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モーセ律法は有効か~まとめ❸

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モーセ律法は有効か〜まとめ❸

マタイ5:18を正確に解釈するために、
原文のギリシャ語、そして主な英語訳とを比較してみよう。


KJV Matthew 5:18
For verily I say unto you, Till heaven and earth pass,
one jot or one tittle shall in no wise pass from the law, till all be fulfilled.

NAS Matthew 5:18
"For truly I say to you, until heaven and earth pass away,
not the smallest letter or stroke shall pass away from the Law,
until all is accomplished.

BGT Matthew 5:18
ἀμὴν γὰρ λέγω ὑμῖν· ἕως ἂν παρέλθῃ ὁ οὐρανὸς καὶ ἡ γῆ, ἰῶτα ἓν ἢ μία κεραία οὐ μὴ παρέλθῃ ἀπὸ τοῦ νόμου, ἕως ἂν πάντα γένηται.

新改訳 Matthew 5:18
まことに、あなたがたに告げます。天地が滅びうせない限り、律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません。全部が成就されます。



日本語の新改訳とは大きく違う解釈が原文からは読み取れる。

新改訳を読む限り、
「天地が続く限り、
律法の中の一点一画でも廃れることなく、
(律法が)全部成就される」と解釈されてしまう。

ところがギリシャ語原文を英語訳を助けとしながら読めば、
以下のように釈義できるはずだ。

律法の中の一点一画でも、決して廃れることはない。
①天地が滅び失せないまでは(ἕως)
②全部が成就されるまでは(ἕως)

原文では2回現れているἕως (までは、Till, Until)という接続詞が
どの英語訳にも2回現れていて、上の解釈を可能としているのに対して
新改訳では1度きり現れてこない。

それにより、正反対の解釈をせざるを得ず、大きな混乱を招いてしまう。

つまり、新改訳の翻訳では
モーセ律法がとこしえまで続き、
一点一画も廃れることはないと読めてしまうのだ。

ところが、
「全部が成就されるまでは
一点一画も廃れることはない」、というのが
本来の原文が教えているものである。

では、「全部が成就したとき」とはいつのことか。

これまで論じてきたように、 
もちろんそれは、メシアが十字架で死を遂げられたときである。

主が「完了した」と言われて「霊をお渡しになった」瞬間(ヨハネ19:30)、
モーセの律法は破棄されたのである。


イエスは、酸いぶどう酒を受けられると、
「完了した」と言われた。
そして、頭をたれて、霊をお渡しになった。
(ヨハネ 19:30)
#救済

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モーセ律法は有効か〜まとめ❷

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モーセ律法の無効性のまとめ❷

以上モーセ律法の無効性を論じてきたわけだが、
これに対する反論として引用されるのが、
次の聖句である。

「17 わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。
廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。

18 まことに、あなたがたに告げます。天地が滅びうせない限り、
律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません。
全部が成就されます。 (マタイ 5:17-18) 」

この聖句を引用しモーセ律法は今も効力を持ち続けていると主張している人の中で、
その主張の内容を一貫して自分に適用している人を私は見たことがない。

誰一人として自分が主張していることを実行していないのだ。

いや、現代ではモーセ律法が廃止されていると考えなければ
日常生活を送ることすら出来ない。

祭司やその衣服、いけにえに関する規定がその一例である。

その辺りの矛盾を、次にように苦し紛れに説明しようとの試みがなされてきた。

・その部分は新しい律法が取って代わったんだ
・もっと大きな文脈で実現している
・その真実の意味を汲み出す必要がある

しかし、今日では613の戒めを文字通りに適用することは
不可能だという点だけははっきりしている。

さらに19節には次のように書かれてある。

「だから、戒めのうち最も小さいものの一つでも、
これを破ったり、また破るように人に教えたりする者は、
天の御国で、最も小さい者と呼ばれます。
しかし、それを守り、また守るように教える者は、
天の御国で、偉大な者と呼ばれます。 (マタイ 5:19) 」

