今日も平和そのものの日が暮れてゆく。
月曜日は牧師の休業日とされているが、このところは毎日休業しているような感覚。
日曜日以外はほとんど曜日の感覚がなくなり掛けている。
変哲のない平凡な日であったが、振り返ってみると感謝することがたくさんある。
①娘らが昼過ぎからやってきて家族分のランチとディナーを作ってくれた。ヘアカットやら共同プロジェクトやら夏に向けてのキャンプの打ち合わせなど収穫多し。
②司馬遼太郎の「街道を行く」シリーズがYouTubeで視聴できることを発見。20数年前に渡米した時に日本での放送が始まり無念さに涙を飲んだが、今やいつでも視聴できるとは何たる厚遇か。今後は25年間の司馬さんが辿ったその道を紹介することもあると思います。
③娘が夕食を用意している間にジョギング開始。最寄りの中学校校庭への抜け道を発見して今後はその道がデフォルトとなりそう。一旦走り出すとエンドルフィンが脳内にたやすく放出されるようでかなり追い込んだ走りを楽しんでしまう。こんばんは夜更かしをしないで早めに床に着いても眠れる位の疲労感がある。
今日も素晴らしい1日を感謝。
ホサナキリスト教会・日曜礼拝のメッセージアウトラインです。
「もう一人の助け主」
ヨハネの福音書 14章16~24節
"そしてわたしが父にお願いすると、父はもう一人の助け主をお与えくださり、その助け主がいつまでも、あなたがたとともにいるようにしてくださいます。
この方は真理の御霊です。世はこの方を見ることも知ることもないので、受け入れることができません。あなたがたは、この方を知っています。この方はあなたがたとともにおられ、また、あなたがたのうちにおられるようになるのです。
わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。あなたがたのところに戻って来ます。
あと少しで、世はもうわたしを見なくなります。しかし、あなたがたはわたしを見ます。わたしが生き、あなたがたも生きることになるからです。
その日には、わたしが父のうちに、あなたがたがわたしのうちに、そしてわたしがあなたがたのうちにいることが、あなたがたに分かります。
わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛している人です。わたしを愛している人はわたしの父に愛され、わたしもその人を愛し、わたし自身をその人に現します。」
イスカリオテでないほうのユダがイエスに言った。「主よ。私たちにはご自分を現そうとなさるのに、世にはそうなさらないのは、どうしてですか。」
イエスは彼に答えられた。「だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます。
わたしを愛さない人は、わたしのことばを守りません。あなたがたが聞いていることばは、わたしのものではなく、わたしを遣わされた父のものです。"
ヨハネの洞察力と理解力
①平易な言葉遣いに深遠な真理が記されている
深い洞察がなければありえないこと。
②イエスに最も愛されていたと自他共に承認されていた。
最後の晩餐での右側の席順と復活後ガリラヤ湖上での証言。
三位一体
三位の神にはそれぞれの位格がある
イエスがお願いする対象は父。父が助け主を送られる。その助け主とは真理の御霊であり、人格を持った人称代名詞「その方」。単なる影響力や力の発生する電源のようなものとは違う(エホバの証人の見解)
②その三位の位格が存在と実質において1つである
「その方があなた方と共に住む」(17)
=「わたしたちはその人のところに来てその人と共に住む」(23)
⑶「ともに住む」
①「あなたがたのうちにおられるようになる」(未来形)
「その人とともに住みます」(未来形)
ペンテコステの日の境界誕生の時に成就した。
現在では主を信じる者全ての者らに成就している。
②「住む」について
「わたしにとどまりなさい。わたしもあなた方の中にとどまります」(15:4)と同じ語。同じ住居を共にするとは、交わりとくつろぎを意味する。
(結論)
主とともに生活することの安らぎとくつろぎは、確かな聖書理解を基とした「戒めを守る」(15)という実践にある。
I can’t wait beauty salon reopen, so my lovely stylist cut my hair again.
