四国在住の友人が花見に行った様子をFacebookで紹介してくれました。
繚乱の言葉を思い出す見事な満開に桜。
日本の風土と景色によく溶け合っているピンクの花柄。
ここシアトルにも日本から移植されたソメイヨシノの見事な花見の場所があります。
そのワシントン大学のキャンパスに今週は行ってこようかと思います。
桜には私たち日本人の心を愛でさせ、上に向けさせる何かがあるようです。
ところで聖書の世界には、
何となく「何かが」といったあやふやさを超え、
聖書には確かな約束が記されています。
そうです。
恵みをいただくために、大胆に神が御臨在されるその場に侍ることができるのです。
"ですから私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、折にかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。"
ヘブル人への手紙 4章16節
Zion Williamson
ザイオン・ウイリアムソン
息子が夢中になっているバスケットボール界の新星。
先日高校を卒業したばかりの若干18才。
彼のプレイを見ろ、と言うことで強制されて息子の隣に座って何度かビデオ観戦。
確かに他の選手を寄せ付けない飛び抜けた身体能力とシュートの正確さ。
280ポンドもある筋肉で鎧われた巨体で40インチの垂直飛びが出来る。
相手選手のシュートボールをゴールより高くジャンプして自ら手の手でボールを弾く。
プロリーグのNBAには大学に1年間通わなくてはならないと言うルールがあるとのこと。
そこでつい先ごろ、彼はまもなく終える大学1年の後、NBAへ行くことを表明した。
来年の東京オリンピックには米国代表の1人の選手として来る事はほぼ間違いないでしょう。
大相撲でもやっていけそうな体躯を持ちながら、トカゲのような素早さで相手選手をすり抜け、高く舞い上がってのダンクシュート。
子供たちが夢中になるのも無理は無い。
やがて日本でも注目されるでしょう。
ホサナキリスト教会・日曜礼拝のメッセージノートです。
「大胆に恵みの御座に近づこう」
ヘブル人への手紙 4章14~16節
"さて、私たちには、もろもろの天を通られた、神の子イエスという偉大な大祭司がおられるのですから、信仰の告白を堅く保とうではありませんか。
私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯しませんでしたが、すべての点において、私たちと同じように試みにあわれたのです。
ですから私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、折にかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。"
⑴主イエスを知ろう(14)〜その職能を把握せよ
①「もろもろの天を通られて偉大な大祭司となられた」
かつて大祭司アロンは贖罪の日に会衆の面前でさまざまな仕切りを通り至聖所にまで至った(レビ16:15、17)
②本書が論述している「優れた方」
預言者より
天使より
モーセより
ヨシュアより
アロンより
⑵主イエスとともに(15)〜その方は低いところに降って来られた
①人との自己同一性を開拓された主
完全な人間として肉体、感情を備えられ喜怒哀楽を経験して来られた
②自己同一性が成立して始めて「同情」が可能となる
*イチロー選手の引退。
「アメリカに来て、外国人になったことで、人の心をおもんぱかったり、人の痛みを想像したり、今までなかった自分が現れた」「孤独を感じて苦しんだことは多々ありましたが、その体験は未来の自分にとって大きな支えになると、いまは思います」。
国民栄誉賞授与を3回目にして拒否〜「人生の幕を降ろす時に」
⑶主イエスに近づこう
*新しい元号「令和」時代の華やぎと希望
『初春(しよしゆん)の令月(れいげつ)にして、気淑(よ)く風和(やはら)ぎ、梅は鏡前(きやうぜん)の粉(こ)を披(ひら)き、〜』(万葉集)との文言から引用。
「この令和には人々が美しく心を寄せ合う中で、文化が生まれ育つという意味が込められております。万葉集は1200年あまり前に編纂された日本最古の歌集、我が国の豊かな国民文化と長い伝統を象徴する国書であります。悠久の歴史と香り高き文化、四季折々の美しい自然、こうした日本の国柄をしっかりと次の時代へと引き継いでいく、厳しい寒さの後に春の訪れを告げ、見事に咲き誇る梅の花のように、一人一人の日本人が明日への希望とともにそれぞれの花を大きく咲かせることができる、そうした日本でありたい」(安倍首相談話)