モーセ律法の全てでなくとも、
道徳法だけは有効であると多くの人は言う。

だがここでは、
「戒めのうち最も小さいもの」でも破ってはいけないと言われており、
道徳法のみならず、613の全ての戒めを守ることに強調点がある。

つまり、全てが無効が、全てが有効であるのかの二者択一しかないことになる。
All or Nothing である。

この5:17-19は、主イエスが地上で生きている時に言われた言葉であり、
主は生きている限り、モーセ律法にことごとく従われた。

ただしそれはモーセが教えた通りのことであり、
パリサイ人の解釈通りということではない。

主はモーセ律法を成就するために来られた。

それは主の誕生や地上生涯をもってではなく、
十字架という死をもって成就したのである。

その時、同時に律法は廃棄されたのである。

マタイのこれらのお言葉は、
モーセ律法の永遠の不滅性を教えているものではなく、
主の来臨の目的を教えているのである。

人類史上初めてモーセ律法の100%をことごとく守り、
それを成就した方が、
死をもってそれを無効としたのである。






#救済

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モーセ律法は有効か〜まとめ❶

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モーセ律法の無効性のまとめ❶

モーセ律法は613の戒めからなる統一体であり、その全てが無効となっている。
メシアの十字架上での死以降、効力を保っている戒めは一つもない。

しかしながら、律法が廃棄されているからといって、
その教えの意味や目的が失効したのではないことに注意していただきたい。

律法には、依然として次のような役割があると新約聖書は告げている。

①高い神の義の基準が分かる
②人間の罪深さが分かる
③人が贖いを必要としているのが分かる
④人として来られるメシア予言を知る
⑤人をイエスへの信仰に導くことができる。ガラテヤ3:23ー25

しかし、今や個人への強制力を持った権威ある掟ではない。
信者の生活を規定する戒めでもない。

こう言うと、では道徳的な教えは守らなくて良いのか、
という質問が帰ってくる。

盗むな、殺すな、姦淫するな、人の物を欲しがるな、
といった道徳法からも解放かれたのか、と疑問にする人もいるであろう。

道徳法はモーセ律法で始まったのでもないし、
メシアの死で終わったのでもない。

道徳法はモーセ律法の前にすでに存在していたからである。

人が神と最初に結んだ契約、エデン契約にすでに道徳法が見出される。

そしてアダムはモーセが登場するよりもはるか以前に道徳法に違反してエデンの園から追放された。

さらにサタンはアダムよりもはるか以前に道徳法を破っていた。

モーセ律法は、メシアの律法と同様に道徳法を体現しているが、
モーセ律法で道徳法が始まったのでない。

真、善、聖なる神様は、
歴史の当初からご自身の性質に照らして、
尊重されなくてはならない道徳的な戒めを
私たちに啓示されておられるのだ。

そして現在の信者は新約聖書に啓示されてある
メシア律法の道徳法の権威の下に置かれていることになる。
#救済

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モーセ律法は有効か〜その❼

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❼Ⅱコリント3:2-11

「2 私たちの推薦状はあなたがたです。
それは私たちの心にしるされていて、
すべての人に知られ、また読まれているのです。

3 あなたがたが私たちの奉仕によるキリストの手紙であり、
墨によってではなく、生ける神の御霊によって書かれ、
石の板にではなく、人の心の板に書かれたものであることが明らかだからです。

4 私たちはキリストによって、神の御前でこういう確信を持っています。

5 何事かを自分のしたことと考える資格が
私たち自身にあるというのではありません。
私たちの資格は神からのものです。

6 神は私たちに、
新しい契約に仕える者となる資格を下さいました。
文字に仕える者ではなく、
御霊に仕える者です。
文字は殺し、御霊は生かすからです。

7 もし石に刻まれた文字による、
死の務めにも栄光があって、モーセの顔の、
やがて消え去る栄光のゆえにさえ、
イスラエルの人々がモーセの顔を見つめることができなかったほどだとすれば、

8 まして、御霊の務めには、どれほどの栄光があることでしょう。

9 罪に定める務めに栄光があるのなら、
義とする務めには、なおさら、栄光があふれるのです。

10 そして、かつて栄光を受けたものは、
この場合、さらにすぐれた栄光のゆえに、
栄光のないものになっているからです。

11 もし消え去るべきものにも栄光があったのなら、
永続するものには、なおさら栄光があるはずです。


ここで扱っているのは、十戒である。
今も大抵のクリスチャン達が手放したくはないと考える律法の一部である。

モーセ律法のほとんどは無効であることは認めても、
ある一部のものは、
特に十戒は今も有効な神様から命令であると考えるクリスチャンは多い。

それでは、パウロがモーセ律法を何と呼んでいるかに注目してみよう。

「死の務め」(7節)
「罪に定める務め」(9節)