理容店が再開されるまで待てなかったので、素敵な美容師さんが再びヘアカットしてくれました。
すごーい東北弁。
姿、かっこうは西洋人なのに言葉も中身も東北人になりきっている人って不思議な感じ。
さりげなくシアトル地区の全牧師の名前を読み上げながら宮沢賢治の詩を歌いあげるだなんて、、、、
こんな牧師がシアトルにいるって皆さん信じられますか?
https://m.youtube.com/watch?v=w3BQVdTw_Ng&feature=youtu.be
「年に1ギルダー(70円)ほどです。借地料として政府に納めています」
司馬遼太郎が1989年にオランダ•ライデンを訪問し、そこにある日本人小学校の校舎使用料について聞いたときの返答。
時に日本はバブルの真っ只中で、土地ころがしの狂騒が日本中に沸いていた頃。
当時65歳だった司馬さんは、その旅でヨーロッパ観が修正されたと言う。さらに、
「文明とは人が心地よく日々を生活でき、社会から受ける害が少ないほどに生活できるシステムのこと。そういう意味で日本は未だ未だだと思う」と書いている。
江戸の200年間を通じ長崎の出島でオランダから世界の文明を学んだ我々であるが、今なお学ぶべきことがありそう。
ホサナキリスト教会・日曜礼拝のメッセージアウトラインです。
「平安があなた方に」
ルカの福音書 24章36~43節
"これらのことを話していると、イエスご自身が彼らの真ん中に立ち、「平安があなたがたにあるように」と言われた。
彼らはおびえて震え上がり、幽霊を見ているのだと思った。
そこで、イエスは言われた。「なぜ取り乱しているのですか。どうして心に疑いを抱くのですか。
わたしの手やわたしの足を見なさい。まさしくわたしです。わたしにさわって、よく見なさい。幽霊なら肉や骨はありません。見て分かるように、わたしにはあります。」
こう言って、イエスは彼らに手と足を見せられた。
彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっていたので、イエスは、「ここに何か食べ物がありますか」と言われた。
そこで、焼いた魚を一切れ差し出すと、
イエスはそれを取って、彼らの前で召し上がった。"
イエスご自身が彼らの真ん中に立たれた(36)
①弟子たちの罪や死に対する恐れ、思い煩いと戸惑い、疑問と混乱。少なくとも3名がこの時点で復活の主とお会いしている。
②「平安があるように」イエスを端っこに追いやる事はいつでもあり得る。真ん中にお迎えする時に黒い雲が晴れていく。
なぜ取り乱しているのか(38)
①彼らは驚き恐れて霊を見てるのだと思った
霊体の復活が肉体を伴っての復活か?
②焼き魚を召し上がった
人間としての完璧な肉体を持っての生涯あり死であり復活であった。グノーシス主義・仮現論への反証。
わたしの手やわたしの足を見なさい
①そこには鉄杭で打たれた傷跡がある
パリサイ人、弟子たち、群衆らの罪ゆえの傷
②「彼の打ち傷によって私たちは癒された」(イザヤ53:5)
主が完璧な人間の肉体を持たれたがゆえにその傷を受けられた。この事実にこそ私たちへの癒しの道が開かれている。
(結論)
死は全てを解決するものでは無い。ここに生存している世界にあって、私の精神的・肉体的な病と傷は、主の肉体に刻まれた傷によって癒される。
今日は珍しく雲もなく、落日がオリンピック半島の山々に入るのが見ることができた。ときに午後8時22分。
広大なオリンピック半島は、米国の北西部にある角ともいうべき太平洋に突き出た部分。
昨日はこの辺一帯は雨雲に覆われ雷鳴と稲光に見舞われたが今日はいたって平穏な夕刻。
日本ほどの激しさはありませんが、こちらの天候にも起伏があり毎日楽しませてもらってます。
私たちの人間関係には3種類のパターンがあるそうです。
①出来る限り力になりたい
困ってるのを見て親身になって相談に乗ったり世話をしてくれるあなたの協力者。年が若いほど私たちはこの手の協力者を必要とする。
②出来る限り避けておこう
あなたへの協力を惜しんだり、無視したり、あるいは故意に邪魔をしようとする人たち。どうしてその様な反感を買われるのか、自分自身を吟味する機会を得て、実は①タイプの人からよりも得るものが大きい。
③出来る限り密かに助けたい
あなたのことを①ように助けたいと考えているが、直接的な助けを控える人たち。立場や職業や時間など、様々な制約の中で実行はできないものの、影であなたを応援しようとしている。
