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「人生は出会いで決まる」

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「人生は出会いで決まる」
ホサナキリスト教会日曜礼拝のメッセージアウトラインです。


「人生は出会いで決まる」










ルカの福音書 19章1~10節










"それからイエスはエリコに入り、町の中を通っておられた。

するとそこに、ザアカイという名の人がいた。彼は取税人のかしらで、金持ちであった。

彼はイエスがどんな方かを見ようとしたが、背が低かったので、群衆のために見ることができなかった。

それで、先の方に走って行き、イエスを見ようとして、いちじく桑の木に登った。イエスがそこを通り過ぎようとしておられたからであった。

イエスはその場所に来ると、上を見上げて彼に言われた。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。わたしは今日、あなたの家に泊まることにしているから。」

ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた。

人々はみな、これを見て、「あの人は罪人のところに行って客となった」と文句を言った。

しかし、ザアカイは立ち上がり、主に言った。「主よ、ご覧ください。私は財産の半分を貧しい人たちに施します。だれかから脅し取った物があれば、四倍にして返します。」

イエスは彼に言われた。「今日、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。

人の子は、失われた者を捜して救うために来たのです。」"













(1)  人はそれぞれがユニークな存在









①バルテマイ(ルカ18:35~)との比較
  物乞い ・ 金持ち

  個人事業主 ・ 税務署長官

  盲人 ・ 背が低い

  主イエスに叫ぶ ・ 隠れて主を見下ろす










②主のお取り扱いもそれぞれだった
  当初、そっけない対応 ・ イエス自ら近づかれた

  「何をして欲しいのか」 ・ 「今夜泊まらせてもらいたい」

  「見えるようになれ」 ・ 宿泊客となった







(2) 人は霊的な盲目である







①霊の目が開かれていくザアカイ
  背が低いことからの劣等感

  才覚と努力による金銭的な成功~それでも孤独と挫折を経験

  主イエスへの好奇心とつながりを求めた




 

②人の霊の目が開かれるために
  正しい自己の理解~変えられない運命を持ち、自分尺度の成功を得ても、空虚や孤独に陥る

  あきらめない求道心~障害は常にあるが、求めるものには応えてくださるとの信念を持て

  主イエスは、振り向き、近づいて声をかけられる










(3) 人の目が開かれるために










① 主イエスはあなたの名を呼ばれる  
  ザアカイとは初対面のはずだが~すでにあなたのすべてを、その虚無と孤独とをご存知だ

  客人として迎え入れるなら、さらに深いつながりが始まる

  「私の財産の半分を貧しい人に施し」~彼の価値観の大変革







②  これらは契約関係が土台 ~「Abrahamの子なのですから」

  「子」とは「契約の下にある」という意味であろう

  アブラハム契約締結の場面(創世記15章)

  アブラハム契約の更新が主が成就された「新しい契約」

  神とのつながりが回復できる保証のもとに私たちは置かれている













(結論)










かつては盲目であったが、主イエスによって目が開かれた

そこに至る経緯やその後の歩みは、人それぞれ異なる

しかし同じアブラハム契約の下にあるものとして、その救いの保証を受けている
#メッセージ

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「あとでわかるようになる」

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「あとでわかるようになる」
ホサナキリスト教会・日曜礼拝のメッセージアウトラインです。







「あとでわかるようになる」



ヨハネの福音書 13章1~10節



"さて、過越の祭りの前のこと、イエスは、この世を去って父のみもとに行く、ご自分の時が来たことを知っておられた。そして、世にいるご自分の者たちを愛してきたイエスは、彼らを最後まで愛された。

夕食の間のこと、悪魔はすでにシモンの子イスカリオテのユダの心に、イエスを裏切ろうという思いを入れていた。

イエスは、父が万物をご自分の手に委ねてくださったこと、またご自分が神から出て、神に帰ろうとしていることを知っておられた。

イエスは夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。

それから、たらいに水を入れて、弟子たちの足を洗い、腰にまとっていた手ぬぐいでふき始められた。

こうして、イエスがシモン・ペテロのところに来られると、ペテロはイエスに言った。「主よ、あなたが私の足を洗ってくださるのですか。」

イエスは彼に答えられた。「わたしがしていることは、今は分からなくても、後で分かるようになります。」

ペテロはイエスに言った。「決して私の足を洗わないでください。」イエスは答えられた。「わたしがあなたを洗わなければ、あなたはわたしと関係ないことになります。」

シモン・ペテロは言った。「主よ、足だけでなく、手も頭も洗ってください。」

イエスは彼に言われた。「水浴した者は、足以外は洗う必要がありません。全身がきよいのです。あなたがたはきよいのですが、皆がきよいわけではありません。」"