3,7節を見ればここで論じているのは十戒であるのが分かる。
「石に刻まれた文字」とは、十戒に他ならない。

ここでの要点は、十戒に代表されるモーセ律法は
「死の務め」
「罪に定める務め」
だということだ。

さらに、7,11節を見ていただきたい。
律法は「消え去るべきもの」とある。

ここで言われていることは一目瞭然でモーセ律法、
その中心であると目されている十戒はもはや効力を失ってしまっている、
ということである。

それとは反対に、メシアの律法は無効になることがないと言われていることから、
メシア律法の優位性を見ることができる。
#救済

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サックスホーン・コンサート

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サックスホーン・コンサート サックスホーン・コンサート サックスホーン・コンサート サックスホーン・コンサート


本日のホサナ教会では、特別ゲストとして岸義紘先生をお迎えしました。

サンフランシスコから、一人でレンタカーを駆使しておいで下さいました。

すでに当教会に来られる前に、
リンウッドとシアトルにある二つの教会でのご奉仕をその日に終えての強行軍。

しかし、微塵ほどの疲れも見せずに精力的な演奏と講演とをして下さいました。
先生はサックスホーン演奏の第1人者であられます。

「ふるさと」

「荒城の月」

「ダニーボーイ」

「アメイジング・グレイス」

「丘に立てる荒削りの」

「瀬戸の花嫁」…………

サックスホーンから流れ出る軽妙な音が作り出す異次元の世界。

時間の経つのを忘れながら、贅沢な秋の宵をじっくりと堪能。

これら有名曲の作詞者・作曲家たちのクリスチャンとしての信仰の歩みをも語っていただいて、
さらに味わい深くサックスの音色が心に浸透しました。

この後、岸先生はカナダ・バンクーバーまで行かれ、
そこで日曜礼拝のご用。

その後はカルガリー、トロントへとロッキー山脈を超えての
一人ドライブが続きます。

そしてニューヨークを中心にして東海岸一帯でのご奉仕。

ロサンゼルスまでの大陸横断もまた、同じレンタカーでの一人ドライブ。

70歳を過ぎているとは到底思えない溢れる力。

道中の安全と、巡回各地でのご奉仕の祝福をお祈りいたします。
#救済

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ホサナキリスト教会・聖書広場から

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「結婚関係について」

マタイ19章1~ 12節

~マタイ福音書連続講解説教50~

聖書本文とメッセージ・ノートはこちらから:
http://wdx.hosannamin.org/whatsnew/view/911250


さて、主と弟子一行は、
「ヨルダンの向こうにあるユダヤ地方に行かれた」
とありますが、

そこはヨルダン川の東側の川に沿った南北に長い地域で、
ペレヤと呼ばれていました。

  • ヘロデ・アンティパスの領土でした。
  • ガリラヤ伝道を終えられ、
    エルサレムへのゴールの途上にあっての出来事です。
  • 約6ヶ月前後をペレヤで過ごされています。
  • マタイ19~20章がペレヤ伝道の記事。
  • へロデ・アンティパスの離婚問題を取り上げたバプテスマのヨハネは
    ここで捕縛されて、斬首されました。

ここでは先ず、その地域性ゆえにパリサイ人等の質問から始まっています。

パリサイ人たちがみもとにやって来て、
イエスを試みて、こう言った。
「何か理由があれば、妻を離別することは律法にかなっているでしょうか。」
(マタイ 19:3 )


❶今日の離婚問題と聖書

米国でおおよそ50%

日本ではおおよそ25%

これは離婚率の数値である。

それは年々上昇しているのに加えて、
さらに今日的な切実な問題は他にもある。

結婚するカップル自体が減少していること、

晩婚化、

米国で広がる同性婚の合法化などである。

この錯綜し、かつ倒錯した21世紀社会は
紀元1世紀の主イエスの社会とは大きく異なる。

そこでは、
  ・ 結婚は双方の親同士がアレンジしたものであった
  ・ 故に独身は稀に見るケースであった
  ・ 女性で13歳前後、男性で16歳前後が平均の結婚年齢であった
  ・ 女性の権利はないに等しいものであり、
    離婚は男性側の訴えしか許されていない

離縁された女性ややもめとなった女性は社会保障のない当時、 
極貧を意味した。

それゆえ他の男性に身を寄せる(再婚)他、
生活の糧を得る手段がなかった。

女性が仕事を得る機会は稀で、ほとんどなしと考えて良い。

これらの社会的背景を考慮した上での、
つまりは文脈に添った釈義をしない限り、
聖書を正しく解釈したことにならない。

「だれでも不貞のためでなくて、
その妻を離別し、
別の女を妻にする者は姦淫を犯すのです」(9節)

