錦教会では音楽の賜物の豊かな方が多く強力なコーラス隊が結成されました
毎年クリスマスコンサートには町内の大きな会場借りて開かれます
日本で40年間以上宣教師として尊い御用をされたドロシー・ラバツウ先生の回想録です。
私が聖書学院を卒業したのが23歳の時。
卒業と同時に遣わされた最初の任命地が三重県大台町にある錦キリスト教会でした。
そこで一人で伝道されていらっしゃっるのが教団最高齢の73歳になっていらっしゃったドロシー先生でした。
教団最若輩だった私はそこで7年間働きましたので、ドロシー先生が80歳になるまで共に生活し伝道したことになります。
本の題名は「人生は80歳から始まる」。
確かに年齢を感じさせないバイタリティー溢れる体力と気力とに満ちておられた先生でした。
私との共同牧会伝道期間は助走期間に過ぎず、その後から先生の本格的な宣教師人生が始まったのですね。
今回初めてこの回想録を手にすることが出来て、ドロシー先生という稀有な宣教師を生み出したその背景を垣間見ることが出来たのは実に祝福となりました。
まるで宝物を探し当てたように興奮しながら原書のページをめくっています。
皆様にもその全てでは無いですが、ハイライトと思えるところを今後紹介して行きます。
その第10回目は、ドロシー先生の高校生時代の様子です。
Nutshell(凝縮された)説教
私にはある日、校長室にまで呼び出された鮮明な記憶があります。
南コロラドを訪問してきた一人のクラスメイトが、黒いマツのナッツを持ってきて私たちに食べさせてくれました。
私たち皆はホームルームの時間中、それをかじってはさやを床に落としたままにしておいたのです。私たちがなぜそんなことをしたのか覚えていません。
そんな楽しい妙技とも言えるような時間を過ごしていた時、校長先生が教室に入って来ました。教室のモニター係が彼に知らせたのではないかと私は考えているんですが。
彼はほんの短い時間見渡してから、これをしたの誰だ、と床に落ちているさやを指差して聞いて来ました。その場に居合わせた女生徒は私一人だけで、私がしたことを認めざるを得ませんでした。後でもう一人の女生徒も告白しました。
私は自分の誤った行為に加えてその過ちを否定すると言う罪まで犯したくなかったのです。
幾人かの男子生徒も正直に告白しました。そして彼らは散らかしたものを掃除するようにと言い付けられたのです。そして二人の女生徒に対しては放課後に校長室まで来るようにと言われました。
私としてはむしろ掃除する仕事の方を選びたかったのですが。
校長室に入って先生の最初の言葉は私たちの恐れを取り去るに十分過ぎるものでした。
「女子生徒で貴女方二人だけがあれをしたものでないことは分かっています。お二人の正直さに感謝しています」と言ってくださったのです。
ところが彼の第二言は矢のように私を貫きました。
「これは貴女方のお母様方にもお伝えしておきます」
この言葉はまるですべての説教を一粒のナッツに詰め込んだようなインパクトのあるものでした。
言わば、Nutshell(凝縮された)説教でした。
その後彼が何かを言っていたかもしれませんが、私はからっきし覚えていないのです。
さて私どもの家族についてです。
私ども家族は想定外の境遇によって二回も経済的にはゼロのところまで追いやられたのですが、働き者の父と優れた管理者である母によって助けられてきました。
子供たちを私立の教会附属学校に通わせるのは経済的負担が大きかったでしょうが、両親は私たちがクリスチャンの環境で教育されることを望んだのでした。
その後の大学進学や専門学校への進学は、子供らそれぞれ個人の決意に関わることです。
その時代は夢に溢れている若い子達のための働き場が多く残されていました。
宣教師の影響
学校を時に訪問してくる宣教師とその彼らの働きについては深い印象を受けました。
私どもの校長はかつて外国で宣教師として仕えたこともある人です。
私どもの学校は元々、主に仕えるために有益となる若い人達に訓練を施す目的で設立されたものでした。その召しに最高度に応えるために彼ら自身が献身する機会となる幾つものプロジェクトが生徒たちには与えられていました。
私の心はやがて開かれて、世界をめぐる広い必要に応えたいと言う気持ちでいっぱいと成って行きました。
「世界にはまだ一度も福音を聞いたことのない何百万人という人々がいる一方で、福音を二度も聞く権利は誰も持っていないはずです」
こんなスローガンが学内で何度か聞かれるようにもなりました。
母はまた私があまりに多くの宣教師の報告会や説教者の影響を強く受けただけなのだと思っていたようです。しかしそれでも彼女のこの考えが私の初心をくじけさせることはなかったのでした。
