無かった人々であった。
彼らこそ偽りのイスラエルでなくて、
「神のイスラエル」であり、
他の箇所では
「恵による選びゆえのレムナント」
(ローマ11:5)
とも呼ばれる人々である。
神学的に見ても、
一つの神の民の中に二つの要素(異邦人とユダヤ民族)
があると教えていることから支持され得るのである。
ローマ11章はこの二つの組織体の相互関係を扱ったものであった。
族長達と交わされた偉大な無条件契約が
今日までどのように推移して来て
将来にどのように完成されるかが記されてあるところである。
こうしてみるならば、
ガラテヤ6:16には、
二つの組織体が意識されたものであると結論できる。
つまり、
「この基準に従って進む人々」=異邦人信者
(と=KAI=AND)
「神のイスラエル」=ユダヤ人信者
の二つである。
ゴラン高原
イスラエルとキリスト教会❾〜ガラテヤ6:16ついて
Galatians 6:16
「どうか、この基準に従って進む人々、
すなわち神のイスラエルの上に、
平安とあわれみがありますように 」
全ての契約神学者が、
「教会が霊的なイスラエルとなったのだ」
または
「異邦人信者が霊的なイスラエルである」
と結論付ける根拠としてあげる聖句はこれ一つである。
果たしてこれが正しい解釈であろうか。
先ず、ガラテヤ書全体の文脈を概観してみよう。
そもそもこの書は、
モーセ律法によって救いを得たり、
これを維持しようとしている異邦人信者に関心を払って書かれたものである。
15節では救いに重要なのは信仰であり、
れが「新しい人(直訳)」に至る、とある。
さらにそこに至るには2つの要素があり、
一つが割礼、他が非割礼である。
それは二つのグループを意識したもので、ユダヤ人と異邦人のことである。
「7 それどころか、ペテロが割礼を受けた者への福音をゆだねられているように、
私が割礼を受けない者への福音をゆだねられていることを理解してくれました。
8 ペテロにみわざをなして、割礼を受けた者への使徒となさった方が、
私にもみわざをなして、異邦人への使徒としてくださったのです。
9 そして、私に与えられたこの恵みを認め、
柱として重んじられているヤコブとケパとヨハネが、
私とバルナバに、交わりのしるしとして右手を差し伸べました。
それは、私たちが異邦人のところへ行き、
彼らが割礼を受けた人々のところへ行くためです。」(ガラテヤ2:7-9)
16節では、信仰によってのみ救いが得られるという基準に従う
二つのグループに祝福を述べるのである。
最初が「人々」と訳されているグループで、異邦人のことである。
次が「神のイスラエル」、つまり信仰のあるユダヤ人のことである。
これら二つのグループを新改訳聖書は「すなわち」と訳して
同一グループと見なしているのは、
契約神学の視点からの読込みであると言わざるを得ない。
そこにはKaiという接続詞が用いられてあって、
その主要な意味はANDであり、並列に訳されるべきものである。
口語訳聖書はその点で正しく訳出してある。
「 この法則に従って進む人々の上に平和とあわれみとがあるように。
また、神のイスラエルの上にあるように。 」
(Gal 6:16 口語訳)
ガリラヤ湖
イスラエルとキリスト教会❽〜新約聖書での「イスラエル」用法について
契約神学という流れにある人々は、
新約聖書で教会が新しいイスラエルになったのだと言う。
この二つの用語が相互に交換できるものであるとしている。
果たしてそうであろうか
新約聖書では73回、
イスラエルという語が出現している。
聖書の各書に出現している、代表となる聖句を一つずつだけ取り上げてみる。
Matthew 2:20
「立って、幼子とその母を連れて、イスラエルの地に行きなさい。
幼子のいのちをつけねらっていた人たちは死にました。」
:家族がイスラエルの土地に帰って来たという地理的な名称に過ぎない。
Mark 15:32
「キリスト、イスラエルの王さま。
今、十字架から降りてもらおうか。
われわれは、それを見たら信じるから。」
また、イエスといっしょに十字架につけられた者たちもイエスをののしった。
:イスラエルの王としてイエスが嘲弄された
Luke 4:25
わたしが言うのは真実のことです。
エリヤの時代に、三年六か月の間天が閉じて、
全国に大ききんが起こったとき、イスラエルにもやもめは多くいたが、
:エリヤ時代のイスラエルにいたやもめに対する歴史的な言及である
Acts 2:22
イスラエルの人たち。このことばを聞いてください。
神はナザレ人イエスによって、あなたがたの間で
力あるわざと不思議としるしを行われました。
それらのことによって、神はあなたがたに、この方のあかしをされたのです。
これは、あなたがた自身がご承知のことです。
:ペテロは不信仰なユダヤ人会衆に対して呼びかけているもので、
これが教会であるはずがない
Romans 9:6
しかし、神のみことばが無効になったわけではありません。
なぜなら、イスラエルから出る者がみな、イスラエルなのではなく、
:パウロは二つのイスラエルを対照させている。
一つはイスラエル全体であり、
もう一つがその一部である信仰のイスラエルである。
1 Corinthians 10:18
肉によるイスラエルのことを考えてみなさい。
供え物を食べる者は、祭壇にあずかるではありませんか。
:「肉の」イスラエルとは、国家的・民族的イスラエルのことである
2 Corinthians 3:7
もし石に刻まれた文字による、死の務めにも栄光があって、
モーセの顔の、やがて消え去る栄光のゆえにさえ、
イスラエルの人々がモーセの顔を見つめることができなかったほどだとすれば、