との主のお言葉を直接引用して、

不幸にして離婚に至った者を断罪することは短絡すぎる。

今日の離婚に至る経緯はそれぞれ千差万別で、
当時の世界にはあり得なかった状況であり、
主のお言葉は、その複雑さを前提として語られているものではない。



❷1世紀の離婚観

当時のユダヤ教パリサイ派にはの2大派閥があり、
離婚を合法化する「理由」を巡り大論争をしていた。

旧約聖書が示す離婚の条件とは以下に教えられている。

「人が妻をめとり夫となり、
妻に何か恥ずべき事を発見したため、
気に入らなくなり、離婚状を書いてその女の手に渡し、
彼女を家から去らせ…」 (申命記 24:1)

この「恥ずべき事」とは何か?を巡る論争である。

  • ヒレル派は、広義に解釈。家事の出来具合も離婚に至る正当理由とした。
  • シャマイ派は、狭義に解釈。不貞のみが離婚の正当理由とした。

 主イエスのお答え(8~9)から、
主が離婚の正当理由となるのは不貞のみとするシャマイ派と同じ見解を持っておられるのが分かる。

それだけではない。
さらに、夫側の責任も問うている。

当時は夫だけに妻を離別する権利があったが、
その夫も他の女性を娶ったら姦淫罪が問われるというのだ。

これは当時の結婚観からして飛躍しており、
相当革新的に聞こえて、弟子たちを驚かせた。

弟子たちはイエスに言った。
「もし妻に対する夫の立場がそんなものなら、
結婚しないほうがましです。」 (マタイ 19:10)


❸主の教えは革新的でも独創的でもなく創世記からの本来のものである
 
時代が変わっても、変わらないものがる。

それは人の尊厳性であり、結婚の神聖さである。

これを教えるために、
そもそもどのようにして人が創られたかを主は確認された。

人間創造の際、
神にとって離婚は想定外であった。

「ふたりの者が一心同体」であり、
もはやふたりではなく、ひとりである、
とある。

そして、「人(その都合や勝手な理由で)は、
神が結び合わせたものを引き離してはなりません」とあり、
結婚の神聖さが教えられている。

人の意志だけに依らず、
神の神秘的な導きがあって結婚が成立したのに、
人のわがままな理由からその神意を踏みにじってはならないとするのである。

ヒレル派が離婚理由として挙げている家事の出来具合等で妻を去らせることは、
女性の人権侵害につながるであろう。

最初の女性はアダムの肋骨から造られたゆえに、
アダムをして

「私の骨からの骨、肉からの肉」
と言わさしめ、

二人の一体性、
かつ、それぞれの独自性と尊厳とが描写・保持されている。

結婚・離婚問題は創世記から、
以下のような基本を確認できる。

 ①創造主なる神を認めること

 ②男性・女性のそれぞれの神聖な尊厳性、

 ③そこから派生する権利を尊重すること

言い換えるなら、創世記なくして、
人の尊厳も、結婚の神聖さも守ることはありえない。

偶然の繰り返しで人間が下等動物から進化したと教える妄想には
希望も未来もない。

結婚とは、
キリストと教会の一体化のひな形となっている(エペソ5:32)程に、
神意に基づく神秘であることを知るのである。

「それゆえ、人は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となる。」
この奥義は偉大です。私は、キリストと教会とをさして言っているのです。
それはそうとして、あなたがたも、おのおの自分の妻を自分と同様に愛しなさい。
妻もまた自分の夫を敬いなさい。
(エペソ 5:31-33)


主は斬新的な結婚観を示したのでも、
新しい宗教をキリスト教として創始されたのでもない。

すでに存在している本来の聖書的ユダヤ教の系譜に連なる神&人であられる。

#救済

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ホサナキリスト教会・聖書広場から

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「教会内での罪の赦し」

マタイ 18 章 21~ 35 節

~マタイ福音書連続講解説教 49~

聖書本文とメッセージノートはこちらから:
http://wdx.hosannamin.org/whatsnew/view/8152049


18 章はキリスト教会内での統治原則を教えている章でした。
ここでは、罪の赦しについて主が「天の御国」のたとえで教えておられます。


❶7度を70倍するまで赦しなさい

最近日本のTVドラマにより「倍返し」なんていう言葉が流行っているようです。

理不尽な仕打ちを受けた立場の弱いサラリーマンが復讐を成功させる物語は、
多くの人達の溜飲を下げたようです。

それだけストレスの強い世界に私たちが生きている、ということです。

しかしながら、実際の世界で復讐が問題を解決することはあり得ません。

倍返しされた方は、さらにその倍返しすることになり、
終わりの無い復讐合戦に至り、
双方の被害は取り返しのつかないところまで進んでしまうからです。

現在の泥沼化しているシリア内戦にその例を見ます。

ペテロが主イエスに、
「兄弟が私に対して罪を犯した場合、何度まで赦すべきか。7度までですか」
と問います。

当時、限界が3度までと言われている中で、
7度までとはかなりの寛容さを示したと言えるのですが、
主はその7度を70倍するまで、つまり無限に赦しなさい、と教えられました。

