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これはオレゴン州中央部に広がる荒野です。
毎週日曜日、午後6時からホサナ教会では日曜礼拝をしています。
この夕方の時間帯に、
それも「聖書広場」と銘打って持つようになってから約1年が経とうとしています。
「広場」としたのは、質問・コメント・ツッコミ歓迎で、
誰もが疑問や不明な点を自由に発言できる狙いがあります。
コの字型の几配置で皆が向かい合って着席します。
私もその端っこの席からメッセージを語らせて頂いています。
難解な聖書の箇所に差し掛かると、質問のオンパレードが続くことがあり、
その質疑応答に費やす時間の方が説教自体よりも長くなることもしばしばです。
思っても見なかった読み方の視点をそこから私が教えられることが多く、
語る側も聴く側も、
どのように発展していくか1分先は分からない集会の流れに、
緊張感を絶やすことなく学びが進められて行きます。
その日に学ぶ聖書箇所は、前日の土曜日の夕刻ほどには「メッセージ・ノート」として当教会のWEBに3ページほどのアウトラインがUPされます。
出席者の皆さんはそれを一読して、各自で印刷して来会されています。
現在では、マタイの福音書を1章から扱って17章にまで至りました。
連続メッセージをして、46回が終わりました。
マタイ福音書は全部で28章ありますから、全巻を扱うには100回ほど続けなくてはならないでしょう。
この先、悠に1年はかかりそうです。
礼拝の集会ですから信仰者対象に自由献金がありますが、
入会金等の義務はなく、もちろん入会も退会も何時でも可能です。
クリスチャンでない方でも大歓迎です。
「聖書を一度読んで見たい、
何が書かれてあるのか興味がある、
一人で読むよりも皆で学んだ方が刺激がありそうだ」
そのようにお考えの方、ぜひ一度聖書広場にお越になられてみては?
貴方のお越しをお待ちしています。
ホサナ教会のWEB
http://hosannamin.org/
オレゴン・トリップから
「山麓での戦い」
マタイ17章9~18節
~マタイ福音書連続講解説教45~
聖書本文とメッセージノートはこちらから:
http://wdx.hosannamin.org/whatsnew/view/791845
ヘルモン山の頂で栄光ある主の輝き、
モーセとエリヤの顕現の特別の祝福に預かった弟子たちは、
今やその山を下る時が来ました。
山頂から山麓への下山は、
シャカイナ・グローリー(神の栄光)の臨在から、
罪と悪霊に関わる暗闇の世界への移動を象徴とするものです。
• それはすでに天の御座を捨てて、
地上に下られた主イエスの謙遜さに模範が見らます。
• 教会内にある恵みの世界から、
ミッション(伝道)の場へと派遣される私たちにとっても身近なトピックスです。
私達もまた栄光ある場所から、
問題の渦巻いている現実世界へと遣わされているからです。
Ⅰ 下山途上にて(9~13節)
弟子たちは、「律法学者たちはエリヤが先ず来ると言っているが…」
と主に訪ねます。
そのような疑問が彼らの内に沸き起こるのも、
旧約聖書時代からの伝統と信仰とのゆえです。
マラキ4:5~6の預言のよれば、
メシア到来前にエリヤがやって来て、
人々の心を整えることになっている。
そのエリヤを山上で目撃した彼らは、
「今や、メシア王国の樹立だ」と考えた。
そのエリヤが見えなくなってしまった今、
イエスのメシア性と預言成就の関連性に疑問が生じたというのです。
それに対して主は、
エリヤはすでにB.ヨハネがそのタイプとして来たのである、
とお答えになられます。
そのタイプとしての預言は、マラキ3:1にあります。
なお、本物のエリヤは今後、主の再臨前に地上にやって来られます。
それは黙示録11:3に預言されている
「二人の証人」のうちの一人であると考えられています。
彼らは大艱難時代のエルサレムで、
3年と半年間伝道したあとに殉教死を遂げますが、
復活して天へと挙げられて行きます。
その奇蹟は、多くのユダヤ人を信仰へと目覚めさせるしるしとなります。
さて、山麓(世の戦い)に臨む私達が身に付けなくてはならない準備が、
この下山途中の会話から読み取れます。
それは、
• 主の言葉を聴いて、聖書理解に進むことが準備となり
• それは、神の人類救済計画の全体の流れを把握することに他ならず
• 神のことば・約束が今度も違わずに成就して行くことの確認です