卒業後、私はメイドとしての働きを始めるとクリスチャンカレッジで学ぶための費用を蓄え始めたのです。
私のメイドとしての経験は有益なものとなりました。それは学び直すという体験を与えてくれたと言っていい価値高いものです。
私のやり方でもなく、母のやり方でもなく、雇用主が好むやり方に従わなくてはならないことを学んだのでした。
私の召しはアフリカにあると感じました。私の町には多くのアフリカ系アメリカ人が住んでいたのです。短く突っ立ったブライダルヘアーを色とりどりのリボンで結び合わせたとても可愛らしい子供たちを目にしました。
私はその人たちが集う小さな教会に足しげく出席しました。
彼らの賛美スタイルが大変気に入ったのです。
私どもの大きな街にあるメソジスト教会もまたアフリカ系の方々がお集いになっています。 そこには偉大なコワイヤーがありまして、彼らはまるで燃え立つかのような力ある賛美をするのです。
カペナウム
イエス時代のカペナウム会堂の土台
ホサナキリスト教会日曜礼拝のメッセージ・ノートです。
「ガリラヤの漁師に」
マタイの福音書 4章12~22節
"イエスはヨハネが捕らえられたと聞いて、ガリラヤに退かれた。
そしてナザレを離れ、ゼブルンとナフタリの地方にある、湖のほとりの町カペナウムに来て住まわれた。
これは、預言者イザヤを通して語られたことが成就するためであった。
「ゼブルンの地とナフタリの地、海沿いの道、ヨルダンの川向こう、異邦人のガリラヤ。
闇の中に住んでいた民は大きな光を見る。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が昇る。」
この時からイエスは宣教を開始し、「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」と言われた。
イエスはガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、二人の兄弟、ペテロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレが、湖で網を打っているのをご覧になった。彼らは漁師であった。
イエスは彼らに言われた。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。」
彼らはすぐに網を捨ててイエスに従った。
イエスはそこから進んで行き、別の二人の兄弟、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、父ゼベダイと一緒に舟の中で網を繕っているのを見ると、二人をお呼びになった。
彼らはすぐに舟と父親を残してイエスに従った。"
⑴召命の漸進さ
①突然に思える召命の背後にも漸進性がある
初期ユダヤ伝道 ヨハネ1:40-42
初期ガリラヤ伝道 ヨハネ2:1-12
カペナウム伝道 ルカ4:31-39
②イエスと弟子との間のコミニケーション成立の上での転機となった出来事
その当日の大漁の奇蹟 ルカ5:1-11
⑵預言の確かさ
①イザヤ9:1-2の成就
700年以上も前に預言された「暗闇」「死と陰の地に座っていた」ガリラヤの民
「異邦人」〜アッシリア侵入
②「光が照った」
光とはイエスの宣教であり、イエスご自身
未来預言形の動詞時制に注目
⑶摂理の不思議さ
①「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」
それは千年王国であり、結果としてカペナウムそしてユダヤ全体からは取り去られることになる。
イザヤ時代に「光」が到来しなかったことと同様
②その「ヨミにまで投げ落とされる」カペナウム(マタイ11:23)町からペテロやアンデレが弟子として召された。
「わたしについてきなさい。あなた方を人間をとる漁師にしてあげよう」
聖書学者や祭司などの特権階級ではなく一介の平民の漁師に白羽の矢が立てられている。
(結論)
摂理の生涯があり主の声を聞いた故に私たちはここにいる。そのことを自覚した上で主の招きの声を今一度聞いてみよう。
日本国総領事館が入居しているタワービルディング
先日は日本国総領事館に行ってきました。
先週に引き続いて2回目の訪問です。
申請していた書類を受け取らねばならないからです。
最初の訪問は5月2日でして令和の世になってから2日目、新しい天皇皇后両陛下が即位されたお祝いの記帳もさせていただきました。
その時に気づいたことを何点か書いて来ました。
❶やっぱり日本スゴイ!