(1)  ペテロの困惑~「あなたが私の足を洗ってくださるのですか」(6)



①ユダヤの食事様式と洗足の必要性~どうしても必要な作業であり、僕の役割であった。


②時間の使い方も、生活も人生も私のものであり、幸福追求は、近代的自由人の権利である



(2) 主イエスが手ぬぐいを取られた~“イエスは夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。”(5)




①それでは主は自由のない僕だったのか~いや、他者のために自らを使い果たすことを選んでおられた


②父なる神の御心を行うことを喜びとされたゆえ(1)
〜人は存在の理由や目的、生きる役割を理解して初めて力を得る



(3) 今はわからなくても、あとでわかるようになる



 ①この数日後、主イエスは十字架で命果てることになる~私のような汚れた心を持つもの、卑しいもの、自分さえ良ければと思うような者の罪を洗い流すことに。

②  やがて聖霊をいただく時、ペテロはイエスの足跡を辿るものとされる~(13:36)



(結論)


私の仕えているものは誰だろう。

私自身だろうか、主イエスだろうか。

主は私の過去と現在と未来をすべて知られた上で、愛を現された。
#メッセージ

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「この鎖は別として、私のように」

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「この鎖は別として、私のように...
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「この鎖は別として、私のように」


使徒の働き 26章24~29節


"パウロがこのように弁明していると、フェストゥスが大声で言った。「パウロよ、おまえは頭がおかしくなっている。博学がおまえを狂わせている。」

パウロは言った。「フェストゥス閣下、私は頭がおかしくはありません。私は、真実で理にかなったことばを話しています。

王様はこれらのことをよくご存じですので、その王様に対して私は率直に申し上げているのです。このことは片隅で起こった出来事ではありませんから、そのうちの一つでも、王様がお気づきにならなかったことはない、と確信しています。

アグリッパ王よ、王様は預言者たちを信じておられますか。信じておられることと思います。」

するとアグリッパはパウロに、「おまえは、わずかな時間で私を説き伏せて、キリスト者にしようとしている」と言った。

しかし、パウロはこう答えた。「わずかな時間であろうと長い時間であろうと、私が神に願っているのは、あなたばかりでなく今日私の話を聞いておられる方々が、この鎖は別として、みな私のようになってくださることです。」"


⑴パウロの置かれていた現状~鎖に繋がれている


① 2年間の囚人生活~ユダヤ人からの暗殺陰謀があり、彼らに媚びているフェスト。

②私たちの現状も思わぬ病や気がかりを持っていて、それがいつまで続くのか解決の見通しさえないときに希望を失いかけることがある



(2) パウロの内的な実情~確信と希望に満ちていた


①復活されたキリストは今も生きておられると宣教。それは予言の成就であり、アグリッパ自身が見聞したもので、歴史的事件に根ざしているもの


②キリストと出会ったパウロは、このキリストが彼の内に彼と共に生きる生涯が始まった。



(3) パウロの願い~「私のようになってください」


 ①小さなものにも大きなものにも(22)、最も必要なことがあると確信していた。
  生けるキリストと出会い、その方にある希望と平安に満たされること。

②  それは彼の絶望的な状況をも覆すほどに大きな現実。


(結論)


パウロにとって事実であったように、私にとりあなたにとり、最も大切な事は、外的な制約から解放されることではない。「私のようになってください」と証言できるほど力と確信に満たす方が生きておられることを知ることである。キリストに満たされることである。
#メッセージ

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「銀を精錬するものが来る」

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「銀を精錬するものが来る」
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「銀を精錬するものが来る」




マラキ書 3章1~4節





"「見よ、わたしはわたしの使いを遣わす。彼は、わたしの前に道を備える。あなたがたが尋ね求めている主が、突然、その神殿に来る。あなたがたが望んでいる契約の使者が、見よ、彼が来る。──万軍の主は言われる。」

だれが、この方の来られる日に耐えられよう。だれが、この方の現れるとき立っていられよう。まことに、この方は、精錬する者の火、布をさらす者の灰汁のようだ。

この方は、銀を精錬する者、きよめる者として座に着き、レビの子らをきよめて、金や銀にするように、彼らを純粋にする。彼らは主にとって、義によるささげ物を献げる者となる。

