ホサナキリスト教会・日曜礼拝のメッセージアウトラインです。
「信仰の第一人者・完成者なるイエスから」
ヘブル人への手紙 12章1~2節
"こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、一切の重荷とまとわりつく罪を捨てて、自分の前に置かれている競走を、忍耐をもって走り続けようではありませんか。
信仰の創始者(第一人者)であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい。この方は、ご自分の前に置かれた喜びのために、辱めをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されたのです。"
(1)「信仰」とな何か
①一般的な定義
〜自らの経験や知識を超えた存在を認め、これに自らを委ねる自覚的な態度〜
ここには主体が常に人にあり、その状態は時や環境とともに揺れ動く。
②聖書の伝える「信仰」
雲のように取り巻いている信仰の証人たちの例が11章にある。
サラの例(11節)〜サラにとって大甘の点数(創世記17:17)ではないか?
信仰の主体は自分自身にではなく絶対他者=神にある。
(2)完成された信仰
①「創始者」=「第一人者」「プリンス」 2節b
その地上生涯と受難を通じて11章にある信仰者の系譜につながり、
さらにそのトップに立たれた主イエス。
②「完成者」2節c
復活と神の右の座に着座されることを通じて
父なる神からの是認と確証
⑶付与された信仰
①「キリストを信じる」とは、「キリストの信仰(第一人者・完成者)が私のものとされる」
キリストにとどまること、キリストと1つとされること、キリストが内に住むことを意味する。
②救いの基盤は人の功績でなく、キリストのそれによる。
そこには信仰の年限、教会への貢献度、聖書知識の多寡は関係なく、
ただキリストの功績だけが崇められる
(結論)
"律法を行うことによってではなく、キリストを信じることによって(キリストの真実によって)
義と認められるためです。" ガラテヤ人への手紙 2章16節
自分の感情や知識また経験や業績を信仰の土台としてはならない。
それは常に不安定なものであり不安がつきまとう。
私たちの信仰は与えられたものであり、すなわちキリストの信仰。
それ故に確かで永遠的なものである。
何気なく海辺を見渡すと鋼鉄のでかい船を発見。
どう見ても戦艦である。
シアトルのダウンタウンの港に向かっている。
何用で?
通常航海ならまだしも、作戦行動ならその行き先や目的については一部司令官たちしか知らされていないはず。
とは思ってみたものの自国のシアトルで作戦行動起こすはずもないか。
重大な作戦についてはたとえ自軍隊内であっても秘匿性は高まる。
ロシアがウクライナに侵攻するか否かは一般ロシア兵ですら知らされていない。プーチンの胸の内三寸にのみ存している。
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主イエスは弟子たちに、
父から聞いたことをの全てを話したので、
あなた方はもはや僕ではなく「友」であると言われた。
僕は主人がすることを知らない、と言う。
主人の心にある深いところや仕事の目的、その動機・感情面など知らなくとも良い。
ただ言われた通りに手足を動かしていれば良いのが僕であり、その役割に徹するのが本来の使命であり、それは兵士に通底する。
ところが、「友」は異なる。
主人の心にあること、彼の物事についての評価や判断をつぶさに知って同様の重荷や感情を共有するのが「友」。
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"わたしはもう、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべなら主人が何をするのか知らないからです。わたしはあなたがたを友と呼びました。父から聞いたことをすべて、あなたがたには知らせたからです。”(ヨハネの福音書 15章15節)
ここで主イエスが使われた「全てのことを知らせた」にある動詞は過去形。この時点で弟子たちにはすべての天にある真理をすでに伝えた、と。
しかし弟子たちが咀嚼できたものは主が語られたうちの100分の1にも満たない。
彼らにはジーザスのスピリット(聖霊)がそのうちに与えられていなかったからだ。
同様に神の啓示の書としての聖書は多くの言語に訳されて、ほぼすべての人がアクセス出来る。この私にさえも。
しかしそこにある真理を理解・咀嚼するには聖霊様の導きがあって初めて可能となる。