❷なるほど日本らしい!
❸こうしたらどうなの日本?
今回は❸を記します。
記帳室には2名の職員が起立姿勢のまま待機しています。
申請受付窓口は2つあるのですがその日空いていたのは1カ所だけ。
何もすることなく記帳を見守るだけの役割ならその狭い部屋に1名いれば充分でしょう。もう1人は窓口対応すれば良いのになぁと思いました。
申請時に私の前に2組の方々がいまして、約15分間の待ち時間。
私が申請を終えた時、6組〜8組ほどの方々がその1つの窓口で待っていました。
申請後書類は1時間ほどで完成するから取りに来て欲しいとの事なのですが、閉館時間まで1時間半しかありません。
1時間半の間に私の番が回ってるかどうかもわからないのです。
書類受け取り時に15ドルをお支払いするだけのことですので、所要時間は5分とかからないでしょう。
そのために受け付けてもらえるかどうかも分からない1時間30分を無駄にすることができません。
やむを得ずその日の受け取りをあきらめ、翌週の2回目の訪問での受け取りとなったのです。
記帳室のドアから2メートルと離れていないところにセキュリティーの大柄な黒人男性が椅子に座ってらっしゃいます。
どれだけ安全面を考えても2人がその部屋に一緒にいる必要はあるようには見えません。
必要のない所には丁寧。
邦人のためにサービス向上しようと言うその必要性はあまり考えていないようにお見受けしました。
日本で40年間以上宣教師として尊い御用をされたドロシー・ラバツウ先生の回想録です。
私が聖書学院を卒業したのが23歳の時。
卒業と同時に遣わされた最初の任命地が三重県大台町にある錦キリスト教会でした。
そこで一人で伝道されていらっしゃっるのが教団最高齢の73歳になっていらっしゃったドロシー先生でした。
教団最若輩だった私はそこで7年間働きましたので、ドロシー先生が80歳になるまで共に生活し伝道したことになります。
本の題名は「人生は80歳から始まる」。
確かに年齢を感じさせないバイタリティー溢れる体力と気力とに満ちておられた先生でした。
私との共同牧会伝道期間は助走期間に過ぎず、その後から先生の本格的な宣教師人生が始まったのですね。
今回初めてこの回想録を手にすることが出来て、ドロシー先生という稀有な宣教師を生み出したその背景を垣間見ることが出来たのは実に祝福となりました。
まるで宝物を探し当てたように興奮しながら原書のページをめくっています。
皆様にもその全てでは無いですが、ハイライトと思えるところを今後紹介して行きます。
その第九回目は、サイクロンで破壊された家を再建する過程。ついに彼らのドリームハウスが完成するのです。
ドリームハウス
その手紙を母が書いたのは1932年6月20日の事でしたが、それまでに彼女が庭園に植えていた多くの野菜はひどく被害を受けました。
多くの地元の大工さんや職人さん達はボランティアで働いてくれたのです。
そんなこともあってまもなくすると、家を再建しようとの気力も出て来ました。
皆はとても協力的でした。いや、ほとんどの人達は、と言っておくべきでしょう。
あるご近所の方は、その空き家を私どもに借家として貸し出そうとしたのです。
母は憤慨していました。彼女にとって借家のためにお金を捨てるような事はあり得ません。
そのかわりにすでに夏となっていましたから、外でキャンプ生活をするにはもってこいですよね。
その借家の家は数ヶ月間も住む人なく空き家のままでした。
黙示録の大患難時代の到来を固く信じている母にとって、この時は感動的な期間でもあったのです。母はその手紙を閉じるにあたり、こんな映えある言葉を選んだのです。
「すべての雲には銀の裏地がある」
(キリストの再臨時には栄光の銀色に光る雲に包まれてキリストが地上に来られることからの表現)
秋までには私どもの頭上になんとか屋根のある家屋に移りたかったのです。
家自体はまだ完成していなかったのですが、とにかく私どもは荷物を多く抱えてました。