Ⅱ 山麓にて(14~18節)
麓で彼らを待っていた戦いとは、
一人息子(ルカ9:38)が幼い時から(マルコ9:21)
悪霊に取りつかれているのでどうかしてほしいという、父親の問題でした。
律法学者たち(マルコ9:14)が激しく弟子たちと議論をしていました。
弟子たちには悪霊追放ができなかったからです。
それはかつて彼らに与えられていた権威(10:8)なので、
試みたはずなのですが、、、
弟子たちの失態は、
律法学者たちの格好の攻撃材料、
物笑いの種となっていました。
主は、
真っ先に愛弟子たちをかばう代わりに、
深く嘆息されて嘆かれました。
「不信仰な、曲がった今の世だ。…
いつまであなたがたに我慢していなくてはならないのでしょう」
それでは、ここでの「あなたがた」とは誰で、
主は誰を嘆いておられたのでしょうか。
結論を言えば、その場に居合わせた者たち全員です。
• 父親のことである:
子供の幼少時から悪霊の干渉を受けるほどに、
信仰から離れた家庭生活を築いていた責任がある
• 9人の弟子たちのことである:
かつてガリラヤ伝道では悪霊追放ができたのに、今回は不能となっている。
ピリポ・カイザリヤ以後、信仰の歩みからそれてしまった。
主の受難告知が彼らにとって心外であったから。
• 律法学者たちである:
偏見から、どれほどメシア奇蹟を目撃しても、メシア拒否をすでに決定していた。
山麓とは、
常に神の国の反対者(パリサイ人)、
無関心者(父親)、
無理解者(弟子たち)
であふれている世界である。
その現実の中で、私達はどんな問題も主の下に持っていくことができる。
「その子をわたしのところに連れてきなさい」
この日、入道雲がモクモクと発生。
真夏を思わせる気候となりました。
「山頂での栄光」
マタイ17章1~ 8節
~マタイ福音書連続講解説教44~
聖書本文とメッセージノートはこちらから:
http://wdx.hosannamin.org/whatsnew/view/71844
先回のマタイ16章のピリポ・カイザリヤからのストーリーを追って見ましょう。
17章との間には、6日間の時間の流れ(1節)があります。
その6日間、主と弟子たちとの間には冷たい隙間風が流れていたと推察されます。
主は最も大切な「受難」を打ち明けたのでしたが、
弟子たちには受容できないばかりか、
「引き下がれ、サタン」と厳しく叱責されてしまったからです。
メシア王国建設の代わりに受難と死だけが主の将来に待っているとしたなら、
その弟子として追従する意味があるのだろうか、
と弟子たちは自問自答したことでしょう。
気まずい空気の中で、
その話題を持ち出すことは弟子たちからはできませんでした。
この師弟関係のつまずきをどのように修復するかが、
17章の一つのテーマとなっています。
主は3人の内弟子だけを伴って高い山(多分ヘルモン山)へ登られます。
❶シャカイナ・グローリー
主イエスが祈っておられると、
「御姿が変わり、御顔は太陽のように輝き、御衣が光のように」
輝きます。
これは、主がその内側にすでに保持しておられる神としての本質が、
肉体のベールを裂いて輝き出た瞬間でした。
そして旧約聖書の二大巨頭と言うべきモーセとエリヤとが現れて、
主イエスのエルサレムでの最期(エクソダス:ディパーチャー)
について話し合っていたというのです。
❷ペテロの提案
彼はその時、
「先生。私たちがここにいることは、すばらしいことです。
もし、およろしければ、私が、ここに三つの幕屋を造ります。
あなたのために一つ、モーセのために一つ、エリヤのために一つ。」
(マタイ17:4)
と言います。
ペテロはその時、
「恐怖に駆られて言うべきことが分からなかった(マルコ9:6)」。
この箇所を、多くの西洋神学者たちは、
彼が光栄に接するための時間稼ぎのためか、
寝ぼけていたために
そんな見当違いを口走ってしまったのだ、と説明します。
私はあるユダヤ人学者の説明を聞いて始めて得心できました。
ここでの「幕屋」は、モーセがシナイ半島で出エジプトの際に作ったものでありません。
それは仮庵の祭りの際に建てられる粗末な掘っ立て小屋のことです。
この時期、その仮庵の祭りの前後と思われます。
仮庵の祭りは、メシアの来臨とメシア王国成就を待望して
ユダヤ人が今日に至るまで毎年継続している秋の例祭です。
ペテロは、そこでイエスが栄光のメシアとして変貌された今、