ユダとエルサレムのささげ物は、昔の日々のように、ずっと以前の年々のように主を喜ばせる。"





(1)   銀を精錬する



❶  精錬と研磨の違い ~「艱難、汝を玉にする」=試練が人格を磨き、輝く玉とするとの格言
   精錬とは、純粋な金属を取り出すために、不純物を高温の炉の中で溶解させる




❷  人はその試練の中で、罪や汚れ、高慢さや貪欲、そして自己中心の罪が取り除かれる  




(2) すぐ側に侍る精錬工


❶「これをきよめるものとして座に着き」(3)
  温度調整や炎の当たる角度など、経験豊かな職人技による精錬がそこにある


❷  高温自体が目的ではない。苦しみや試練は、私たちを卑しめる事は出来ない



(3) 精錬後の純粋な輝き



 ❶  「レビの子らをきよめ、彼らを金のように銀のように純粋にする」(3)
  私たちのうちに眠っていた神の子としての実質が立ち上がる


❷  偉大な精錬工に私自身をお任せしよう

この方は契約の使者であり、あなたをとらえて離さない方。遅い見えても必ず来られる方だ(1)




(結論)



"そういうわけで、あなたがたは大いに喜んでいます。

今しばらくの間、様々な試練の中で悲しまなければならないのですが、

試練で試されたあなたがたの信仰は、火で精錬されてもなお朽ちていく金よりも高価であり、

イエス・キリストが現れるとき、称賛と栄光と誉れをもたらします。"

(ペテロの手紙 第一 1章6~7節)




この地上で試練に会う事は避けられない。それは私たちの信仰を揺さぶる火の試練の時もある。

神はそのことをご存知の上で、やがてあなたに正当な報いを持って望まれる。
#メッセージ

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「宝は土の器の中に」

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「宝は土の器の中に」





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「宝は土の器の中に」





コリント人への手紙 第二 4章6~16節



"「闇の中から光が輝き出よ」と言われた神が、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせるために、私たちの心を照らしてくださったのです。

私たちは、この宝を土の器の中に入れています。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものではないことが明らかになるためです。

私たちは四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方に暮れますが、行き詰まることはありません。

迫害されますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません。

私たちは、いつもイエスの死を身に帯びています。それはまた、イエスのいのちが私たちの身に現れるためです。

私たち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されています。それはまた、イエスのいのちが私たちの死ぬべき肉体において現れるためです。

こうして、死は私たちのうちに働き、いのちはあなたがたのうちに働いているのです。

「私は信じています。それゆえに語ります」と書かれているとおり、それと同じ信仰の霊を持っている私たちも、信じているゆえに語ります。

主イエスをよみがえらせた方が、私たちをもイエスとともによみがえらせ、あなたがたと一緒に御前に立たせてくださることを知っているからです。

すべてのことは、あなたがたのためであり、恵みがますます多くの人々に及んで感謝が満ちあふれ、神の栄光が現れるようになるためなのです。

ですから、私たちは落胆しません。たとえ私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。"




(1)  私たちは土の器



①  当時イスラエルでの食器は粘土で作られていた。割れやすく、すぐに壊されてしまう。


② 私たちの体も、心も傷つき壊れやすいもの
  


(2) 宝が土の器の中に入って



① 「宝」とはキリストご自身のこと。啓示の光を照らされた心に、その神の栄光を知る者にされた(6)。



②宝が器の中に注入されて居住した経験が、ペンテコステの日に起こった。
主イエスの霊が各自に注がれて、その方と共に生きるものとされた。




(3) 神の栄光の表れ~計り知れない神の力が明らかとされる



 ①死にゆく体に対し、主イエスのいのちが明らかとされる(10)


②  信仰の霊を抱いているが故に宣教する(13)


③  すべてのことを感謝に至らせる~苦しみ(8)、迫害や躓き(9)さえも


④  日々新とされる内なる人(16)


⑤今の艱難をテコとして計測不可能な重たい栄光へ至らせる(17)



(結論)



本日は、ペンテコステ記念日です。

神の霊が注がれて、今、私たちの内に主イエスが生きておられます。

私たちは日々衰えていく土の器に過ぎなくても、この尊い宝をいただいて永遠の栄光に至るものとされています。
#メッセージ

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「愛から引き離すものあるか」

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「愛から引き離すものあるか」
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「愛から引き離すものあるか」