どのパターンの人が身近にいようとも得るものはあることになる。私の人生を振り返ると、教師や家族や仲間など多くの③の人々に囲まれてきた。そして今日も私は愛されている。愛を表す相手がいることに感謝します。
今日も交流していただいてありがとうございます。
ホサナキリスト教会・日曜礼拝のメッセージアウトラインです。
「クリスチャンとは誰か」
コリント人への手紙 第一 1章1~3節
"神のみこころによりキリスト・イエスの使徒として召されたパウロと、兄弟ソステネから、
コリントにある神の教会へ。すなわち、いたるところで私たちの主イエス・キリストの名を呼び求めているすべての人とともに、キリスト・イエスにあって聖なる者とされ、聖徒として召された方々へ。主はそのすべての人の主であり、私たちの主です。
私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたにありますように。"
(序論)
シリア・アンティオキアで異邦人のキリスト信者達が「クリスチャン」と呼ばれるようになった。クリスチャンとは、神からのコール(召し)を受けたものであるとするのが聖書の基本的立場。
天職としての召し
①パウロは使徒としてコール・召された
「使徒」とは特別の称号。イエスの直接の弟子で復活の目撃者である十二使徒の次の範中に属する。自身の使徒職を弁明する必要があった。
②私たちの各人の職業への召し
宗教改革の功績の1つ。天職意識を教会と修道院から持ち出してすべての経済活動へ適応した。
聖徒としてコール・召された
①それは立場的な聖である
「イエスにあって聖なるものとされた」完了形の動詞。すなわち現在、聖であると見なされている。
②ある特定の目的のために分別され、分けられたもの
"大きな家には、金や銀の器だけでなく、木や土の器もあります。ある物は尊いことに、ある物は卑しいことに用いられます。
ですから、だれでもこれらのことから離れて自分自身をきよめるなら、その人は尊いことに用いられる器となります。すなわち、聖なるものとされ、主人にとって役に立つもの、あらゆる良い働きに備えられたものとなるのです。"
テモテへの手紙 第二 2章20~21節
イエスの名を呼び求めている(コールしている)者たち
①神のコールに応答した者達のこと。
神が全ての人に呼びかけ(コール)手を伸ばしておられるのであり、そこにえこひいきや差別はない。
②「恵と平安がありますように」
常に恵が先に届けられ、それゆえに私たちは平安を得ることができる。
(結論)
「嗤われずに生き、疎まれずに死ねば、その人の人生はそれだけで偉大である」(武田鉄矢)
そのような人生を歩むのに必要なものが平安である。
平安を得ることができればその人は成功者であると言える(ある伝道者)
今日の夕日は、この年見た中で最も美しかった。
空に浮かぶ雲が、いくつか階層になっていて、その階層ごとに夕日が反射する色合いを作り、多くのグランデーションを空に引き伸ばしている。絵の具をキャンパスに撒き散らしたかのように。
無言のうちに息子としばらく見とれていると、自然と以下の聖歌が去来して来ました。
(1)
夕べ雲焼くる 空を見れば
主の来たり給う 日のしのばる
(繰り返し)
ああ神の前に われ勤しまん
業やむる時の 間近き今
(3)
その日をば待てる 我らなれば
悩みも涙も など避くべき
2000年前、オリーブ山近郊から天へと引き上げられて行かれたイエスは、再び地上に帰って来られるとの約束を残されました。
その日の様子をゼカリヤ書が以下のように予言しています。
"これはただ一つの日であり、その日は主に知られている。昼も夜もない。夕暮れ時に光がある。"
ゼカリヤ書 14章7節
夕暮れどきの美しい光を見ると、この聖書のお言葉ゆえに主の再臨を想起したのでしょう。
そしてコロナ渦中にあって、今までの私たち全世界が経験したことのない社会の変革を迎えようとしています。
聖書が予言する主の再臨前の大艱難時代の様相に近づいているのを見るにつけ、この御言葉と聖歌が想起したのでしょう。
「われ勤しまん」
今までと同じような働きはできないですが、現在できることを勤しむ者でありたいと願ったのでした。
隣にいる息子は何を願ったのだろう?
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