旧約の代表者らとともに王国を樹立する瞬間がやって来たと理解したのです。
つまり彼の進言は決して場違いのものでなく、
預言成就の文脈に沿った正統なものでした。
ただ彼もその他の弟子たちも、
仮庵の祭り(秋)の前に、
過ぎ越しの祭り(春)が祝われている
預言的意味を把握していません。
過ぎ越しの祭りが予表しているものは、メシアの受難です。
栄光のメシア到来の前に、受難の時が来なければならないのです。
❸バットコル:天からの声
父なる神様が、
主イエスに直接天から声をかけられたことが、主の生涯に3度ありました。
その3度は何れも主の生涯の転機となる瞬間で、
父なる神の承認・確認を必要としていた時でした。
• 洗礼の時:マタイ3:17 ~ミニストリーの開始期に
• 変貌山 にて:マタイ17:5 ~ミニストリーが弟子たちに受け入れられない時に
• 受難の直前:ヨハネ12:28 ~ミニストリーの完成間近に
「彼の言うことを聞きなさい」とのことばは、先回の洗礼のときにはないものです。
これはペテロの誤り(16:22)が指摘されネバならず、
十字架の道が神の御心であることが示すためのものでした。
ここで、
主イエスにとってエルサレムでの十字架が
主のゴールであることが確認されました。
いのちと全世界を天秤にかけると、、
マタイ16章21~28節
「弟子への受難予告」
~マタイ福音書連続講解説教43~
メッセージノートと聖書本文ははこちらから:
http://wdx.hosannamin.org/whatsnew/view/6212843
{メッセージの抜粋}
「その時から」(21) という言葉はカギとなるフレイズです。
マタイ福音書では、重大な転機を意味する言葉として用いられています。
4:17にも出現していますが、
そこでは主が公の生涯に入られた転機を示すものとして使われています。
マタイ福音書を「その時から」で3つに区分すると、以下のようになります。
メシアの準備期間 ~4:16
メシアの宣教期間 4:17~16:20
メシアの受難期間 16:21~
さて、16章は弟子訓練の章でした。
弟子たちや一般民衆のメシア理解とイエスとの間には大きなギャップがありました。
主は今まで言及されなかったのですが、
訓練の進み具合を見ながら、
いよいよここで弟子たちが仰天するようなことを開陳され始められます。
❶ 受難の予告(21節)
主の弟子訓練もいよいよギアが入って来ました。
先回はペテロが満点のメシア告白をしました。
これを受けて主は初めて教会設立や、
その経緯や教えの正統性などにも言及され始めます。
そしてさらに、ご自分の受難について預言されたのが今回です。
そこには4つの側面があります。
エルサレムにて起こることである
長老、祭司長(サドカイ人)、律法学者(パリサイ人)たち、これらサンヘドリン構成員たちから受けるものである。
多くの苦しみのあと殺されることになる。
三日目によみがえる。
❷ ペテロの反応(22~23節)
主が死を遂げられると聞いて、
ペテロは不吉な事と感じたのでしょう、師である主を「引き寄せて、
いさめ始めた」とあります。
そこには主への愛情や守りたいとの熱情が見て取れますが、
同時に彼自身の願望や都合も見え隠れしています。
主は、「下がれ。サタン」と厳しく譴責されました。
それはかつて荒野で悪魔の誘惑に会われたときに使われた断定のお言葉と同じものです(4:10)。
イエスは振り向いて、ペテロに言われた。「下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」 (16:23)
❸ 弟子としての道(24~28節)
主は弟子となる道を解き明かされます。
それから、イエスは弟子たちに言われた。
「だれでもわたしについて来たいと思うなら、
自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。
いのちを救おうと思う者はそれを失い、
わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです。(マタイ16:24-25)
気をつけなくてならないことは、
この聖句は救いにいたる条件を教えているのではないことです。
信者となることと、弟子になることとは異なります。
恵みに応答する信仰により私たちは救いをいただきますが、
もし救われた者が弟子として歩みたいのであれば、