:モーセ時代のイスラエル人の子供達への歴史的な言及である。
Galatians 6:16
どうか、この基準に従って進む人々、
すなわち神のイスラエルの上に、平安とあわれみがありますように。
:「神のイスラエル」とあるこの箇所が、
契約神学にある全ての人達に共通して
教会がイスラエルと呼ばれる根拠であるとしている。
Ephesians 2:12
そのころのあなたがたは、キリストから離れ、
イスラエルの国から除外され、約束の契約については他国人であり、
この世にあって望みもなく、神もない人たちでした。
:「イスラエルの国」とは、「異邦人」と区別され、
「新しい一つの人」=教会とも区別されている。
Philippians 3:5
私は八日目の割礼を受け、イスラエル民族に属し、
ベニヤミンの分かれの者です。きっすいのヘブル人で、
律法についてはパリサイ人、
:パウロの出身の言及であって、民族的イスラエルのことである。
Hebrews 11:22
信仰によって、ヨセフは臨終のとき、
イスラエルの子孫の脱出を語り、自分の骨について指図しました。
:民族的イスラエルの歴史的な出エジプトのことである。
Revelation 7:4
それから私が、印を押された人々の数を聞くと、
イスラエルの子孫のあらゆる部族の者が印を押されていて、
十四万四千人であった。
:これは、イスラエルの12部族のことである。
「宮きよめ」
マタイ21章12~ 17節
~マタイ福音書連続講解説教59~
聖書本文とメッセージノートはこちらから:
http://wdx.hosannamin.org/whatsnew/view/1217-59
受難週の二日目、月曜日の出来事である。
主は商売をしている人たちや両替商などの世俗的利益で働いていた者たちを
神殿から追い出した。宮きよめと言われている所以である。
公生涯での最初の過越の祭りにも同様の宮きよめをされているが、
今回の記事は2回目の出来事となる。
宮きよめにはどのような意義があるのだろうか。
❶イエスご自身のメシア宣言であった
主は神殿のことを「わたしの家」と呼ばれた。
ここにご自分が神に等しい存在であるとの宣言がある。
当時のユダヤ教は、パリサイ派による逸脱した形骸化宗教であり
また神殿においては大祭司たちの懐を温める特権ビジネスと化していた。
「強盗の巣」にしていると主が弾劾したのは、
大祭司達が生贄の動物を認証する権限を利用して
金儲けに走っていたからである。
彼らの認証なしに動物を捧げることができなかったし、
シェケル銀貨でしか献金が許されていなかったので
両替商もまた大祭司一家のビジネスとなってぼろ儲けをしていた。
「異邦人の庭」と呼ばれる境内が占拠され、
到底祈りに集中できる場でなくなっていたのである。
主は、宗教を借り物にした偽善や貪欲に激しい怒りを向けられた。
ここでもう1つ注目したいのは、
そのように堕落したユダヤ教であったとしても
その神殿での礼拝を神聖なものと認めておられることである。
主イエスは聖書的ユダヤ教の流れの中に位置付けられ、
連綿と続く預言者たちの系譜に属するお方であると言える。
❷権力者たちとの論争の火種となった
ニサンの月の10日に過越用の羊が選り分けられると、
14日に屠られるまで傷や欠損がないか吟味された。
同様に主は10日のエルサレム入京時に選り分けられた。
そして14日夜の最後の晩餐までの間、
様々なグループから「傷のない子羊=メシア」であるかを吟味されることになる。
その吟味とは、ユダヤ教の各派閥からの論争であった。
その原因を作ったのがこの時の神殿での激しい主の行動であった。
主はすでに金曜日に十字架で処刑されることご存知であられたが、
それに向かっての着実な布石であったともいうことができる。
つまり金曜の午前9時に神殿では過越しの羊が捧げられる時間に、
神の子羊であられる主が十字架に付けられなくてはならない、
そのゴールを定めた歩みがすでに始まっていたのである。
❸預言の成就のために
商売人たちが追い出された後の広大な神殿域には、
「盲人や足の不自由な人々」がみもとに来て、癒されたとある。14節。
こられすべてを見ていたのが子供たちがいた。
彼らは「ダビデの子にホサナ」と言って、
メシアとして主を歓迎したのであった。
それは詩篇8:2の成就となった。
「幼子と乳飲み子たちの口に賛美を用意された」(16)
幼子は時に鋭利な直感で真実を見分け、率直に表現する特徴がある。
一方、大人たちは権力者・サンヘドリンにはばかって無言を貫いていた。
イエスを認める人は、必ずしも教育があったり力のある人たちではなかった。
幼児のような純真な信仰のあるものによって主は称えられたのだ。
やがて到来する神の国も、このような者たちによって建立されることになる。
死海
「メシアのエルサレム入京」
マタイ21章1~11節
~マタイ福音書連続講解説教58~
聖書本文とメッセージノートはこちらから:
http://wdx.hosannamin.org/whatsnew/view/111-58
この21章から、受難週として主イエスの地上生涯最後の一週間が始まる。
メシア(=主イエス)がエルサレムに入京する記事がその受難週の皮切りであり、
四福音書全てに共通して書かれている記事となっている。
これは歴史的出来事であり、
AD30年、ニサンの月、10日(日曜)であるのが分かっている。
①預言の成就としてのエルサレム入京
1.ゼカリヤ9:9 〜初臨のメシアが平和の王として行進される預言であり、
その日時に成就した。
2.ゼカリヤ14:4、9 〜再臨のメシアが世界を裁く王として行進される預言であり、 今後の将来に成就する。
②エルサレムを見て涙を流された主。ルカ19:41~44.