新しい時代を感じさせる、希望を見据えた元号改元である。
春という季節や日本古典からの典拠と言う雰囲気に依拠するのではなく、
私たちが希望を失わずに済む確固とした土台があることを知ろう。
①あわれみと恵みとをいただくために
②折にかなった助けを受けるために
③恵みの御座に近づこう
(結論)
私たちの側には俊敏なユダヤ人弁護士(イエス)が常時ついていることを知ろう。この方は、大祭司として私たちのために執り成しをしておられる。
半日間失っていた財布。
数百ドルの現金やクレジットカード数枚、それにドライバーズライセンスや教会堂アクセスの鍵まで入っている。
机の周りや部屋中探しても、またあらゆるポケットを探しても出てこなかった。
息子に打ち明けてみると、
「車の中を探したか」
「助手席に置いてないか」
とのたもう。
そんなとこに置くわけないよ、と言いながらも行ってみると車の窓越しにちゃっかりと財布が助手席に座ってるのが見えた。
その時の喜び、開放感、満たされた思い(^^)
昨夜息子に運転させて自らが助手席に座った時どうやら財布を持ち出したのを忘れていたらしい。
聖書の次の言葉を思い出しました。
"また、ドラクマ銀貨を十枚持っている女の人が、その一枚をなくしたら、明かりをつけ、家を掃いて、見つけるまで注意深く捜さないでしょうか。
見つけたら、女友だちや近所の女たちを呼び集めて、『一緒に喜んでください。なくしたドラクマ銀貨を見つけましたから』と言うでしょう。
あなたがたに言います。それと同じように、一人の罪人が悔い改めるなら、神の御使いたちの前には喜びがあるのです。」"
ルカの福音書 15章8~10節
財布が見つかるまでは食事をしても美味しくなかったし、息子とバスケットボールをしても気にかかって楽しめなかった。
財布がどれだけ貴重かと言えば、百ドル少々の現金と後は時間と手間をかければ回収できるものばかりのはず。
もしも悪用された場合カード会社は補填してくれるし、運転免許証だって再発行すれば良い。
考えてみれば全て取り返しの効くものばかり。
それでもあの半日間は空虚な気持ちでそわそわして生きた心地がしなかった。
「生きるって辛いな〜。こんなことも耐えねばならないなら死んだ方が楽か?」
少々大げさだけど、そんなふうにも思った。
失われた私たちに対して神がどんな思いでいらっしゃるかを主イエスが例えにして教えられた。
上記にある女性が銀貨を失った際の慌てぶりと発見の際の喜びの例え話。
銀貨も財布も取り返しのきくものである。
ところが私たちの命には取り返しがきかない。
そこで神は自らの命を差し出すことを決意された。
私たちが神によって発見されるために、
主イエスが十字架でその命を差し出さねばならなかったのだ。
神の目から見て私たち一人ひとりの命はそれほど重い。
「人の命は地球よりも思い」
ある政治家の言った言葉らしいが確かにその通り。
神のひとり子を犠牲にする程の重さだったのだから。
サンフランシスコのミッション通りは思いっきり異国情緒あふれる界隈です。
アミーゴ!
中南米の移民の方々が多く集まり、どのお店に入ってもスペイン語が行き交ってます。
英語を全く解してない人が多く、私が英語で挨拶しても挨拶は帰ってこないで数少ない店内にいる英語の話せる人と話すことになります。
かなりの巨大なスペイン語圏が形成されていますので、端から英語を話そうだなんて思わないんでしょう。
どのようなことを中国人街に行っても感じました。
「ギャリーさんですか?」
「何ですか?、、、、 誰ですかその人は?」
今朝QFCの店でキャッシャーさんからそんなふうに聞かれたのでした。
ギャリーとは、前ワシントン州知事でこのあたりに住んでいて時たまこの店にも来るのだと彼は説明してくれました。
私は中国人でなく日本人であることを彼に伝えたのですが、
彼によると私が彼にそっくりなのだそうです。
その場を離れようとした時、次のお客さんがキャッシャーに来て私に
「ハイ、ギャリー」と話しかけて来ました。
彼女は私たちの会話が終わってから現れたので何も聞いてませんし、
彼女自身の印象から私をギャリーであると勘違いしてきたのです。
写真で彼女は私を指差しながら、「この人はギャリーだよ」と言ってます。
そんな風に見えますかね?