それは自己犠牲の道を覚悟せねばなりません。
ここで動詞の時制に注目してみましょう。
アオリスト時制(決断・ある瞬間に完成される行為)が、
「捨てる」(=自己否定であり自己中心をやめること)と
「十字架を負う」(=神に自己意思を全面的に承服させること)に使われてます。
そして、現在形時制(継続・現在も繰り返される行為)が、
「ついて来なさい」(=日々の実践で神の御心を歩むこと)に使われています。
これら動詞の使い方から教えられることは、
自己の意思や願望などの執着を全面的に主におささげする献身の行為は、
生涯のどこかで明確に決断せねばならないというものです。
その後は、
生活の至る場面でその献身の選択を繰り返すのが弟子の歩みであることです。
人は、たとい全世界を手に入れても、
まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。 (16:26)
この聖句は、
日本へ宣教にやって来たフランシスコ・ザビエルが若い時に神への献身を決意するに至ったものとして有名です。
彼が上陸した鹿児島の港には御影石の記念碑が置かれてあり、
その石碑にこの聖句が刻まれてありました。
彼が万里の波濤を越え来日し、いのちを捧げたがゆえに、
戦国時代の多くの日本人がまことのいのちを見出したのです。
歴史に名を残したからでなく、
主に従った献身の生涯ゆえに、
来たる世にあっても彼には大いなる報いが約束されていることでしょう。
使徒パウロは、殉教する直前に次の言葉を残しています。
「今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。
かの日には、正しい審判者である主が、それを私に授けてくださるのです。
私だけでなく、主の現れを慕っている者には、
だれにでも授けてくださるのです 」(2テモテ4:8 )
「義の栄冠」という報いは、
ザビエルやパウロといった功労者だけに備えられたものではないのです。
「主の現れを慕っている者にはだれにでも授け」られるものです。
栄光の報いを目指して、弟子としての道を進もうではありませんか。
カトリック教会の教皇に聖書的根拠があるでしょうか
マタイ16章13~20節
「弟子信仰告白」
~マタイ福音書連続講解説教42~
メッセージノートと聖書本文ははこちらから:
http://wdx.hosannamin.org/whatsnew/view/6132042-1
{メッセージの抜粋}
16章は弟子訓練の章です。
十字架まで1年を切った段階にあり、
主は12弟子だけを連れて、ユダヤの地を離れてのリトリートに赴かれます。
今回はピリポ・カイザリヤでの弟子訓練の記録です。
そこはヘルモン山の雪解け水が湧出して、
バニヤス川(ヨルダン川の源流)となっている場所で、
偶像のパン神が切り立つ崖に彫刻された異邦人の地でありました。
❶主イエスへの信仰告白
主は弟子たちに、「あなたがたはわたしを誰だと言いますか」と問われます。
数年間、主と共に生活をしてきた弟子たちの見解と信仰とが試された瞬間です。
『シモン・ペテロが答えて言った。「あなたは、生ける神の御子キリストです。」 』(16 節)
それは、
①メシアであり、
②神の御子であり、
③生ける神なる方である、という原語の語順であり、100点満点の答えでした。
主は、「幸いなるかな、バルヨナの子、シモン」と感嘆されて、訓練が進んでいることに喜ばれました。
『するとイエスは、彼に答えて言われた。「バルヨナ・シモン。あなたは幸いです。このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です。」 (17節)
主への信仰告白とはどういうものでしょうか。
それは人間=「血肉」が明らかにするものではない
教育や説得がイエスへの信仰を生み出さない
天の父のみが、この真理へと導くことができるものです。
もし貴方が主をメシアであると告白出来るなら、
それは父なる神が貴方に啓示されたので可能となった事です。
神が貴方を選ばれたからです。
❷教会設立の預言
その告白に至った信仰者に主は言われます。
「この岩の上にわたしの教会を建てます。」
この聖句はカトリック教会にとり、その唯一性、正統性、教皇権継承の根拠となっている大切なものです。
曰く、「この岩」とはペテロを指すので、教会の土台がペテロの後継者であるローマ教皇である、というものです。