「そ、そんな〜」

いぶかしがっているペテロに語ったのが、
王様としもべの負債を巡ってのたとえ話でした。


❷貴方はすでに神様から赦されている

王様から1 万タラント(1 タラントは6千デナリ)=6 千×1 万×1 万円=6 千億円の借金を背負ったしもべは「自分、妻子、持ち物全部を売って」も返済しようがないので、
その債務を全額チャラにしてもらった。

ところが、そのしもべは仲間の百デナリ=百万円の借金を赦せずに、
彼を獄屋に引き渡したという。

対比すれば、6千万円の借金を棒引きしてもらったのに対して、
百円の仲間の負債が赦せなかったのだ。

ここでは私たちの罪の大きさが教えられている。

神に対して膨大な罪の負債を抱えている私は、
いくら善行苦行を積んだところでその罪は帳消しにはならないのである。

それには血潮、つまり生命が必要とされた。

それも罪に汚れていない、純白な血潮でなければ贖いの効力はないのである。

罪のない神の小羊は一人だけ、主なるイエスであられる。

貴方の罪の負債は、すでに主イエスが十字架上で支払い済なのである。


❸「(他者を)赦さなければ、(貴方も神から)赦されない」とは、本当か?

たとえ話の最後は、
しもべ仲間を赦さなかった彼を捕まえて、牢屋にぶち込んだ王の話があり、
「心から兄弟を赦さないなら、天の父も、あなた方にこのようになさる」
との主の結語で終わっている。

似たような箇所としてマタイ 6:14 がある。

「14 もし人の罪を赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。
15 しかし、人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの罪をお赦しになりません。」  (マタイ6:14-15)

これらは、これまでに大きな誤解を生んできた聖句である。

あたかも私たちが他者を赦す度合いに応じて、神からの赦しが得られる、
もし赦さないなら赦されたことまで、
つまり救いそのものまでが取り上げられてしまうかのように読み込まれてしまう傾向にある。

聖書の言葉は、そこの箇所だけを取り上げて判断してならない。

どういう状況の下で語られたものかという、文脈を考慮せねばならない。

当時の社会的、歴史的、文化的なあらゆる側面の文脈を見出した上で、
始めて妥当な解釈が成り立つ。

誇張法や倒置法といった文学的手法があることも、わきまえねばならない。

そして聖書の他の多くの箇所で、広いスペースを割いた箇所で
明確に教えている教理と矛盾するかのような解釈を拾い出してはならない。

こられは解釈学の原則である。

この原則を無視してある特異な聖書箇所を取り上げ、
直接現在の自分たちに当てはめようとするのは危険であり、
恣意的解釈に陥る。

その過ちは繰り返されてきた。

たとえは千年ほど前、キリスト教国と言われる欧州諸国の十字軍派遣の根拠に、

また今日では、エホバの証人という異端が輸血を拒否して我が子を死に至らしめる教えも、
聖書の言葉を文脈を無視しての乱用によるものである。

もし人の救いが、上記のように人が他人を赦したかどうかにかかっているとするなら、善行により人は救われることになってしまう。

それは、人はただ神の恵みにより、一方的に救いが与えられるとする聖書全体の教えとは逆行するものである。

人の為せる領域は、その恵みを受け取る信仰だけである。

では、王なる神様が「獄屋に引き渡す」とはどういう意味か?