私個人の人生の意味や世界歴史のからくりから、世界と宇宙に見る神秘やその行く末について、、、私はどの程度任されているだろう。
知識の伝達量としてではなく主人の心にある秘め事を。
アブラハムはかつて神の心にあった痛みと重荷を打ち明けていただいたことから「神の友」と呼ばれた。
"主はこう考えられた。「わたしは、自分がしようとしていることを、アブラハムに隠しておくべきだろうか。"(創世記 18章17節)
"だがイスラエルよ、あなたはわたしのしもべ。わたしが選んだヤコブよ、あなたは、わたしの友アブラハムの裔だ。”(イザヤ書 41章8節)
私が自分自身を友として受け入れている度合いは、
ジーザスを友としてどれほど信頼関係を築けているかに正比例しているように思えて来た昨今。
それが他者を友として受け入れることと正の相関があるように思える。
「将来と希望を与えるもの」
ヨハネの福音書 9章1~5節
"さて、イエスは通りすがりに、生まれたときから目の見えない人をご覧になった。
弟子たちはイエスに尋ねた。「先生。この人が盲目で生まれたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。両親ですか。」
イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。この人に神のわざが現れるためです。
(序論)
「前」=目の向かう先、見える方向。
空間においては進む方向が前となる。2「前方に学校がある」
時間においては過ぎ去った過去が前となる。「1週間前、3年前」
人間は過ぎ去った過去しか見ることができないので過去が前。
しかし神は将来も把握されていらっしゃる。
(1)生まれつきの盲人
①絵に描いたような不幸な人物
人は多くの情報は視覚から得ると言う。
「道の途中」で会ったこの人物は物乞いをしていた可能性が大きい。
生産力のない悲惨な人生ではなかろうか。
②因果応報を訪ねる人間性
「誰かが罪を犯した。この人か、その両親か。
それで(Hina•理由・原因)生まれて来た(Sub +Aorist)」< ギリシャ語構文>
弟子たちは不幸の原因が罪にあることを前提としている。
不幸が起きるのは、罪ゆえの神の裁きであると考えられていた。
(2)因果応報の原理を覆された主イエス
①「罪を犯したのはこの人のでもその両親でもない。
それは(Hina•理由・原因)神の業がこの人に現されて行く(Sub +Aorist)」<ギリシャ語構文>
②主イエスは私どもの未来を見つめそこから語られる
問題、挫折や不幸が起こることを許された。
その過去に原因があったからではなく、理由が将来にある。
⑶神の業が表されるとは
①「業」は原語で複数形
この男性にとって神の業は、いやしの奇跡に始まり、憐れみ、尋問、追放、迫害、自立、そして信仰と礼拝(9:38)
②最大の神の業は、神を知るに至り礼拝者へと変えられること。
"イエスは答えられた。「神が遣わした者をあなたがたが信じること、それが神のわざです。」"
ヨハネの福音書 6章29節
(結論)
"わたし自身、あなたがたのために立てている計画をよく知っている──主のことば──。それはわざわいではなく平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。"
エレミヤ書 29章11節
神は私どもの将来を見つめ、その計画を立てて平安と将来とを与えると約束される。
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「自分へのこだわりからの解放」
マタイの福音書 9章9~13節
"イエスはそこから進んで行き、マタイという人が収税所に座っているのを見て、「わたしについて来なさい」と言われた。すると、彼は立ち上がってイエスに従った。
イエスが家の中で食事の席に着いておられたとき、見よ、取税人たちや罪人たちが大勢来て、イエスや弟子たちとともに食卓に着いていた。
これを見たパリサイ人たちは弟子たちに、「なぜあなたがたの先生は、取税人たちや罪人たちと一緒に食事をするのですか」と言った。
イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人です。
『わたしが喜びとするのは真実の愛。いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためです。」"
「わたしについて来なさい」
①思いがけないイエス様の招きの言葉だった。
ヨハネとヤコブの場合との類似と相違点。
② キリストの呼びかけには、私を「自分」から離れさせる力がある。
経済面社会面また倫理道徳面から人を値踏みする物差しを崩壊させてしまう。
(2) 「なぜ一緒に食事をするのか」
