後藤健二さんの死は無駄でない⑴
Feb
3
「昨年10月末にシリアに渡航したとされる後藤さんからは、ちょうどその時期、毎月1回の掲載を予定していた連載コラムの最初の寄稿「戦争に行くという意味」を頂きました。これが最初で最後のコラムになってしまうとは、想像すらしていませんでした。
後藤さんの霊は、今、神様の御許(みもと)にあります。数カ月にわたる恐怖、不安から解放され、安らぎを得ていることでしょう。
「そのとき、わたしは玉座から語りかける大きな声を聞いた。『見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである』」(黙示録21:3〜4)
聖書は、天国についてこのように語っています。後藤さんは、たくさん流した涙がぬぐい去られ、悲しみも嘆きもない場所にいるのだと思います。
しかし、この世に残された私たちには、それを知りつつも、後藤さんを失った悲しみが残ります。もう後藤さんにこの地上で会うことができないのか、彼の口から話を聞くことはできないのか、もう二度と別れの握手を交わすこともできないのか・・・。
後藤さん、どんなに苦しかったでしょう、どんなに寂しかったでしょう、どんなにつらかったでしょう、どんなに無念だったでしょう・・・。
昨年5月のインタビュー記事を何度も読み返しました。あの時もシリアに向かう前日でした。「今回は、今までで一番危険かもしれない」。そう言って、少し緊張した横顔を見せた彼を今も忘れません。それでも、数週間後に帰国した後藤さんは、いつものように時折SNSやメールを通して連絡をくれました。テレビでの出演も多く、元気で活躍している姿に安堵したものです。
別れ際はいつも「気をつけてくださいね。またお会いしましょうね」と声を掛けました。後藤さんは決まって「大丈夫。無理はしないから。またお会いしましょう」と笑顔を見せてくれました。そう、あのシリア入国前に見せた「必ず生きて帰りますけどね」と語ったあの笑顔です。誰にでも安心感を与えるような温かなあの笑顔に、もう会うこともできないと思うと、寂しさで胸が張り裂ける思いです。
インタビュー記事の中で、「もし、取材先で命を落とすようなことがあったとき、誰にも看取られないで死ぬのは寂しいかなとも思いました。天国で父なる主イエス様が迎えてくださるのであれば、寂しくないかな・・・なんて、少々後ろ向きな考えで受洗を決意したのは事実です」と語っていた後藤さんを思い出します。この言葉を話し終えた後、少しだけ寂しそうな顔をして、クスッと笑ったように見えました。昔のことを思い出して恥ずかしかったのか、それとも「そんなこと、起こるわけないだろう」と自答したのか・・・。
荒い岩砂漠の土の上にひざまずき、ナイフをかざされ、死を前に何を祈り、何を思ったのか・・・。今は、推測しかできませんが、少なくとも彼が最期に遺した「この内戦が早く終わってシリアに平和を・・・」という言葉に嘘はないと思います。
「関心を持ち続けてほしい。シリアで起こっていることは、『遠い国で起きていることで、われわれ日本人に関係ないこと』ではないということを忘れないでほしい。なぜ僕がカメラを向けたときに、シリアの人々は話をしてくれるのか? それは、彼らがその映像を通して、日本にいる人たちに訴えたいことがたくさんあるからなのです」と、多くの講演会で後藤さんは語っていました。
彼が命を懸けて伝えたかったのは、イスラム国の恐ろしさでも、政府への不満でもなく、「なぜ、こんなことが世界で起きてしまっているのかを真剣に考えてほしい」ということではないかと思うのです。「分かち合い・奉仕・愛」の気持ちが世界中の人にあれば、あんな残忍な事件は起きないはずです。われわれ一人ひとりにできること、それはあらゆる状況下で暮らす人々のことに「関心」を持ち続けること。そして、隣人を思い、祈ることだと思います。
「後藤さんはキリスト者ですか?」と、初めて聞いた時のことを思い出します。「そうです。不敬虔極まりないキリスト者ですが・・・」と、照れたように笑った顔。
後藤さん、あなたは不敬虔なキリスト者なんかじゃありません。立派なジャーナリストであり、立派なキリスト者でした。私たちは、あなたを誇りに思います。
「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」(ヨハネ15:13)
後藤さんと天国で再会する日を期待して。新聖歌508番「神共に在(いま)して」を心静かに賛美します。
また会う日まで また会う日まで
神の守り 汝身(ながみ)を離れざれ」
以上はクリスチャニティトディの記事からの引用でした。
……………………………………………………………………………………
後藤健二さんが人質となって身代金を要求されて以来、
この件に関するニュースがどの日本メディアでもトップとなっているようです。
処刑されて以降は主な関心先が、国内外の邦人保護であるようです。
テロリストらが日本人一般を標的にするような表現があったため
いかに未然にテロや誘拐を防ぐか、
安部さんは「指一本も触れさせない」なんて勇ましくもおっしゃいました。
世間の関心が平和と安全構築に向かう中で確認したいことを
上の記事はついているように思いました。
それは後藤さんの視線の行き先です。
その優しい眼差しは
最大の戦争被害者である子どもたちに向けられていたようです。
彼らが直面している現実の困難さとはどういうものか…
その中にあって、どんな生活をしてどんな顔をして生きているのか…
大人たちが始めた紛争に平和な国に暮らす我々はどう向き合い、
どう行動を起こすのか…
そんな問いかけを彼は報道を通じて
我々に投げかけてくれているように思えるのです。
この問いかけに我々が真摯向き合うとき、
彼の死は無駄ではなかったと言えるような気がしています。