本堂の右手に屋根をかけられた倒木と石碑があった
巨木は松の木であり、立て看板には
「弘法大師 五鈷掛の松
弘法大師が中国より帰国の途次三鈷と五鈷を投げられ
三鈷は高野山の松にかかり五鈷が当山のこの松にかかり
真言道場になりました」
とかいてある
石碑は良寛の書で
「国上の大殿のまえの一つ松上つ枝は照る日をかくし
中つ枝は鳥を住ましめしづ枝は甍にかかり時じくぞ
霜は降れとも時じくぞ風は吹けれども千早ふる神のみ代より
ありけら可やあやしき松ぞ国上の松は」
と刻んであります
大きな屋敷の端には「潟」があり、庭園の借景となっている
今回は撮影出来なかったが、春になったら再度訪問し
庭園の撮影とこの家の歴史を尋ねてみたいと思っている
藩米の輸送方法はいかばかりか
冠木門と屋敷を囲った黒塀
この情景で屋敷の大きなことが分かる
国上寺の周りには、石仏や地蔵尊が沢山安置されている
いずれも、年代を感じさせる風情を醸し出している
昨日、アップした米蔵の内部を舞台に「堀川久子」女史の
パーフォマンスが繰り広げられる
残念ながら、公演の撮影は禁じられお見せできない
米蔵は三つに仕切られ、その内の二つが舞台である
上の部屋は床と木の椅子が一脚
奥の部屋には梯子が立てかけられ、大きな石が床に置かれ
天井から「鮭」がぶら下げられている
明り取りの窓が天井近くに設けられている
乙子神社を少し登ると、国上山(くがみやま)の中腹に
「国上寺」(こくじょうじ)がある
本堂の向かって右にこの小さなお堂がある
立て看板をよく見ていないので、一切経蔵か鎮守堂か
分からない
詳しくはインターネットでこの寺の由緒がホームページに
なっています
江戸時代から続く大きな旧家「二宮家」
近郷の庄屋をつとめていた
米を集荷して、藩米として納め湊へ搬送していたであろう
この大きな米蔵を使って、「堀川久子」女史の
パフォーマンスが
行なわれた
あられ、みぞれ混じりの寒い冬に
良寛ゆかりの国上寺の下に位置する「乙子神社」
縁起については勉強不足で画像のみです
小さな神社ですが、式内神社でしょうか
昨日、アップした松の木
直接、良寛禅師には関係ありませんが現在の松の木の
脇に歌碑があります。これに因んで
江戸末にこの松と思しき画があります
参考までに、このような存在感のある「松」でした
但し、この土地の「字 あざ」は『石瀬』
遺された本の画に書かれている地名は『石地』です
近隣を尋ねてこの違いを確認していますが、今の所
この違いは検証されていません
『石地の松』にはお伊勢参りの女性の話が伝わり
その女性は「松の精」であったそうです」
良寛
江戸の中期後半に存命し、地方で生涯を送った禅師
沙門などとも表現される
近隣で喜捨を受け、庇護されて生活をしていた
書や和歌に
優れたものが多く残され、多くの研究者、好事家が
現在も探求・研究の対象とされている
当時の環境を垣間見ると、地主や庄屋など管理者側の
人々は書類を書く(作成する)為に書や漢学を勉強していた
その、数軒には万葉集の写本数種が存在し、良寛禅師は
それらや、漢籍を借りて勉学に励んでいた様子が
窺がえる
石瀬の松
江戸時代には素晴らしい枝振りの古木が存在していたが
枯損して、現在の松が植えられた
脇に良寛禅師の歌碑が建てられている
恐らく、松尾芭蕉もこの脇の北国街道を通り見たこと
であろう
江戸末に描かれたこの松と思しき画が残されているので
11日にお見せします
昨日、アップした橋から下流に目を向けると、近年架けられた
新しい橋を見る事が出来る
橋の名前は「柳都大橋」
昔、と言っても昭和49年頃までは街中を「堀」が
存在し、両岸に多くの「しだれ柳」が植えられていた
その後、全ての「堀」は埋め立てられ、道路となった
風情が失われたが、その柳並木を偲んでこの橋の名が
付けられた
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