ナザレにある聖誕教会
ナザレのバザール
「ナザレのイエス」
ナザレ〜それは辺鄙な片田舎であり、
当時の聖書には一度も言及なく
「ナザレから何の良いものが出よう」(ヨハネ1:46)と言われるほど蔑まれたところだった。
そのナザレ出身の学歴なし支持基盤なしの30歳の青年イエス。
数ヶ月前、なぶりものにされた上、
十字架で死を遂げられたばかり。
さらに死から復活されたという知らせは、
弟子たちの間に広まっている。
生まれてこの方、足がなえていて歩いたことない男にとって
突然「歩きなさい」とのペテロの命令はあまりに唐突でハードルが高かったに違いない。
エルサレム神殿の美しの門に物乞いのために置かれていたこの男は、当然のことながらこれまでイエスの噂を耳にしていたはず。
そのイエスに賭けてみることにした瞬間だった。
ナザレのイエスと言う方が行なっていた、
病を癒し目の見えない者を開眼させていた他人事話を、
この時、自分にも適応してみたのだ。
つまりイエスと言う方が聖書に予言されたメシアであり、
神ご自身であり、
不可能はない救い主であられるとの信仰を抱いて自らの足で立ち上がった。
いや立ち上がろうと、決意して意思を動かした。
ペテロはその時、彼を助けて「右手をとって立ち上がらせた」(7)とある。
その瞬間、神の力が彼の全身を貫いてその足は飛び上がるほどまでに頑丈に癒されたのだった。
私たちも同様にしてナザレのイエスと言う方が
死なれたこと
復活されたこと
その前にも、イスラエルの地で様々な奇跡を行われたことを
聖書の中から知ることが出来る。
クリスチャンの知人から友人から聞いたこともあるでしょう。
これが単なる昔話、おとぎ話の段階から
自分自身に適応するときに神のみわざが始まる。
ペテロはその直後、その神のみわざがどうしてこの男に実現したかをまとめている。
"このイエスの名が、その名を信じる信仰のゆえに、あなたがたが今見て知っているこの人を強くしました。イエスによって与えられる信仰が、この人を皆さんの前で、このとおり完全なからだにしたのです。"
使徒の働き 3章16節
①この男を癒した直接要因〜「イエスの名」。
ヘブル的に名前はその人自身を表す。
すなわちイエスご自身。
②この男を癒した間接要因〜「その名を信じる信仰」その男がイエスに対して抱いたメシアとしての信仰のこと。
③信仰の起源〜「イエスによって与えられる信仰」
それ故私たちは自らの敬虔に根拠を置かない。
永久に保証されている救いをいただいているのである。
ホサナキリスト教会日曜礼拝のメッセージアウトラインです。
「ナザレのイエスの名によって」
使徒の働き 3章1~16節
"ペテロとヨハネは、午後三時の祈りの時間に宮に上って行った。
すると、生まれつき足の不自由な人が運ばれて来た。この人は、宮に入る人たちから施しを求めるために、毎日「美しの門」と呼ばれる宮の門に置いてもらっていた。
彼は、ペテロとヨハネが宮に入ろうとするのを見て、施しを求めた。
ペテロは、ヨハネとともにその人を見つめて、「私たちを見なさい」と言った。
彼は何かもらえると期待して、二人に目を注いだ。
すると、ペテロは言った。「金銀は私にはない。しかし、私にあるものをあげよう。ナザレのイエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」
そして彼の右手を取って立たせた。するとたちまち、彼の足とくるぶしが強くなり、
躍り上がって立ち、歩き出した。そして、歩いたり飛び跳ねたりしながら、神を賛美しつつ二人と一緒に宮に入って行った。
人々はみな、彼が歩きながら神を賛美しているのを見た。
そしてそれが、宮の美しの門のところで施しを求めて座っていた人だと分かると、彼の身に起こったことに、ものも言えないほど驚いた。
この人がペテロとヨハネにつきまとっているうちに、非常に驚いた人々がみな、「ソロモンの回廊」と呼ばれる場所にいた彼らのところに、一斉に駆け寄って来た。
これを見たペテロは、人々に向かって言った。「イスラエルの皆さん、どうしてこのことに驚いているのですか。どうして、私たちが自分の力や敬虔さによって彼を歩かせたかのように、私たちを見つめるのですか。