①イエス様は社会からの評価やラベル、その肩書きで人を判断されなかった。
到底パリサイ人には理解しようのないことだった。
両者の超えようのないその壁が、イエス様を十字架へと追いやった。
② 神の国はその虐げられているものたちの間に成就した
ユダヤ文化において共に食事をするとは親密な間柄にあってのみ許されること。
⑶ 「医者を必要とするのは丈夫なものではなく病人」
①「丈夫なもの」「正しいもの」はイエス様の前から退けられた。
そのように自負するのは社会の評価に依存しているゆえ。
ここにに欺瞞がある。
②「憐れみは好むが生贄は好まない」(ホセア6:6)
「生贄」〜確立されている宗教儀式であり自己義を促すもの。
「憐れみ」〜社会通念として確立されてはいないが人のニーズに応えようとする本来の人情。
「行って学べ」〜新たな価値観は従来の所属社会にあって気づく事は困難ゆえに。
(結論)
このような私にさえも目を留め、声をかけ、食事を共にされると主イエスはおっしゃられる。その絶対的な呼びかけに応じる時、私たちはこだわりから離れて、主イエスの与える喜びに生きるものとされる。
古代紀元前3500年前からあると言う港町、ヤッホ。
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「わたしは背負って救い出そう」
イザヤ書 46章1~4節
"「ベルはひざまずき、ネボはかがむ。彼らの像は獣と家畜に載せられる。あなたがたの荷物は、疲れた動物の重荷となって運ばれる。
彼らはともにかがみ、ひざまずく。重荷を解くこともできず、自分自身も捕らわれの身となって行く。
ヤコブの家よ、わたしに聞け。イスラエルの家のすべての残りの者よ。胎内にいたときから担がれ、生まれる前から運ばれた者よ。
あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたが白髪になっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。わたしは運ぶ。背負って救い出す。"
(序論)
クリスマスおめでとうございます。
ヨセフの夢の中に現れたみ使いは次のように預言しました。
"「見よ、処女が身ごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」それは、訳すと「神が私たちとともにおられる」という意味である。"
(マタイの福音書 1章23節)
主イエスが地上にお生まれになることで「神がともにおられる」事実は否定出来ない確かさとして我々の目の前に出現しました。
主イエス誕生以前の旧約時代にもイスラエルの歴史の中でその事実を確認することができます。
背負われたイスラエル
①「ベル」「ネボ」(1)とはバビロニアの神神。それらは荷車に乗せて運ばれて行く。
偶像との対比。神はイスラエルを担われ、運び、背負ってこられた。
② 「背負う」とは、一体となること。
その混乱の歴史の中で滅びることなく神の遺産を守り続けた。
(2) いつから背負われたのか
①「生まれる前から」(3)
つまり自覚できる前から。いや存在の始まる前から神の選びが私たちに働いていた。
② 「しらがになっても」(4)
弱さや限界を知った後も。病に倒れ自らを失い罪に汚れた者であったと気づいた時にも。
⑶ どうやって背負われるのか
①自らの背負っている荷物を主イエスの下に降ろせば良い。
自己が我執としているものからの解放される。
②主は私が担い切れなかった荷物ごと背負って下さる方。
(結論)
私たちにできることは、背負っていただいている主の背中で感激する他ない。
"すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。
わたしがあなたがたを休ませてあげます。
わたしは心が柔和でへりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、
わたしから学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎを得ます。"
(マタイの福音書 11章28~29節)
・主イエスのところへ行くこと
・主とくびきを共にすること
・主から生き方を学ぶこと
ホサナキリスト教会・日曜礼拝のメッセージアウトラインです。
「私の平安を与えます」
ヨハネの福音書 14章25~31節
"これらのことを、わたしはあなたがたと一緒にいる間に話しました。
しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。