ところがこの解釈は、
ギリシア語の原語に遡って調べてみると誤りであることが分かります。
ここでの「岩」とは「ペトラ(女性名詞)」であり、岩山のことです。
ヘルモン山の麓にある高い岩山が、彼らの目の前に聳えていました。
一方、ペテロ・ペテロス(男性名詞)とは石ころであり、
バニヤス川の川床に転がっているものです。
ペテロの名はその石ころを意味したものです。
旧約聖書では、
「岩」がたとえで用いられた場合、それは必ず神かメシアが意味されて来ました。
この文脈を踏まえても、ここでの「岩」とはペテロでなく、イエスご自身のことを言われているのが分かります。
❸ペテロの使徒首位権を確立
主はペテロに、「あなたに天の御国のかぎを上げる」と言われて、
将来設立されるキリスト教会の進展に大きな役割を担う者とされることを約束されました。
ここにある「御国」とは、
「奥義としての御国」(マタイ13:11)、つまりキリスト教界のことです。
ペテロは、人々を教会へ導くパイオニアとなるというのです。
歴史上、どのようにしてこの預言が実現されたでしょうか。
福音は、「エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまでわたしの証人となる」(使徒1:8)との主のお言葉通りの伝播経路を辿りますが、
各展開のステップにおいてペテロがキーパーソンとして活躍しているのです。
エルサレムとユダヤ人に(使徒2章)
サマリヤ人に(使徒8章)
異邦人・コルネリオ(使徒9章)
さらにペテロには、
使徒的権威として正典(霊感された聖書の言葉)を定める者とされる預言が続きます。
「わたしは、あなたに天の御国のかぎを上げます。
何でもあなたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、
あなたが地上で解くなら、それは天においても解かれています。」 (19節)
「つなぐ」とは、禁止を表し、
「解く」とは、許可を表すラビ用語です。
彼の言葉が神的権威を持つものとされるというのです。
彼が後に書いた書簡は新約聖書の中に『ペテロの手紙』としてその2巻が納められています。
さらにその聖書記述者となる神的な権威は彼個人だけでなく
、弟子集団に与えられることになります(マタイ18:18)。
マタイ16章1~12節
「弟子訓練の必要性」
~マタイ福音書連続講解説教41~
メッセージノートと聖書本文ははこちらから:
http://wdx.hosannamin.org/whatsnew/view/611241
{メッセージの抜粋}
マタイ16章は弟子訓練の章と言えます。
① 1~12:弟子訓練の必要性が露呈
② 13~20:弟子の信仰告白
③ 21~28:弟子への受難告知
主と弟子たちは、この日も舟でガリラヤ湖の向こう岸(5)へ行かれました。
生活と伝道の根拠地であるカペナウムを離れて、
彼らだけで寂しいところへ退避し、弟子訓練に集中するためです。
主の地上生涯は、すでに十字架までの1年のタイムリミットを過ぎてしまっています。
ご自身が天に引き上げられてから、
弟子たちだけで産声を上げたばかりのキリスト教会を背負わねばならないのです。
弟子たちの双肩にかかっているので、主の訓練にも力が入ります。
舟の中で主は、
「パリサイ人やサドカイ人たちのパン種には注意して気をつけなさい」(6)と弟子たちに言われました。
「パン種」がたとえで用いられた場合、
旧約聖書でも、新約聖書でも例外なく罪とか、その影響力を意味してきました。
弟子たちは当然そのように解釈するとの前提で主が語られたのです。
ところが滑稽なことに、弟子たちは、パンを充分に持参してこなかったのを知られた主が自分たちを咎められたのだと、勘違いしてしまいました。
両者には、着眼している方向性に大きな隔たりがあったのです。
主が言われた「パン種」とは、「教え」のことです。
「パリサイ人のパン種」〜彼らは、イエスが悪霊に憑かれていると結論づけました。
己の願望・欲望が優先されると真理に対して盲目となり、イエスを排除する教えを植え込みます。
「サドカイ人のパン種」〜彼らは、イエスが神殿を否定していると結論づけました。
神殿を中心とする祭司制度は本来の礼拝から大きく外れて、
彼らの懐を潤すビジネスとなっていました。
これらの偽りの教えから弟子たちを守るために主が腐心されておられた時、
弟子たちにとっての最大の関心事は、「今日は充分な夕食にありつけれるだろうか」
