内閣府資料
高齢の運転免許保有者の増加
平成28年末の運転免許保有者数は約8,221万人で,27年末に比べ約6万人(0.1%)増加した。このうち,75歳以上の免許保有者数は約513万人(75歳以上の人口の約3人に1人) で,27年末に比べ約35万人(7.3%)増加し,今後も増加すると推計される。
総務省資料
総人口が27万人減少する一方、高齢者は44万人増加
75歳以上の男子:682万人
75歳以上の女子:1063万人
岩魚太郎の免許書返納
私の運転歴は60年、御年79歳で返納した。
返納したきっかけはこうだ。
自宅の一車線の狭い道路から、二車線の一般道に出て、その道路を左折予定であった。
その道路は、私が運転する進行一番手前に広い歩道、その歩道の向こうに左方向の車道、その向こうに右方向の車道がある道路である。
私は、何を勘違いしたのか、広い歩道の手前で一旦停止して、広い歩道を車道と勘違いしてハンドルを左に回した時点で、歩道であることに気づき、停車後あわててバックした。
幸い歩道には、車半分左に乗り上げた時点で気がついた。
運転歴60年で初めての経験である。
日常生活に於いては、多少加齢による物忘れの自覚はあるが、車道と間違えて歩道にハンドルを切ったのは初めてである。
自分の運転技術(車両の操作)は、絶対の自信があった。しかし、状況判断、歩道を車道と勘違いして歩道にハンドを切る!
狭い歩道であればそんなことはしないだろう。車両が乗り入れ可能な広い歩道だから間違えた……加齢と共の、状況判断の能力低下を自覚した。
家族には、その事を言わなかったが、家族に免許書を返納する話した。
買い物に不便だ。重い買い物をした時配達料金を取られる。雨降りが不便。旅行。その他車生活の便利さを放棄しなければならぬ不便さに反対された。
平成27年、免許書を返納した。
買い物は、家族三人自転車で楽しんでいる。
岩魚太郎が、埼玉県上尾市上尾村に移り住んで55年、「上尾村」の一部の地名が、10年ぐらい前に「二ツ宮」に変わった。町名変更に伴い、住民への説明会が行われ、それに反対したのが岩魚太郎他数名。今回、唯一江戸時代から残っていた「上尾宿の道標」も消えてしまった。
「昔は遠くなりにけり」が、上尾宿の生き残り証人である「道標」も消え去った。
残念である。
上尾宿(分間延絵図)
桶川へ30丁(3.2㎞)。宿9丁。家数200軒余。
「上尾宿」の表記真下の大屋敷が本陣・井上五郎右衛門。街道の真向い奥(左側)の鳥居は、 総鎮守の鍬大神宮のもの。
(6.13) 上尾宿は旅籠が多く、天保14年(1843)で41軒、宿場女郎である「飯盛(めしも)り女」も大勢いて宿場は結構、 賑わっていたそうな。(くまごろう)
門前の茶店で昼食後、桶川宿へ。
平均寿命
岩魚太郎は、還暦を遙か越え、平均寿命も越え82歳に達しました。
日本人男子82歳人口406千人 現在60歳の人口754千人 348千人の男性が亡くなっています。
亡くなられた原因は様々だと推察しますが、病・事故・災害・が原因ではないでしょうか?中には、自殺された方もいらっしゃるでしょうが、多くの方は、自ら「死」を選択する人はないでしょう。
今回は、人生の「選択肢」のことでお話します。
「その「選択肢」を選び、ブログにUPする理由を聞かせてくれ」
「俺が、下咽頭癌で、残りの人生を考えたからだ」
「癌になる前と後ではどう変わった?」
「選択肢がない今後の人生を、如何に有意義に時間を消化するかを考えるようになった」
「選択肢が無い? どう言うことだ?」
「生まれてくる命には選択肢は無い」
「なるほど、反抗期の子供が、”好きで生まれてきたんじゃない”と言う理屈だな」
「理屈じゃなく正論だ。また幼児期までの子供も選択肢がない」
「どう言うことだ?」
「親の虐待は避けられない」
「自意識が生まれた年齢に達すると自己主張の選択は出来る。親が聞き入れるかどうかは別だが」
「なるほど」
「通う小中高大学も、就職も、結婚も、子供を生むかどうかも、善し悪しに関われず選択 が出来る。すべて自己責任だ」
「自己責任は極端論だ!」
「極論かも知れないが選択は出来る」
「それで……」
「還暦すぎても、就労の場所があれば、就労の可否の選択は出来る」
「それで……」
「就労の場所も無い、旅行に行きたくとも金もない、子供のたちの通学見守り隊にも誘われない、何も選択出来ない自由人……選択肢の無い人生を過ごさなければならない環境に置かれた人生なんて……哀れに思わないか?」
「哀れに思うが、もし先輩は90歳まで生きたとしょう。今82歳で残り8年。90年分の8年だ。頑張るしかありませんな」
「あんたは、癌になって人生観は変わった? との質問に対して、選択肢のない8年間の生き方について考えるようになったってことさ」
「なるほど……生き方か……」
「選択肢と言う意味を、広辞苑で見てみた。”多肢選択法において、そこから選択して解 答するように、正答を含めて設けられたいくつかの項目”結婚も一つ選択だが、結婚って、 ”正答” なのかねぇ? ”誤答” も有るんじゃない」
「誤答ってなんだよ?」
「浮気、破綻、離婚……あんたんとこ、大丈夫?」
「大丈夫だ! 愛し合ってるから」
「愛なってものは、写真に写らないからな」
「写ったら困るよ……写らないから信じ合える」
「あぁ~俺の人生後8年、炎のような恋をしてみたい!