それは、神が備えておられる祝福に与ることが出来ない、
ということで救いが取り去られることではない。


ルワンダのジェノサイドの際、
暴虐と暴行から逃れた女性が、やがて犯人と和解する場面が先日紹介されていた。

その女性は犯人を赦さない限り、憎しみと怨念に苦しみ続けたという。
自分を解放して自由にさせる唯一の方法は、復讐ではなく、
主イエスによって犯人を赦すことだったと証言してくれた。

その赦しの超自然的な力と恵みとを主からいただいたのだと、証されていた。



#救済

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モーセ律法は有効か〜その❻

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❻ガラテヤ3:23-25

「信仰が現れる以前には、私たちは律法の監督の下に置かれ、
閉じ込められていましたが、それは、やがて示される信仰が得られるためでした。

こうして、律法は私たちをキリストへ導くための私たちの養育係となりました。

私たちが信仰によって義と認められるためなのです。
しかし、信仰が現れた以上、私たちはもはや養育係の下にはいません。」
(3:23-25)

ここでは律法が、
未成年者をメシアへの信仰へと導く養育係、家庭教師と見なされている(3:24)。

それなら、メシアを信じた以上、その養育係の下にいないことになる。

我々はもはやモーセ律法の権威の下にはいないのである。

この箇所は、それ以上にはない明快さで、メシア到来により律法が無効になったことを論じている。
#救済

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モーセ律法は有効か〜その5

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❺エペソ2:14〜15

「14 キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、
隔ての壁を打ちこわし、
15 ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。
敵意とは、さまざまの規定から成り立っている戒めの律法なのです。
このことは、二つのものをご自身において新しいひとりの人に造り上げて、
平和を実現するためであり、」


律法は隔ての壁といわれていたが、今やそれが取り去られた。

神様は、イスラエルと4つの無条件契約を結ばれてきた。

①アブラハム契約
②土地の契約(アブラハム契約の土地に関する条項が発展)
③ダビデ契約(アブラハム契約の子孫に関する条項が発展)
④新しい契約(アブラハム契約の祝福に関する条項が発展)

物質的なものであれ、霊的なものであれ神様の全ての祝福は
このユダヤ人の4つの契約を通じて与えられるものである。

神様はまた5つ目の契約を与えられたが、それは他の4つの契約とは異なるもので
条件付きで一時的なものであった。

それがモーセ律法を包含しているモーセ契約である。

モーセ律法は隔ての壁の役割を果たし、
異邦人をユダヤ人の霊的な祝福から切り離していた。

もしモーセ律法が今でも有効であるのなら、
それは異邦人を今でも分け隔てる壁となっていなければならない。

しかしその壁がメシアの死と同時に崩壊したのである。

「ご自分の肉において」とは、「ご自分の肉体によって」との意味であり、
つまり死を通じてとのことである。

この神学的な重要ポイントを象徴とする出来事が
メシアの死の瞬間に起こっているのを福音書記者は忠実に記録している。

「50 そのとき、イエスはもう一度大声で叫んで、息を引き取られた。
51 すると、見よ。神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた。 」
(マタイ 27:50-51)

ここで「神殿の幕」とあるのは、
神殿内の聖所と至聖所とを隔てる厚手のカーテンのことである。

至聖所には大祭司一人が全イスラエル&人類を代表して
1年に一度だけしか入れなかった。

聖所には祭司しか入れず、さらにその周りを取り囲む境内の内庭には
イスラエル人男性しか入れないとモーセ律法は命じる。

男性と女性、異邦人とイスラエル人、一般人と祭司、祭司と大祭司、、、

これら人と人とを区別する掟があり、
神に近づく際にも隔たりがあるとモーセ律法は教えている。

上記の新約のエペソ書では、
隔ての壁とはモーセ律法であると明言されてある。

それはつまり、
モーセ律法がメシアの死と同時に無効となったと理解しなくてはならない。

隔ての壁が除去された今、
異邦人は異邦人のままで信仰の原理により、
メシアなるイエスにある約束をともに相続し、
ユダヤ人の霊的な祝福に与り楽しむことを許されている。

#救済

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田村治郎師・特別講演会

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田村先生 田村先生 知らなかった世界に目が開かれて... 知らなかった世界に目が開かれて行く想いでした
この日のホサナキリスト教会は、
日本国際飢餓対策機構で主事を務めておられる、
田村治郎先生をお迎えしました。

アフリカの知られざる実情の数々に
驚くことしきり。

我々の通常の感覚や常識の通じない世界で、
犯罪、レイプ、虐殺が起こったルワンダやコンゴ。

その暗闇に「光」を灯すために、
現地で活躍しているクリスチャンたち。

先進国の経済力や技術力が、
アフリカの豊かな資源を利用するのは良いが、
結果として
現地を貧困のままに留め置いている現実。

気の遠くなるような複雑な問題を抱えている国々の実情にあって
カギは、
はやり人作りにあることに気づかされました。
#救済

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