41 エルサレムに近くなったころ、
都を見られたイエスは、その都のために泣いて、
42 言われた。
「おまえも、もし、この日のうちに、平和のことを知っていたのなら。
しかし今は、そのことがおまえの目から隠されている。
43 やがておまえの敵が、おまえに対して塁を築き、
回りを取り巻き、四方から攻め寄せ、
44 そしておまえとその中の子どもたちを地にたたきつけ、
おまえの中で、一つの石もほかの石の上に積まれたままでは残されない日が、 やって来る。それはおまえが、神の訪れの時を知らなかったからだ。」
(ルカ19:41-45)
1.群集たちの短期的視点
~イエスに即刻、政治的解放者になってもらいたい強烈な願望を抱いていた。
2.主は長期的視点に立つ
〜AD70年のエルサレム崩壊とそこでの悲劇、ユダヤ人の世界離散を見ていた。
③神の時は確実にやってくる
1.私たちは常に神の訪れが遅いと感じるものである。
•物事が進展していないときや、
進展はしていたとしても自らの期待通りではないとき。
人のお心と神の御心の、乖離することの何と多いことか。
だが、人よりもさらに優れた計画を神は持っておられることを知ろう。
•バビロン定住を勧めたエレミヤの手紙:エレミヤ29:4~11.
「夢見る者たち」は愛国心を振りかざして
直ぐにも故国イスラエルに帰れるとしたが、
エレミヤはバビロンでの落ち着いた定住生活をせよと勧めた。
帰還までには70年を要するというのが神の計画であった。
それは当時の人々には、とても悠長に感じたであろう。
•AD30年にメシア王国を樹立させなかったこともしかり。
イスラエル人は身が焦がれる様な思いで期待したのだが、
イエスは十字架で死を遂げてしまい、
失望のどん底へ投げやられたのだ。
以来すでに約2千年も経つが、メシア王国はさらに将来へと伸ばされている。
•日本史上、戦国時代末期のキリスト教禁教とその後の鎖国政策が
現在の日本人の精神性を規定していると言っていい。
キリスト教に対する閉鎖性、拒絶性といった我々の国民性を蒸留したのが、
徳川時代を経ての300年であった。
「もし」織田信長の治世が継続していたら、
解放的で進取性に富んだ日本人気質が
キリスト教受容を容易にしていたであろう。
戦国時代に来日した何れの宣教師も、
日本人のことをどの民族よりも宗教熱心で改心しやすい民族であると認識した。
そのような報告文が随所に資料として保存されてある。
あの本能寺の変で
明智光秀が狂乱しなければ、、、
しかし、ここにも計り知れない神のお考えと計画とがあるはずである。
今の私たちにはそれが見えない。
2. 神の時は遅くなることなく、最善のときにやって来る
・「バビロンに70年の満ちるころ、、あなたがたをこの所に帰らせる」
(エレミヤ29:10)。
かつて、捕囚からの帰還を夢見た人たちに
すぐには実現しないと神は語られている。
しかし、バビロン捕囚からのタイミングは
長期的展望に立てば最善の時であったのだ。
•「異邦人の完成のなるとき」(ローマ11:25)に
世界宣教の終焉とメシア王国の樹立が起こる。
これも2千年前の当時のユダヤ人には待てないことであった。
彼らは即刻、世界の栄光をつかみたかったのだ。
神は今現在も、忍耐されておられる。
それが、全世界にとっては「富」(ローマ11:12)となったのである。
•数奇な日本歴史にはキリスト教禁教の忌まわしい事実が包含されている。
やがて徳川・鎖国政策の300年の呪縛が解ける時が到来して、
本来の日本人特質を回復する季節がやって来るのではないだろうか。
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