ローマ人への手紙 8章31~39節










"では、これらのことについて、どのように言えるでしょうか。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。

私たちすべてのために、ご自分の御子さえも惜しむことなく死に渡された神が、どうして、御子とともにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがあるでしょうか。

だれが、神に選ばれた者たちを訴えるのですか。神が義と認めてくださるのです。

だれが、私たちを罪ありとするのですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、しかも私たちのために、とりなしていてくださるのです。

だれが、私たちをキリストの愛から引き離すのですか。苦難ですか、苦悩ですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。

こう書かれています。「あなたのために、私たちは休みなく殺され、屠られる羊と見なされています。」

しかし、これらすべてにおいても、私たちを愛してくださった方によって、私たちは圧倒的な勝利者です。

私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いたちも、支配者たちも、今あるものも、後に来るものも、力あるものも、

高いところにあるものも、深いところにあるものも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。"










(1)  繋がっていた愛



①キリストの十字架において
  極限にふみにじられ、死の底に突き落とされたとき




②父と子との関係は揺るがなかった   
  父の愛がその時注がれていた。私のあの暗黒の時にも、イエス様の愛は注がれていた。







(2) 表された栄光







① 最も卑しめられた時に栄光が表されるのか?
  「この方は誠に神の子であった」と100人隊長の告白




②  神の愛と義、救いと裁きの交差~スパークによる遮光のように
 私のあの悲惨な屈辱と卑下された経験は、神の愛に気づくキッカケとなり得た







(3) 確定された勝利







 ① 「屠られる羊とみなされた」(36)ものが「圧倒的勝利者となる」(37)のは、
  先駆者キリストゆえ。







②  このキリストが復活され、神の右の座におられ、私たちのために執りなしておられる(34)。

 よって困難も迫害もどんな被造物も、キリストの愛から私たちを引き離すことはあり得ない(35、39)。










(結論)










1923年の関東大震災で、被災民の蚊帳にろうそくの火が十字架に光る。

その絶望した状況の中にキリストの愛を感じたマーチン宣教師の作詞作曲したのが、聖歌397番「遠き国や」だった。あなたのあの暗闇の瞬間にも、キリストの愛が輝いていた。
#メッセージ

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「聖書が教える信仰について」

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「聖書が教える信仰について」






ホサナキリスト教会・日曜礼拝のメッセージアウトラインです。



















「聖書が教える信仰について」










創世記 15章1~6節










"これらの出来事の後、主のことばが幻のうちにアブラムに臨んだ。「アブラムよ、恐れるな。わたしはあなたの盾である。あなたへの報いは非常に大きい。」

アブラムは言った。「神、主よ、あなたは私に何を下さるのですか。私は子がないままで死のうとしています。私の家の相続人は、ダマスコのエリエゼルなのでしょうか。」

さらに、アブラムは言った。「ご覧ください。あなたが子孫を私に下さらなかったので、私の家のしもべが私の跡取りになるでしょう。」

すると見よ、主のことばが彼に臨んだ。「その者があなたの跡を継いではならない。ただ、あなた自身から生まれ出てくる者が、あなたの跡を継がなければならない。」

そして主は、彼を外に連れ出して言われた。「さあ、天を見上げなさい。星を数えられるなら数えなさい。」さらに言われた。「あなたの子孫は、このようになる。」

アブラムは主を信じた。それで、それが彼の義と認められた。"










信じるとはどういう事か






自己努力による信仰の振起
  自分を説得しながら、対象(他者でも自己でも)を信じようと努める姿勢

  「我が子に限って」、試合前に自分を信じるとか。




暖かい体験を通じて説得でなくても喚起される心情
  幼児が無条件に母の胸に抱かれる光景







(2) Abrahamにとっての信仰







創世記12章から:「ウルからあなたを連れ出した主」(7)に対する信仰と従順は見事
 ~神の約束の言葉も、Abrahamには虚しく聞こえた(2-3)




創世記15章に至って: 満点の星々を見せられ、神の温かい御心に触れることができた      新しい意味での信仰を抱く (3) 誤解を生じやすい教え






(3) 神があなたに到来される時







①自己説得の信仰においては、平安も確信も与えられないのが私たち

15章以降においてもアブラハムはしばしばそのような現実の中をさまよう

16章で、ハガルを迎えて息子イシュマエルを得る

さらに17:17。




②私たちのところに訪れては懇ろに語り、温かく包む

18章で神とその使命ら3人の訪問を受けている







(結論)