アブラハム、イサク、ヤコブの神、すなわち私たちの父祖たちの神は、そのしもべイエスに栄光をお与えになりました。あなたがたはこの方を引き渡し、ピラトが釈放すると決めたのに、その面前でこの方を拒みました。
あなたがたは、この聖なる正しい方を拒んで、人殺しの男を赦免するように要求し、
いのちの君を殺したのです。しかし、神はこのイエスを死者の中からよみがえらせました。私たちはそのことの証人です。
このイエスの名が、その名を信じる信仰のゆえに、あなたがたが今見て知っているこの人を強くしました。イエスによって与えられる信仰が、この人を皆さんの前で、このとおり完全なからだにしたのです。"
⑴足の萎えた男にとって
①施しに頼った生き方
「生まれつき」ゆえに人々の哀れみと善意とに頼る他なし。
「美しの門」に置いてもらう
②賛美する生き方
「躍り上がってまっすぐに立ち、歩き出した」(8)
この受け身から能動への抜本的な生き方改革はイエスの御名を信じる信仰ゆえに与えられたもの(16)
⑵ペテロとヨハネにとって
①午後3時の祈りの時間
ペンテコステの御霊の傾注を受けた直後であるが
規則正しいメソジカルな生活態度が敬虔を修行
②栄光をことごとくイエスに帰している
イエスの名によってなされたいやし(6、12、16)〜直接要因
イエスによって与えられる信仰〜間接要因
⑶地の諸民族(異邦人)にとって
①「子孫」によって祝福を受ける(25)
アブラハムによって確立された契約。
その「子孫」とはイエスのこと(ガラテヤ3:16)
②メシアなるイエスが再び来られる(20-21)
イスラエルにとり「回復の時」であり、
全世界にとって「万物の改まるとき」である
(結論)
ペテロとヨハネが施しを求める男に与える金銀は無かった。彼らにあったもの。
それは、「ナザレのイエスキリストの名」=イエスご自身であり御霊の内住であった。
その方は死と復活を遂げられ(13-15)、
再び天から来られ世界を一新される((20-21)。
これらは代々の預言者らにより定められた契約に基づくものである(24-26)。
昨日は突然、これまでになかったiPhoneの症状に悩まされました。
完璧にフローズンして画面がただ真っ暗になるだけ。
どんなボタンを押しても回復しないので、私の気持ちも同様にフローズン。
それまで聞いていたYouTubeでのセミナーも聞けず、顧客からのカード決済ができず、さらに家人との連絡もできない。
いかにiPhoneに負っていたか、まざまざと気付かされた次第。
家に戻り息子のiPhoneを使って電話。
解決法をApple社に求めたがらちがあかない。
翌日のベルビュースクエアでの修理のための予約を取る。
そこに行ってみると、若いお姉様が約6秒で解決してくれた。
先ず音量ボタンの上にあるボタンを2秒押す。
それから下にあるボタンを2秒押す。
最後に反対側にあるメインスイッチのボタンを2秒押す。
それだけで初期画面が回復して以後はサクサクと快適に操作ができた。
実に簡単な操作なのですが、知らないと言うのは恐ろしいこと。
わずか6秒で解決する方法を知らないだけで何年かけてもできない。
iPhoneの使用不可の違いがもたらす世界は天と地ほどのも違う。
その違いをもたらすものが、わずか6秒で終わる操作方法。
シアトル熱中小学校に行ってきました。
1時限目はeコマース専門家からの社会科授業。
年々小売業に占めるeコマースの売上比率は伸びていますが、それでも日本では5%ほど。
それが米国では10%、
中国なると15%となるから驚き。
中国では偽札が多く社会に浸透しているので現金決済をなくし電子取引が進んで、ほとんど100%近くにまで上るのが特徴だとか。
また日本で今やYouTubeをしのぐ動画視聴アプリが若い子達に流行ってると言うトレンディの話も聞けました。
我が子にやらせてみようかしらん、
なんて野望を抱いているところ(^ ^)
- If you are a bloguru member, please login.
Login
- If you are not a bloguru member, you may request a free account here:
Request Account