美しい日本の女性・・・これって女性の差別用語? ですか?
2019年3月26日現在、日本列島には、桜の開花予想がTVで報じられています。
余すところあと少しで4月です。我が居住する埼玉県上尾市上尾村も、芝川に植えられた桜の、岩魚太郞の観察する標準木が、見事開花しました。
上尾市上尾村に転居して51年目の春です。
上尾はJR高崎線で上野から約30分の位置にあります。
今日駅のカフェで家内と昼食をとりました。と
時間は13時頃、改札口広場を見渡せる場所いて、まばらな人の流れを見ていました。
家内が広場を見ながら、誰に聞かせるでもなく言いました。
上尾も変わったわね……
結婚して32年、上尾へ転居して51年……家内のその言葉に、己の過去の年輪を感じました。
上尾駅周辺の建物はすべて変わりました。西友も消え、キンカ堂も消え、我が本社、駅前2800坪に立つ「関東精工」消え、駅周辺に高層マンションが並び、50年前の居酒屋が二軒のみ、すべて新規の居酒屋に替わりました。
社会は変革していきます。
1970年日本初の万博が開催され、月の石がアメリカ館に展示され、無線電話機も登場しました。今現在はスマホです!
しかし私自身、中味は時代ともに変革してきたのでしょうか?
変革することが由と言うわけでもありません。
80年の年輪得た私の中味は
貴男は変わったわね……
貴男は変わらないね……
どう見えるでしょうか?
中味はお茶です。用途はご存じですか?
現在では完全なセクハラです。この日常は社会が公認していました。と言うより、セクハラと言う意識すら無かったのです。
男性も女性も、必死で働いていたのです。
2019年、和暦が変わります。昭和・平成・**?……昭和生まれの我が輩とすれば感無量です……が?
2025年大阪万博が決まった。来年和暦の元号が決まるが、55年前、 1970年(昭和45年)大阪万博の私の万博体験録を綴る。
1970年(昭和45年)大阪万博が開催された。
私は34歳のであった。会社が東京に有り、ライトバンの後部に二組の布団を積み、東京から万博に向かった。
布団を積んだ理由は、結婚していて、妻がいて、5歳になる子供がいて、生活は苦しく、万博に行く費用などは出せないと愛妻に言われた。
愛妻の言うことが正論である。しかしどうしても万博に行きたく、食費とガソリン代だけは出して貰い、会社の車を借用して、 宿泊は車を利用した。
そう言う訳で二組の布団である。
勿論高速道路などと言う便利な道もなく、国道1号線(東海道)を、十返舎一九の『東海道中膝栗毛』で、友人と二人で、弥次喜多道中をライトバンの旅で万博に向かった。
1970年(昭和45年)の万博の鳴り物は、岡本太郎の『太陽の塔』と『アメリカ館の月の石』であるが、それも見ていない。見ない理由は、万博会場に一番に入場するには、夜中から並ばないと駄目で、両パビリオン(博覧会の展示用建物)に普通に並んで見物するには5時間程度かかった。
限られた広い会場で限られた日数である。空いてる人気がないパビリオンを回った。
質より量を選択した私は失敗であった。カメラも庶民には手が出ない代物で、写真を撮っている人は皆無。従ってパビリオンに置いてある無料のパンフレットしか記念に持ち帰るしかなかった。唯一記憶に残存するのは、パビリオンはドイツ館のレストラン。
昼食で、馬鹿でかいソーセージで生ビールを飲んだ。お勘定をしようと思ったらレジがなかった。
ウエーターを呼んだところ、そのウエーターお尻のポケットから分厚い皮財布を取り出し、テーブルの上に置かれた皿とグラスを見て、勘定を払ったこと! 日本では、考えられない光景であった。要は、現代風に言うと、宅配便での『代引き』の光景である。
唯一そのことが、私が体験した、1970年(昭和45年)大阪万博の記憶であった。
しかしビールとソーセージは旨かった。
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