"ヤコブの家よ、わたしに聞け。イスラエルの家のすべての残りの者よ。胎内にいたときから担がれ、生まれる前から運ばれた者よ。

あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたが白髪になっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。わたしは運ぶ。背負って救い出す。"

イザヤ書 46章3~4節




私が気づく前から目を留め運んでこられた方がいた(私の誕生以前から)
 

「信じる」とは、この方の暖か眼差しを発見すること(人生の時点)



弱さと限界を迎えても神は背負い、運び、救い出す方(今後も)
#メッセージ

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「二通りの生き方」

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「二通りの生き方」
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「二通りの生き方」










マルコの福音書 8章31~38節










"それからイエスは、人の子は多くの苦しみを受け、長老たち、祭司長たち、律法学者たちに捨てられ、殺され、三日後によみがえらなければならないと、弟子たちに教え始められた。

イエスはこのことをはっきりと話された。するとペテロは、イエスをわきにお連れして、いさめ始めた。

しかし、イエスは振り向いて弟子たちを見ながら、ペテロを叱って言われた。「下がれ、サタン。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」

それから、群衆を弟子たちと一緒に呼び寄せて、彼らに言われた。「だれでもわたしに従って来たければ、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。

自分のいのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしと福音のためにいのちを失う者は、それを救うのです。

人は、たとえ全世界を手に入れても、自分のいのちを失ったら、何の益があるでしょうか。

自分のいのちを買い戻すのに、人はいったい何を差し出せばよいのでしょうか。

だれでも、このような姦淫と罪の時代にあって、わたしとわたしのことばを恥じるなら、人の子も、父の栄光を帯びて聖なる御使いたちとともに来るとき、その人を恥じます。」"







(1)  ペテロ流生き方









①  イエスを「諌めた」(32)
  苦しみ、捨てられること、殺されるのは、人が最も避けたい事柄

  人は苦難を避けて自らを楽しませ喜ばせることに注意を向けたいもの




② その理由
  イエスへの同情心~人間中心主義・ヒューマニズム

  その奥底には、自らの野心を満たしたいとの欲望~メシア王国での地位










(2) イエス流生き方










① ペテロを「叱って」(33)~原語では「諌めた」(32)と同語
 「サタンよ、しりぞけ」~ペテロのヒューマニズム的観点には悪魔の考えが潜む: 荒野での誘惑




② その理由 「神のことを思わないで、人のことを思っている」~ 個人の享楽的な生き方を否定して、神の国の前進とその強化のためには自己犠牲すべき時がある。






(3) 誤解を生じやすい教え










①イエスの弟子となる道は、自発性・自主性が土台

 「誰でも私についてきたいと思うなら」(34)~そこには他者の模倣や強制・期待は関与せず




②さらに、あなたへの個人的な使命に関わることである

 「自分の十字架を負って」イエスにとっては文字通りの十字架であり、ペトロにとって逆さ十字架であり、Abrahamにとって我が子の全身供養であった。










結論 ~ 近視と遠視










① ペテロ流行き方とは、近視眼的
 自分のこと、たった今の享楽だけを考えたら、割に合わない。

 死や十字架のどこに意味があるのか?




 

② イエス流生き方とは、遠視眼的
 現世の霊的生活において、安全と豊かさが約束されている。

 やがてイエスの再臨のときには大きな報酬(千年王国での地位)が約束されている。
#メッセージ

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「透徹された秩序」

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「透徹された秩序」
ホサナキリスト教会・日曜礼拝のメッセージアウトラインです。




「透徹された秩序」



マタイの福音書 8章5~13節


"イエスがカペナウムに入られると、一人の百人隊長がみもとに来て懇願し、

「主よ、私のしもべが中風のために家で寝込んでいます。ひどく苦しんでいます」と言った。

イエスは彼に「行って彼を治そう」と言われた。

しかし、百人隊長は答えた。「主よ、あなた様を私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません。ただ、おことばを下さい。そうすれば私のしもべは癒やされます。

と申しますのは、私も権威の下にある者だからです。私自身の下にも兵士たちがいて、その一人に『行け』と言えば行きますし、別の者に『来い』と言えば来ます。また、しもべに『これをしろ』と言えば、そのようにします。」

イエスはこれを聞いて驚き、ついて来た人たちに言われた。「まことに、あなたがたに言います。わたしはイスラエルのうちのだれにも、これほどの信仰を見たことがありません。