わたしはあなたがたに平安を残します。わたしの平安を与えます。わたしは、世が与えるのと同じようには与えません。あなたがたは心を騒がせてはなりません。ひるんではなりません。
『わたしは去って行くが、あなたがたのところに戻って来る』とわたしが言ったのを、あなたがたは聞きました。わたしを愛しているなら、わたしが父のもとに行くことを、あなたがたは喜ぶはずです。父はわたしよりも偉大な方だからです。
今わたしは、それが起こる前にあなたがたに話しました。それが起こったとき、あなたがたが信じるためです。
わたしはもう、あなたがたに多くを話しません。この世を支配する者が来るからです。彼はわたしに対して何もすることができません。
それは、わたしが父を愛していて、父が命じられたとおりに行っていることを、世が知るためです。立ちなさい。さあ、ここから行くのです。"
世が与える平安
①「世」(コスモス)とは神なき世界でありその原理でありその惨状。
② 世にあって平安を得る方法
・パリサイ派〜厳格な宗教実践による民衆からの評価と支持(名誉)
・サドカイ派〜祭司階級が神殿で行っている集金ビジネス(金銭)
・ヘロデ党〜ローマ総督に寄り添う政治的既得権保持者(地位)
(2) イエスの与える平安
①時にイエスの現状は死に至る逮捕直前であり、金銭名誉地位も全て失っている状態。
しかしイエスには満ち足りた平安があり、焦燥や恐れとは無縁であった。
② 弟子たちに残されるイエスの平安
それはこの時には実現していなかった〜この直後弟子たちは恐れから皆逃げ出してしまう。
「そのことの起こる前にあなた方に話しました」(29)とある様に、ある歴史的事件直後に実現すること。
⑶ 「助け主」(パラクレートス)が遣わされる故の平安
①「傍ら」「呼ばれたもの」の意味で、同じ側にあってあなたを弁護し慰め執り成し助けるために呼ばれたもの。聖霊の名称。
②イエスの言葉の全てを教え、思い起こさせてくださる方(26)
イエスと共にいるときの弟子たちには理解できないことであった(25)
イエスの言葉は父なる神の言葉でもある(24)
イエスのご自身の運命とその結果を理解させ、私らにも体現してくださる方。
イエスの死•復活•昇天(28)
(結論)
心騒がせ恐れにとらわれやすい世に生きる私たち。
今こそ主イエスが遣わされている聖霊様に満たされ、主イエスの平安をいただこう。
ホサナキリスト教会・日曜礼拝のメッセージアウトラインです。
「主の足元に座って」
ルカの福音書 10章38~42節
"さて、一行が進んで行くうちに、イエスはある村に入られた。すると、マルタという女の人がイエスを家に迎え入れた。
彼女にはマリアという姉妹がいたが、主の足もとに座って、主のことばに聞き入っていた。
ところが、マルタはいろいろなもてなしのために心が落ち着かず、みもとに来て言った。「主よ。私の姉妹が私だけにもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのですか。私の手伝いをするように、おっしゃってください。」
主は答えられた。「マルタ、マルタ、あなたはいろいろなことを思い煩って、心を乱しています。
しかし、必要なことは一つだけです。マリアはその良いほうを選びました。それが彼女から取り上げられることはありません。」"
千々に乱れる心
①平凡な日常生活に押し寄せる問題の波
戦争のない平和な世の中であったとしても
心が騒ぎ、聖書の言葉が響いてこない時
② マルタの例
一家の長としての責任の重圧〜13人の訪問客のもてなし
食事と宿泊の手配
(2) 主イエスの呼び掛け
①個人的でそのTPOにマッチした呼び掛け〜「マルタ、マルタ」
聖書で名前が2度繰り返し呼ばれている例〜モーセ、サムエル、シモンなど。
② パニックに陥っているマルタに寄り添ったもの
単刀直入でありながら彼女を理解し包んだおことば〜彼女自身の本質が呼び覚まされた
⑶ 主の足元にて
①たった1つの必要なこととは何か
必要な事は多々ある。食事もベッド作りも。しかし本来の自分自身を取り戻す程に大切なことが他にあろうか。
②そこで語られるみことば〜そこで私自身が何者であり、何が期待されているのか、私の行くべき最善の道を語っていただこう。
(結論)
エルサレム郊外ベタニア村の3姉妹の家は、主イエスにとっての憩いの家であった。
心尽しの食事と暖かな寝具で疲れを癒いやされ、さらにみことばに傾聴するマリアに大いに慰められたに違いない。エルサレムで死を遂げられるミッションを理解したのは彼女のみであった(マルコ14:1-9)。主イエスとの人格的な交際とは、仕え仕えられる双方向によるものと言える。
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