母のドリームハウスは石作りか、または漆喰作りとなるはずです。
建築業者は屋根板を使うようにとアドバイスしてくれました。それが町には沢山在庫としてあったのです。
それらは断熱に優れた上に、あの嵐からわずかの被害しか受けてなくて再使用するのになんら問題はありませんでした。母はその提案を受けることにしました。
仮の宿程度でしたが、何とか住める体裁は整ったようです。
それから幾年かの後、私どもはリモデルを行いました。
バイクピーク山とその周囲の山々の山容が見事に見えた大きな窓は取り去られて、小さなエコノミーサイズのものに取って変えられたのでした。
"私は山に向かって目を上げる。私の助けはどこから来るのか。
私の助けは主から来る。天地を造られたお方から。"
(詩篇 121篇1~2節)
その家は漆喰作りのものとなりました。
こうして母のドリームハウスはついに現実となって行ったのでした。
本からは学び得ないレッスン
母の最も好きな歌の歌詞には次ようなものがありました。
「あなたは間違った方法でそれを得ることはできない。
あなたがどんなに一生懸命に努力しようとも。
すべてを隠し切る事は出来ない。
神様はすべての事をご覧になっておられる。
あなたは間違った方法でそれを得ることはできない。」
母は自分自身の直感に対しては、二倍の分け前(特別な能力の意味)を引き継いだように思える人でした。
教会付属の高校生だった兄はある時、友人と一緒に学校を抜け出しては映画館へ行ったのでした。
学校からの電話によって兄の欠席が伝えられました。
すると母は地元の映画館のチケット窓口まで行って館内に入る許可を求めたのです。
彼女は息子がそこにいるような気がしたので、ただチェックしたかったのです。
たちまち彼女は兄のいるところを見つけ出すと、彼のすぐそばまでやってきました。
が、掴み出す事はしなかったようです。どのようにして彼女がその場を解決へと至らせたのかは覚えていません。ただ私は自分では兄のようなことを決してしまい、と決意しました。
母を相手に隠れることは出来ないと思い知らされた事件でした。
「人生は80歳から始まる」
開拓当初の旧会堂。川の対岸から。
日本で40年間以上宣教師として尊い御用をされたドロシー・ラバツウ先生の回想録です。
私が聖書学院を卒業したのが23歳の時。
卒業と同時に遣わされた最初の任命地が三重県大台町にある錦キリスト教会でした。
そこで一人で伝道されていらっしゃっるのが教団最高齢の73歳になっていらっしゃったドロシー先生でした。
教団最若輩だった私はそこで7年間働きましたので、ドロシー先生が80歳になるまで共に生活し伝道したことになります。
本の題名は「人生は80歳から始まる」。
確かに年齢を感じさせないバイタリティー溢れる体力と気力とに満ちておられた先生でした。
私との共同牧会伝道期間は助走期間に過ぎず、その後から先生の本格的な宣教師人生が始まったのですね。
今回初めてこの回想録を手にすることが出来て、ドロシー先生という稀有な宣教師を生み出したその背景を垣間見ることが出来たのは実に祝福となりました。
まるで宝物を探し当てたように興奮しながら原書のページをめくっています。
皆様にもその全てでは無いですが、ハイライトと思えるところを今後紹介して行きます。
その第七回目は、かなりのおてんばだったドロシー先生の子供時代と新しい学校への入学の様子です。
救世軍の路傍伝道とアイススケート
毎週土曜夜は街へ繰り出して救世軍の路傍伝道に参加しました。彼らのユニホームやその帽子等はなかったのですが。
母は主のために公の場で証をするのを愛していました。
彼女はその路傍伝道を大変楽しんでいたし、私もまた同様に楽しみに待ち望んでいたのです。
ただ私にとり勇気を振り絞ってその務めを果たすのには大変長い時間がかかったし、その後は大変疲れもしました。タンバリンのあるブラスバンドは大変良いものとなりました。