あなたがたに言いますが、多くの人が東からも西からも来て、天の御国でアブラハム、イサク、ヤコブと一緒に食卓に着きます。

しかし、御国の子らは外の暗闇に放り出されます。そこで泣いて歯ぎしりするのです。」

それからイエスは百人隊長に言われた。「行きなさい。あなたの信じたとおりになるように。」すると、ちょうどそのとき、そのしもべは癒やされた。"





(1)権威の下にある百人隊長


①日常経験から
  軍隊の規律は、権威と秩序をいやがおうにも知らしめた

②日常経験をキリストの世界にも援用した
  「行け」と言えば行く権威の下にある世界に生きていた」(9)


(2) 権威や秩序を見出せない私たちの世界


①病、心身の汚れ、罪、イライラや高慢、壊れた人間関係など多くの無秩序にさらされている
 健全な状態が何であるかを分かっていても、その相手や環境、自分自身でさえも変えることができず、いつしか諦めてしまう。

② カオス(混沌)の中に浸っているとあきらめが先に来てしまう。キリストの話を聞いても自分とは無縁の世界であると決め込んでしまう。



(3) 声に出して願う事から1歩が始まる


①「ただお言葉を聞かせて下さい」
 「光あれ」と言われた神は、その瞬時に光を創造された。

②主は待っておられる
 「イスラエルの家の誰にも、このような信仰は見たことがない」(10)
すべてを統べおさめておられる方は、私たちを心配し深く憐れんでおられる。



(結論)



混沌としている私の心にも周囲の世界にもキリストの権威が存在していることを認めよう。

主が仰せられたらその通りになる。主の絶対的な主権者としての発動を求めようではないか。

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「お着物に触る事でもできれば、きっと」

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ヤッホの港 ヤッホの港
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「お着物に触る事でもできれば、きっと」










マルコの福音書 5章25~34節










"そこに、十二年の間、長血をわずらっている女の人がいた。

彼女は多くの医者からひどい目にあわされて、持っている物をすべて使い果たしたが、何のかいもなく、むしろもっと悪くなっていた。

彼女はイエスのことを聞き、群衆とともにやって来て、うしろからイエスの衣に触れた。

「あの方の衣にでも触れれば、私は救われる」と思っていたからである。

すると、すぐに血の源が乾いて、病気が癒やされたことをからだに感じた。

イエスも、自分のうちから力が出て行ったことにすぐ気がつき、群衆の中で振り向いて言われた。「だれがわたしの衣にさわったのですか。」

すると弟子たちはイエスに言った。「ご覧のとおり、群衆があなたに押し迫っています。それでも『だれがわたしにさわったのか』とおっしゃるのですか。」

しかし、イエスは周囲を見回して、だれがさわったのかを知ろうとされた。

彼女は自分の身に起こったことを知り、恐れおののきながら進み出て、イエスの前にひれ伏し、真実をすべて話した。

イエスは彼女に言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい。苦しむことなく、健やかでいなさい。」"










(1) 希望を失った女性






①不治の病
  12年間の漏出を病む女性~体力を消耗するばかりか、社会的に大きな制約を受けた。

  レビ5:25




②悪くなる一方であった
  全財産をつぎ込んでも医者には解決できずに、症状は悪化するだけ

  これはまさに罪ある私たちの写し絵ではないか~ドラック、酒、快楽などに溺れて中毒になった挙句、健康と財産を失う。







(2) イエスのことを耳にして







①イエスをメシアであると信じて
  メシアにしかできない癒しの奇跡を、主が行っていることを耳にしたゆえ

  




② 「お着物に触る事でもできれば、きっと直る」

 ユダヤ人男性の着るガウンの四隅についているフサの事

自分に直していただく資格があると考えたのではない。癒し主にその権威があるとの確信。







(3) 病気にかからず、健やかで






①主のなされた「救い」=「直る」(28,29,34)の業は、瞬間の出来事
  私たちを赦し、命を与える主の業は瞬間的である
恐れ震えながらも、主がしてくださったことを告白して確証を得る




②その後の人生においても健やかであれとの継続される祝福
 主に対する感恩と感謝からの信頼関係が継続した








(結論)







時に私たちは重たい現実を前にしてどう祈ればよいのか、人々に説明したら良いのか分からないことがある。そんな私たちの罪や汚れ、恐れや戸惑う心を主はご存知だ。

主はそんな私をも拒絶されずに受け入れてくださる。礼拝に来たのは、御衣に触れるため。それだけでも良いのではないか。
#メッセージ

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