といったものだったのです。
主の弟子とされたい私たちも、着眼点がどこを向いているかを確認しましょう。
正しい方向性を得るためには、
1) 単純な信仰によります。
当時の弟子たちには衣食住の課題が常について回りました。
今日の多くの私たちもまた経済的な戦いから逃れることはありません。
「日用の糧を今日も与えたまえ」
~主に対しての信仰の祈りをささげましょう。
私たちの生活の糧も、それを得るための働き、
土台となる健康や人間関係においても主の助けを信じてこのように祈るのです。
金銭という目に見える保証でなく、主に信頼することを学びましょう。
『私の神は、キリストイエスにあるご自身の栄光の富をもって、
あなたがたの必要を全て満たしてくださいます。』 (ピリピ4:19 )
2) それは注意深い警戒によります。
主が「パン種に気をつけなさい」と言われたものは、
人々が簡単に陥りやすい神学でした。
パリサイ主義は、個人の熱心さ、まじめさに基づいていています。
サドカイ主義は、組織の強固さや偉大性に基づいています。
今日の信仰者も、己の義に頼ったり、
大きな組織に属するゆえの安心感があるとしたら、
注意が必要です。
真の義と平安は、主ご自身がが与えて下さるものです。
今日も主に信頼を表明しようではないですか。
「志の堅固な者を、
あなたは全き平安のうちに守られます。
その人があなたに信頼しているからです。」(イザヤ26章3節)
偕楽園の好文亭にて
先週、山形県の大江町教会へした礼拝説教の要旨をまとめたものを紹介します。
説教題: 「よくなりたいか」
聖書箇所: ヨハネ福音書5章2ー9節
このベテスダの池に佇む足の不自由な男の癒しの記事は、
今から30年以上も前、
私が高校1年生の時に
東戸塚教会での特別伝道集会で語られていた物語した。
その時は、
小学校低学年時に数年間日曜学校に出席してからの、
初めてとなる教会出席でした。
そこで「天啓」とも言えるメッセージに大きな衝撃を受けて以来、
今日まで私の教会生活が続けられています。
当時のウブな高校生に拓かれた啓示とは、
①私のことを知っておられたお方がおられた。
「イエスは彼が伏せっているのを見、
それがもう長い間のことなのを知って」(6節)
思うように歩めずに自分自身に失望しては他者を非難している病人(7節)の姿は、
見事に当時の私を照らし出しました。
劣等感と自己嫌悪に陥り、
自分で自分の事が分からなくなっていた私は、
その実情を全てご存知の上で
それを言い当てられたお方の存在に圧倒されたのです。
②私に語られたお言葉があった。
「よくなりたいか」(6節)
ⅰ それは単純な問いかけでした。
よくなれない理由は数多く上げることができた(7節)中で、
主はたった一つのことを聞かれておられます。
ⅱ それは本来的な問いかけでした。
37年間の病の現実は、彼から回復の希望を奪い取っていた。
俗信(4節)に藁をもつかむ思いでベテスダ池に留まっているのは、
他に居場所がないからであり、
癒しのためという本来の目的は忘れていたのだ。
ⅲ それは自己存在に関わる問いかけでした。
鉛のように重たい現実の前に、
良くなれることなんて誰に聞いても無理と言われたであろう。
家族、友人、教師や上司の意見でなく、
「あなたはどうしたいのか」という、あなたの意思に向けられた問いであった。
③私に決断を迫った瞬間であった。
「イエスは彼に言われた。『起きて、床を取り上げて歩きなさい。』」(8節)
この主のお言葉はあまりにも文脈を超越した、
唐突なものでした。乱暴とも言えるかもしれません。
彼に決断を迫るものとなりました。
知識と信仰との間にはギャップ・断絶があります。
人が主の御業に与るためには、
貴方の理屈や経験、
蓄積されて来た自負心などから
飛躍・ジャンプしなくてはならないのです。
当時の私は、聖書知識も教会生活もないに等しい状態でした。
人の説得力からでなく、
天的に迫り来るものを感じたのです。
その招きに応答するなら、
これまでの生き方とは全く別個で別次元の世界が拓かれるのではないだろうか、、
そのように感じながら、
押し出されるようにようにして挙手決心へと導かれていました。
その決心は今振り返って見ると、
私の生涯で最大に意義のある、
最善のものでありました。
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