冬になると兄弟たちと一緒に私は氷の上で良く遊びました。
シティーパークは広大なスケートリンクになったのです。
私を除いて兄弟たち二人は、とても達者なスケーターでした。
私はフィギアスケートはおろか後ろ向きに滑るなんてことはできなかったし、そんな私を見ていた兄弟たちは最終的に私を教えるの諦めたほどです。
前に進むことだって兄弟が私の手を取って一緒に滑ってくれなかったらおぼつかないものだったのですから。
それから幾日かが経ち、私が大学進学のために働いていたりして忙しかった時の事です。
弟が私を午後のスケートに誘ったのです。
それはお互いにとってまるで災難となりました。彼はそれ以後、二度と私を誘うことはありません。
翌日私は働くことがほとんどできなくなったのです。スケートからではなくて、氷の上にただ倒れ続けたことからくる筋肉痛によって。
完成しなかったプロジェクト
めったには無いことでしたが、短期間の母の留守の間は私たちにとり実験の機会となりました。
弟と私はいつもチームを組んだのですが、兄は関わろうとはしません。
ある時私たちは蛇の死骸を見つけたのです。ワニの革製のカバンや靴はあります。
では、蛇の皮のベルトってどうでしょう!
その作業工程は単純なものでした。
母の洗濯機についている手動式ハンドル絞り器にその蛇を通して中身を絞り出し、それから真っ二つに切り割いて皮の両面に塩を塗り込み、天日干しにするために切り裂いた側を表にして鋲で留めたのです。
それからどうなったのか?
実は、私は思い出せないのです。
私どものプロジェクトは完成しないままだったと、かすかに記憶していますが。
母のこれらの困った子供たちに対する対処方法は、時の問題が様々であるように様々に異なったものとなっていました。
その当時、児童心理学による硬直したルールなんていうものはなかったですしね。
無駄ではなかった聖書学校
母はやがて子供たちに充実した教育をしなければならないと感じるようになりました。
パイクス山の麓にある聖書学校では、小学校から高校までの教育を提供していると聞きつけたのです。
再び私たち皆は、それぞれのカバンをTモデルのフォード車に詰め込んで学校へ通うようになりました。しかし今回はそれまでの走行距離が大したものとなっていたので、だいぶくたびれたポンコツ車になっていたのですが。
そう言う訳で上り坂の途中では、降りて皆で押さねばならないことだってあったんです。
フォード車の最後の運命は、私たちを新しい天地であるコロラド・スプリングスに連れて行く事で終わったのです。
父は母が定住後、だいぶ落ち着いてから引っ越してきました。
母がほとんどのことを取り仕切ってくれました。
一体彼女はどうやってやりくりしたのか、からっきし覚えがないのですが、土地と小さな白い家を買うだけの蓄えをしていたのです。
その後の彼女の計画は次のようなものです。
新しく夢の家を建てることができた時に、それまで住んでいたその小さな白い家を二台収容可能のガレージに改造するというもの。
そのために借金することを彼女は考えなかったようです。
「借りるものは貸すもののしもべとなる」と信じ、
また借家住まいとは、お金を捨てるようなものだと考えていました。
彼女はテントのような家を設計し建て上げると、
私たちは小さな家が立ち上がるまでそこが仮住まいとなりました。
私どものその新しい家は街のはずれにあったにも関わらず、ご近所さんたちには恵まれました。
でもヤギは諦めねばなりませんでした。
現実のところ既にヤギは必要とはしなかったのです。
私たちの主は父に健康を与えてくださり、彼はリタイヤするまで食品販売の店で働くことができました。
明日こどもの日を迎えます。
数日ぶりに晴れてくれたさつきの空に、
鯉を泳がせました。
今は可愛い鯉である子らも、やがて龍と成り駆け登って行くのでしょうか。
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